第十幕:雄弁なる真鍮
やあ、君。物事はうまくいかない。
どんなに計算して動いたとしても、そこには何かしらの人の思惑が絡む。
未知なる部分というヤツだ。
神さまでもない限り、君にも全てを理解して一本道を歩くことはない。
すんなりいった、苦労はしなかったなんてない。キツかったことを忘れているだけだ。ボクらの脳はキツイことの形を変えていく。別の何かにね。
さてーー1592年8月のヴェネツィア共和国。ピサ大学の教師が着るガウンに身を包んだガリレオは、貴族ドメニコ・モロジーニの邸宅でパトロン集めをした。
自分がどんなに優秀か、ピサ大学での講義やレポートなどを説明した。
ダンテの書いた『神曲』に登場する悪魔ルシフェルの大きさまでも推測してみせて、周りの貴族たちを感心させた。
特に、このサロンの主催者ドメニコ・モロジーニには面白がられた。
「ピサからの旅人よ。我がサロンに入り込んだ無礼を許そう。貴公が、あの土地から持ち出した話は面白い。
だが、他に役立つものはないのか。
文学の話は雑談でしかないからな。
吟遊詩人のマネごとにしかならん。」
ガリレオは、モロジーニの『吟遊詩人』という嘲りに頬をひくつかせた。
それでもガウンの懐から、定規を取り出した。重々しい真鍮製の二本足の。
表面には血管のように細かく、
目盛りが刻まれている。正確にね。
「ドメニコ様。詩人は言葉で夢を見せますが、私はピサ大学から持ち出した『知性』で現実さえ支配してみせましょう。
例えばーー」
彼はトスカーナ地方のピサで使用されていた独自の通貨を見せた。メディチ家の権威を表す通貨だが、フィレンツェ公国の国外では換金が難しい。
ヴェネツィア共和国にも、独自の通貨があった。当時のイタリアは自分たち独自の通貨を流通させたがって、めちゃくちゃだった。
自重なんてしない。
ヴェネツィアのドゥカートからドイツのフローリン、フランスのエキュ、さらにはオスマン帝国の銀貨が入り乱れ、複雑な換算に商人や書記官が頭を抱えるんだ。
「この金の計算に、何時間かけるおつもりです?
この真鍮の脚を、現在の相場に合わせて広げる。ただそれだけです。
一万フローリンが何ドゥカートになるか、暗算の天才よりも早い。伝令神のヘルメスが世界中の空を走るように。
しかも正確に『目』が教えてくれます。」
ガリレオは、ピサの学生たちに計算させた比率のデータを頭に浮かべながら、コンパスの蝶番を滑らかに動かした。真鍮の脚が、ロウソクの光を弾いて金色の線を引いた。
「見てください。この目盛りを合わせる。」
彼は自分が持ってきた道具を触ってた。
「すると、右の脚の数字が左の脚で別の通貨に化ける。」
ドメニコは、ここでガリレオを止めた。
「便利だが、なぜ真鍮をつかった?
別の素材にしたら、たとえば安価な木材を使えば軽くて持ち運ぶのに便利だろうーー」とね。
すると、ガリレオは勝ち誇った表情をドメニコに見せた。
「真鍮であることに意味があるのです。木製の定規ならヴェネツィアの湿気で歪み、あなたの利益を数パーセント目減りさせるでしょう。
だが、この硬質な金属は、あなたの財産を寸分の狂いもなく守り抜く。」
ドメニコの目が、それまで見せていた『余興を楽しむ老人』から、獲物を狙う『冷徹な投資家』の目へと変わった。
「ほう……。為替の『迷宮』を抜ける糸口になるというわけかーー」
「左様です。あなたの時間をムダにさせない。この道具が可能にするのです。」
ガリレオは不敵に笑った。
その真鍮の道具には、ピサ大学でレポートを奪われた学生たちの恨みなんて、微塵も感じさせない。
清々しいまでの輝きがあった。
この為替計算のデモンストレーションは、瞬く間にサロンの空気を変えた。
ドメニコ・モロジーニは、自らその真鍮の脚に触れて凝視している。
「驚いたな。ピサからの旅人が持ってきたのは、空想の翼ではなく、現世の鍵だったか。早速、試させてもらう。」
ドメニコは満足げに頷き、周囲の貴族たちを見渡した。
彼らもまた、この『真鍮のソロバン』が自分たちの蔵にどれほどの富をもたらすか、その可能性に目を輝かせていた。
自分たちも欲しかったが、すぐに飛びつくのはマナー違反だった。
「ガリレオ・ガリレイ。貴公を単なる客人としてもてなすのは、ヴェネツィアの損失だ。ぜひ吾輩を貴公のパトロンにさせてくれ。」
ドメニコの言葉にガリレオは深々と頭を下げた。が、その口角は隠しきれない優越感で歪んでいた。
ピサでは『権威に反抗する変わり者』として扱われたが、ここでは『国家を支える技術者』として黄金の輝きを放つことができた。
知識とは、場所を選べばこれほどまでに高く売れるものなのか。真鍮のコンパスはガリレオよりも雄弁にサロンの中で語った。
だが、その喧騒の渦中、ガリレオは背後に刺さる『別の視線』を感じていた。
拍手喝采を送る貴族たちの陰、サロンの入り口付近に立つ一人の男。
華美なヴェネツィアの服とは一線を画す、硬い革の匂いをさせた軍装の男だ。
その男――ジョヴァンニは、かつて師の指先を求めて震えたあの白い指を、今は重い剣の柄に預けていた。
ガリレオは久しぶりに会う弟子である友に微笑んだ。
こうして第十幕は、軍装の男により幕を閉じる。




