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8話「大牙、襲来」

 朝の等圧線は、はじめから不機嫌だった。東から押し込む線が南の肩でひしゃげ、北の尾根でせり上がり、城の真上で不意に詰まる。詰まった線は音を持つ。歯噛みの音だ。魔力線はさらに荒い。郊外の古塔で一度、無理に寄せられた糸は、ほどけたのではなく、切断面を隠していただけだった。切り口は雨で膨れ、乾けば縮む。縮むたびに、空の中で短い舌打ちが散る。散った舌打ちは、やがてひとつに縒り合わさる。——百年渦《大牙》。黒い舌ではない。白い歯。噛むと決めた獣の口の形。


 《風読》を立ち上げると、視界の端に鋸歯が現れた。渦核は南々西に身を伏せ、王都の上空を舐める気配を省いている。舐めずに噛むつもりだ。舌の手順を飛ばして、いきなり犬歯で——それが《大牙》の癖。百年前の巻に記された余白の間投詞は、そこに並んでいた。「舐めぬ」「ためらわず」「二歯」。二本の犬歯が、ほぼ同時に降りる。一本は城の東肩、もう一本は市場の西端。間にあるのは、屋根、旗、皿、喉、舌、灯、人。どれも噛み砕くには十分やわらかい。


「今日は詩じゃなく、段取りから始める」私は塔の縁を叩いた。「舌列、開閉順序を“雁行—逆雁行—中抜き”の三段ローテに。一巡につき七呼吸。喉は第一段で半閉、第二段で開放、第三段で逆止を固める。皿は——」

「腹一杯を前提にしないこと」グラールが帳面を胸に抱えて現れた。「広場下の浅皿はすでに六割。昨夜の余韻が残ってる。深皿への逃し管、一本増設の指示を出した」

「よく動く帳面は、詩の代わりになる」私は頷く。「避難導線は?」

「エミがもう描いた。子どもが読める矢印。台車は舌根を潜る。王女の印はまだ?」

「扇は北で開いている。“避難に権威を使う”の札をセレスが持った」


 鐘を一打。市場の舌が低く笑い、金具が一斉に唸る。ベルンの作った蝶番は、鳴らないことを職業にしている。鳴らない蝶番の音が今日は聞こえる。空気そのもののきしみが、金物に移る。舌一本ごとに、背後の剥離泡が生まれ、育ち、誘導され、潰れ、また生まれる。誘導の軌道を間違えると、泡は屋根へ戻る。戻った泡は牙の舌先になる。牙は泡を好む。泡を噛むと、泡の破裂音が拍子になる。拍子が牙を鼓舞する。悪循環の輪郭が視える。


「舌一番、開」私は合図を切り、通りの南端の短壁を寝かせた。舌の背で風が剥がれ、屋根上の圧がわずかに落ちる。低い音。続けて、舌三番、閉。舌五番、開。七番、半開。間の舌は息を止める。連続壁なら一度に受けるはずの荷重を、舌は分割して受けて、都市の皮膚全体に散らす。散らすという字は「雨」に「とり」と書く。雨を鳥の群れに化かす。鳥は噛まれにくい。


 遠い地平線で白が反転した。光ではなく、圧の反転。空気の密の線が一気に詰まり、魔力線がそこで千切れる。《大牙》が肩を入れた。等圧線の一部が、爪で引き裂かれた布のように裂けて波打つ。裂け目から風が降りる。降りる、という言葉では足りない。落ちる。落ちる風は重い。重い風は、先に地面を探す。見つけたのは市場の端の屋根だった。布の後ろで空気が膨らみ、棟がひとつ、悲鳴を飲み込む。私は鐘を二打。舌列が“逆雁行”に切り替わり、剥離泡の走路が南東へ斜めに逸れる。屋根の布は浮きかけ、笑って、降りた。


 下水の吐口で、喉が吠えた。吠えた、と言っても音はない。逆流弁の革が圧に噛み、泥の匂いが半呼吸ぶんだけ遅れて抜けた。喉は黙って働くのが好きだが、今日ばかりは肺の奥まで届く手応えがこちらにも伝わる。喉が閉じるたび、皿の底が一度だけ低く鳴る。鳴るたびに、街の骨が「まだいける」と答える。


「逆雁行、二巡目」私は《風読》の線を胸骨に写し、等圧の波のうねりに合わせて舌を起立・斜傾・半開と巡回させる。指示は短く、合図はさらに短く。市場の舌係、屋根係、喉係、皿係が、歌うような沈黙で連動する。沈黙の歌は、最前線にも届く。


 その最前線に、セレスはいた。城の東肩——《大牙》が牙を落とすと予測された線上、扉がひとつ、兵の背で塞がれていた。避難導線は扉を必要とする。扉は、壁の意志だ。意志を通すのは扇の仕事。セレスは扇を閉じたまま進み、護衛の盾を横に押しやり、扉の閂に指を掛け、開いた。驚いたのは兵ではなく、群衆だった。王女が扉を開ける——その行為は噂より速い。扉の向こうに、避難の矢印が一本、光鍵で浮かび上がる。王家の権威は威圧の道具ではなく、歩行の道具になった。歩く速度が上がる。走らない。歩く。歩くほうが速い——エミの声が背後の通りで繰り返され、泣きじゃくる子の手が布に包まれる。小さな手は汗で濡れている。濡れた手は滑る。滑るから、大人の指は“ざらつき”の符を指先に忍ばせる。握りやすく、離れにくい。泣き声は短くなり、代わりにしゃくり上げの拍子が避難導線に刻まれた。拍子は、術式の外側のリズムだ。


 《大牙》は舐めずに噛む。同時に二歯。西:市場の外縁。東:城の肩。二本の犬歯のあいだに、空の舌がほんの一瞬だけ顔を出す。そこに、リザの“逆位相”が刺さる。術師団の屋上で彼女は短い歌を支点に式を編み、〈界層薄膜化〉〈音相干渉〉〈符間遅延〉を、もう一段、細く刻んだ。逆位相は刃物ではない——音叉だ。噛み降ろす歯の周期の半拍先に、薄い振動の枝が差し出される。歯はそれを噛まない。噛みづらいものの前では、獣も舌を探す。探した舌は、舌を返され、剥離泡に絡め取られる。泡はひとつ、またひとつ、屋根から遠い空で割れた。


 だが《大牙》の腹は広い。犬歯の影に並ぶ臼歯の列が、低い唸りで押し寄せる。噛むではない、すり潰す流れ。均一な圧のつらなりが街全体の上にのしかかる。連続壁なら、ここで一気にへし折れる。舌列は——立っていた。立って、順に倒れ、また立ち、間を開け、通し、抱え、ほどく。私は開閉順序を“中抜き”に移行させ、舌二・四・六を半開、奇数を寝かせ、五を反らせる。剥離流は舌の間をジグザグに抜け、屋根上の圧が点描になる。面で噛まれない。点で舐められる。点は、笑える。


 喉が吠え続け、皿が息をし続ける。吐口の一部で泥が巻き上がりかけるたびに、ベルンの革縁がぴたりと沿い、逆止の円が締まる。弁は音を出さないが、匂いはある。湿った革と油と泥の匂い。匂いは記憶の短い釘だ。釘が板を押さえる。板が灯の線を支える。灯が合図の音符になる。エミは合図板の前で息を整え、泣く子の額に手を当て、短い歌をひとつ、渡す。高・低・高。三音だけ。三音は、小さな胸に収まる。収まった三音が、足を動かす。


 《風読》の視界で、市内の圧低所がいくつか新しく生まれた。屋根の段差の陰、路地の曲がり、台所の煙突の口。圧の“谷”は牙の舌の休み場になる。休まれる前に、舌の余白を出す。私は予備の短壁を二枚、路地の角に突き立てた。笑えるほど小さい舌。小さすぎて、役に立たないように見える。見えるから、よく効く。風は見えるものに気を取られ、見えないものを忘れる。忘れたところに、逃げ道が通る。


 城の肩では、セレスが扉を開け続けていた。扉はひとつ開けると、次の扉の重さが軽くなる。重さは権威で、軽さは信頼だ。彼女は扉をでたらめに開けるのではない。避難導線の矢印を追い、狭いところに先回りし、兵を並べて“壁”を作り、その壁の片側だけを開ける。壁は通すためにある。止めるためではない。通された群衆は、走らない。走らない群衆は、倒れない。倒れない群衆の上に、牙は落ちない。落ちる場所がないのだ。


 《大牙》は苛立った。空の白が一段、硬くなる。等圧線の密がさらに詰まり、魔力線が歯擦音みたいな短い悲鳴を何本も上げる。渦核がためらいを捨て、二歯を四歯に増やす。四点同時。城東、城南、市場西、工区北。鋏。——いいだろう、と私は胸の中で答えた。鋏には、紙を。紙には、折り目を。


「舌列、第四プロトコルに移行。——“梯形ていけい”」私は鐘を三打し、合図を緊く畳んだ。舌の根元に据えた金具が一斉にわずかに角度を変え、列全体が梯子の段のような並びに移る。段のずれが、剥離泡の移動に位相差を与える。位相差は、牙の歯並びを狂わせる。歯は綺麗だと噛みやすい。乱れていると、噛みにくい。美しい噛み合わせは、今日に限って、敵だ。


 同時に、皿と皿のあいだの細い“管”にリザの〈符間遅延〉が重ねて投じられる。水の動きは空気ほど気紛れではない。遅延は粘りになり、粘りは“数の重さ”で牙の衝突から街を引き離す。引き離すあいだに、喉が閉じ、灯が一つ増え、旗が息を吸い、避難導線の足が階段を降りる。


 東の空が一瞬、白く閃いた。稲光の白ではない。圧の白。城壁の上で空気が裂け、牙が降り、石が唸る——はずだった。唸らなかった。石はため息をついた。ため息の中に、扇の薄い風が混じる。セレスの扇は、今日は叩かない。あおぐ。煽いで、風の通りを変える。王女の扇は術式ではない。だが、人間の群れの圧は術式に似ている。扇で群衆の密度の勾配を撫でると、空の勾配もわずかに揺らぐ。揺らいだ隙に、逆位相が刺さる。


 市場の西では、屋根の布が一度だけ“笑い損ねた”。笑い損ねは危ない。笑い損ねの瞬間に、布は剥がれたがる。私は通りの舌五番を過敏に寝かせすぎていた。寝かせすぎは、好意の押しつけに似ている。風は過剰な親切を嫌う。嫌われる前に角度を戻し、ざらつき板を一枚だけ厚いものに交換した。舌の肌の摩擦の波長が変わり、泡の腰が重くなる。重くなった泡は跳ねない。跳ねない泡は、いい。


 避難の列で、子どもが一人、転んだ。エミはその一瞬を見逃さない。泣きじゃくる小さな肩を片腕で抱え、もう片方の手で合図の板を叩く。高・間・高・低・低——「間を空ける」の符。前を歩く大人が自然に半歩ずれ、空いた空間に子どもが吸い込まれる。吸い込まれたあとは、木の皿に落とすだけだ。配給所の前の浅皿は、このために今だけ水を抜いてある。皿は水だけでなく、体と声も受け止める。


 《大牙》は、噛み切れないものに出会うと、舐めるほうへ戻る癖がある。戻り舌は、早い。予告なし。私は《風読》の波形の肩の傾斜でそれを予期し、舌列に“逆鱗”の形を一瞬だけ作った。舌の端の端が、向こうの舌に挑発的に触れる。挑発は短く。長い挑発は、噛み返しを呼ぶ。短い挑発は、笑いを呼ぶ。風は笑いに弱い。笑った風は、噛まなくなる。噛まなかった一拍のあいだに、喉が閉じ、皿が受け、旗が笑い、灯が歩き、扉が開く。


 城南の工区北では、数字が遅れていた。風務局の板の前に年長が立ち、額の汗を袖で拭う。彼は数字を愛しているが、今は数字が人に追いつけていない。追いつけない数字は、邪魔になる。彼は板を抱えて位置を変えた。配給所の釜の側、湯気の匂いの近く。数字は飯の前で信じられる——私が言ったとおりに。板を見上げる顔の温度が半度上がり、列の足踏みがそろう。揃いすぎないで、揃う。数字が現場に追いついた。


 渦核が一度、深く沈み、すぐに跳ねた。牙が四から二に減り、間に舌が急に長く伸びる。——最後の大きな舐め。百年前の巻にも、これがある。噛みに失敗した《大牙》は、最後に長い舐めで街をまとめて味見し、未練を残して去る。味見をさせない。私は胸骨で等圧線の長い起伏を受け止め、《風読》の逆位相を伸ばす。リザの術式がすでにそこを待っている。〈符間遅延〉に〈人声重畳〉が薄く乗り、市井の四隅で子どもたちの三音がずれる。高・低・高——高・低・高——高・低・高。どれも少しずつ、違う。違う音の群れは、渦の舌の“迷い”を増やす。迷った舌は、眠い。眠い舌は、可愛い。可愛い舌は、噛まない。


 最後の舐めは、街の屋根から三歩上のところでほどけた。ほどけた風は旗の縁をくすぐり、風鈴の舌がひとつ、笑った。笑いは、長引かせない。笑いは、締めに向いている。私は鐘を一打。舌列の角度を“整流”に戻し、剥離泡の残りを空へ逃がす。喉は逆止を固め、皿は浅く吐き、灯は減光、旗は静止。最後に、扉が閉じる。閉じる扉は、次の避難に備える「開き」を覚える。今日開いた扉は、明日は軽い。


 雨は降らなかった。雨雲はあった。牙だけ来て、舌と雨は置き去りだった。置き去りは、街にとって最良の恩赦だ。恩赦は夜に効く。夜が来る前に、張り出しの紙が濡れる心配をしなくていい。


 それでも被害はゼロではない。屋根の布が一枚、笑い損ねの皺で裂け、吐口のひとつが泥に咳をし、浅皿の縁が小さく欠けた。数を拾うのはグラールの仕事だ。彼女は帳面の欄を指でなぞり、声に出して読み上げる。〈屋根裂け・一〉〈咳・一〉〈欠け・一〉。ひとつずつ。数は小さいが、重い。重い数は、笑いが支える。配給所の釜が塩湯の匂いを街に歩かせ、群衆の声が低く戻る。戻る声のなかに、泣きじゃくっていた子のしゃくり上げが、最後の一拍だけ残っている。その一拍を、エミは掌で受け取った。「終わったよ」。短い言葉は、大きい合図だ。


 城の東肩で、セレスが扉の閂を戻す。戻す手つきはゆっくりで、丁寧だ。丁寧であることは、権威の使い方の半分だ。残りの半分は、忘れ方。彼女は開けた扉の重さを体に覚えさせ、今度は忘れる。忘れた重さは、次に軽い。軽い扉は、早い。早い扉は、命を運ぶ。


 《大牙》は去ったのか。完全には。渦核は遠くでまだ舌を丸めたり伸ばしたりしている。牙の根は深い。根が残っている限り、噛み返しはある。だが、今日の街は「噛まれなかった」。それは半分の勝利だ。半分は、明日の仕事で埋める。半分がいちばん難しい。難しいから、短い歌が要る。


 夕刻、広場で“公開報告”が行われた。数字は風務局、術の補記は術師団、名簿と印は市場。王女は短く話し、宰相は長く黙った。砂時計は横倒しのまま動かない。動かない砂は、紙より軽い。紙は今日、重い。紙に押された印——「風舌工」の名、「喉」の名、「皿」の名、「扉」の名——が、勝利の形を埋める。勝利の形は、噛み合わせの跡だ。跡は美しくなくてよい。読みやすければよい。


 夜、私は塔の上で《風読》を畳んだ。等圧線はまだ少し固いが、魔力線の千切れ目は軋みながら再結合を始めている。空は、今日の噛み合わせを覚えた。覚えた空は、次に簡単には噛まない。人は、今日の段取りを忘れやすい。忘れる前に、歌に落とす。


 リザが屋上から紙片を投げて寄越した。〈逆位相・維持可能域、再測定。四隅で短歌のばらつき、良〉。「良」は珍しい。術師団の紙に「良」がある日は、街の子が星を数えるのが早い。


 エミは配給所の片付けを終えてから、泣きじゃくっていた子を連れて塔に上ってきた。子はもう泣いていない。目の周りが塩で白い。彼女は子の手を私に握らせる。小さい。ざらつきの符の名残が、こちらの指先にも移る。

「握ってみて」

 握る。握り返す力が、相手の体の重心を教えてくる。揺れの方向、足の幅、呼吸の深さ。私は子に三音の歌を聞かせた。高・低・高。子は首を傾げ、一拍遅れて真似た。遅れは礼儀。礼儀が入った歌は、遠くへ届く。

「この子、今日の“間”を覚えたよ」エミが笑う。「泣く前の一呼吸。泣いた後の一呼吸。間があれば、歩ける」

「間がないと、噛まれる」私は頷いた。「間があれば、噛まれても折れない」


 セレスからは、扇の影に挟まれた紙片が届いた。〈扉・二十三、開閉。避難導線、遵守率九割四分。王家の兵、壁として機能——“止めない壁”〉。止めない壁。今日生まれた言葉のなかで、いちばん気に入った。壁は止めるものだと誰もが思っている。思い込みをひっくり返すのは、詩の役目であり、工の役目でもある。詩と工が噛み合うと、壁が歩く。


 宰相の動きは、今日は鈍かった。鈍い砂時計ほど、よく倒される。《大牙》という外敵がいるとき、人の陰謀は夜の隅に追いやられる。追いやられたものは腐る。腐れば匂いがする。匂いは喉が覚える。喉は黙っているが、匂いに正直だ。私は宰相の匂いを数字に混ぜないよう、板の余白に小さく×を書いた。余白の×は、後で効く。


 深夜、風はやっと詩を許した。私は欄干に額を当て、短く書いた。


 ——牙は面を望み、舌は点で返す。面を散らす舌の列、点を束ねる灯の列。喉は吠えず、皿は息をし、旗は笑い、扉は開き、子は歩く。


 明日の朝、張り出し板には新しい欄が増えるだろう。〈止めない壁〉〈笑い損ね対策〉〈逆雁行・中抜き・梯形〉。名は道具だ。名を持ったものは、奪いにくい。今日うまく働かなかった二つ三つにも名を与える。失敗の名は、呪いではなく、手順になる。手順になれば、噛まれても折れない。


 百年渦《大牙》は、今夜、王都を完全には噛めなかった。噛み損ねは、相手の恥ではない。こちらの礼儀の勝利だ。礼儀は、武器でないぶん、長持ちする。長持ちする礼儀を維持するのは、短い歌と、笑いと、帳面と、油と、扇と、ざらつきだ。ざらつきは、言い返す言葉。刃物より鈍いが、長く残る。長く残るものだけが、百年に勝てる。


 灯を落とすと、遠くの古塔の影が灰色に見えた。黒ではない。白でもない。灰は台所の色で、塩の相棒で、朝の匂いの準備だ。灰の上に、子どもが指で三音を書いた。高・低・高。書いた指に、ざらつきの符が少し残り、その残りが、次の章の蝶番になった。蝶番は濡れているほうがいい音を出す。夜露が降りる。札の糊が弱まる。扉の重さが思い出に変わる。思い出は、避難の地図の余白に貼る。


 大牙、襲来。——そして、退散。退散は勝利ではない。次のための間である。間がある限り、街は歩ける。歩ける街は、噛まれても笑える。笑いは、最強の逆位相だ。明日、私はまた舌の根元に油を差し、喉の革を撫で、皿の縁を指で数え、扇の影の紙片を読み、泣きじゃくる子の“間”を探す。空はそれを見て、少しだけ舌を出すだろう。舌が出たら、舌で返す。返した舌は、灯に照らされ、等圧線をやさしく撫でる。噛まれる準備ではなく、噛み合う準備を。今夜の街は、その差をやっと身に着けた。

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