7話「渦招きの夜、王都決戦の前哨」
朝の空は、引き絞った弦のように静かだった。等圧線は広がらず、縮まらず、ただ均一に張り詰め、魔力線は南東の地平で微かに擦れ合い、渦核は深いところで舌打ちを一つだけこぼした。音はない。だが、骨が拾う。骨が拾う音は、夜になると意味になる。
《風読》を立ち上げると、王都の外縁に細い歪みが現れた。郊外の古塔——五十年前に見張りの役を終え、今は地図の記号だけになっている石の針。そこに、人の波長が重なっている。自然の揺らぎとは違う、拍子の揃い方。三拍で持ち上げ、五拍でため、二拍で放す。百年前の巻物に残っていた“増幅”の節が、夜の前に予告の顔だけ見せる。
「古塔か」私は塔の欄干に掌を置いた。「宰相は、古い器を好む」
「器は形が決まっているから、砂を入れやすい」背後でグラールが言った。帳面の端は徹夜の手触りをしている。「砂時計はいくつ、倒されるだろう」
「今日、倒される砂は数えなくていい」私は首を振った。「倒れる前に、空の弦を合わせる。逆の音で弦を弛める」
逆の音。言葉にすると簡単だが、空は気難しい。渦の舌は、律儀のふりをして、すぐに気紛れを装う。気紛れに合わせて“逆位相”を当てるには、相手の癖を先読みし、なおかつ、こちらの楽器——街の屋根、貯水皿、風舌、灯、旗、井戸、喉——ぜんぶを一つの楽団にしなければならない。音を合わせる順番を間違えると、逆位相はただの騒音になる。
「午前は観測網の目盛り合わせ」私は項を折って列を書き、グラールに渡した。「風鈴の音程を半音下げ。井戸の気圧瓶は刻みを“分→秒”に細分。旗の光鍵は緑から琥珀。灯は減光。舌は二本追加、ざらつきを“弱”。皿は……」
「薄い皿に音を通す?」グラールが先を読む。「夜に向けて一枚、沈める?」
「沈める。古塔の脈と街の腹を細い管で繋ぐ。“管”は術師団の仕事だ」
「リザは?」
「今、術式の譜面に線を引いている。〈逆相導入〉〈渦核緩解〉。名前は重いが、やることは軽く、速く、短く」
昼前、術師団の屋上へ。リザは黒板いっぱいに書いた式の間で、髪を紐で束ね、チョークの粉で指を白くし、声を出さずに音階を刻んでいた。式の端に〈界層薄膜化〉〈音相干渉〉〈符間遅延〉。その下に小さく〈人声重畳〉。私は眉を上げる。
「人の声を混ぜるのか」
「混ぜる」リザは振り返った。「魔力線だけで合わせると、渦が“それ”を嫌う。嫌うと、噛みに来る。人の声を薄く混ぜると、渦は舐める。舐める間に、逆を当てる」
「舐められている間に、舌を返す」私は笑う。「歌は短いか?」
「短い。三音。高・低・高。子どもでも歌える。——それと、蓮、あなたの《風読》の波長が要る。等圧線の揺れを、そのまま術式に刺す」
「刺す?」
「そう。術は刺繍。布は空。糸は魔力。針は人」
午後、古塔へ向かう前に、私は市場で“避難導線図”を引いた。エミが板の前に立ち、声を張る。声は晴れの声だが、中に小雨を含んでいる。雨の予感を声に混ぜるのは、台所の鍋で覚えた技だ。
「通りは四列、逆流弁の“喉”を避けて斜めに」エミは腕を大きく使い、子どもの背丈で線を引く。「井戸は“集合点”。婆さんが刻みを押す。旗の下は“配給点”。水袋はここで。赤ん坊は布に。梯子は舌の根元に。走らない。歩く。歩くほうが速い。覚えた?」
「覚えた!」通りの子どもたちが声を揃える。声の揃いは、術式には入れない。合唱の揃いは、避難導線にだけ入れる。
配給所の壁には新しい欄ができた。〈避難導線—通り別〉。各通り責任者の名と、灯火係、階段係、舌係、喉係。エミは名の横に小さな印を押し、印の横にさらに小さな点を書いた。「点が増えたら、今日の歌が上手かった証拠」と笑う。笑いは余白を柔らかくし、柔らかい余白は夜の硬さを受け止める。
軍の動きは、午後の終わりに音を立てた。城の北門から機動隊の列が出て、通りの脇に馬を並べ、靴の裾を引き上げる。セレスが前に出る。扇は閉じたまま、彼女の指だけが命令を切り、印を押す。動員権を掴んだ顔。年若いのに、瞳の底の泥が、今日は深い。泥の中に“橋”が見える。
「城壁の内側で待機ではなく、工区の端に直接配置」セレスは明確だ。「市民の避難導線の“外側”に兵を置く。中に入れるな。兵の列は壁。壁は通すために。止めるためでなく」
「壁は通すため」副官が復唱し、兵が角ごとに左右を埋める。盾は下ろされ、槍は寝かされ、甲冑の継ぎ目は油が足りない音を立てる。足りない油は、あとで配る。今は匂いの方が大事だ。恐怖の匂いを薄めるには、鉄の匂いより麦の匂いが効く。配給所の釜が火にかかり、塩湯が歩く匂いを作る。
「宰相の兵は?」私はセレスに問う。彼女は扇の先で南を指した。
「古塔の周りに配置し、“儀”を護っている。護りの顔で、囲む顔。近づくな、と札がある。札は、灯で破る」
「札は直に破るな」私は言う。「灯で、札の“影”だけ切る」
「影を切る」
「影を切る」
夕刻、郊外の古塔の根元へ。石は湿っている。湿りの中に、香灰の匂いと導魔糸の繊維の粉っぽさが混じる。共鳴石が塔の胴の中に並び、蔓の形で縦に連なっているのが、眼の裏側に見える。宰相の印のない札が地面に打たれ、周囲の草はささやき声をやめている。声のない草原は、音を増幅する。人の声が遠くから寄り、近くの石は黙り、空だけが弦を張る。
私は《風読》の波長を、塔の腹に合わせた。塔の石は、百年前の拍子を忘れない。三拍、五拍、二拍。拍の間に微かな“間”。間こそ、風の口。そこへ針を入れる。逆位相の針。こちらの針は、街の舌と皿と喉と旗でできている。針は硬くない。柔らかい針は、布を破かず、音だけ刺す。
「術式、第一段」リザの声が背中の少し後ろで響く。彼女の指は印を結び、符は短く点滅し、黒板から抜けた文字が空気の中で薄い光を帯びる。〈界層薄膜化〉。空の下に極薄の膜が敷かれ、塔の周囲の風がそこで一度だけ滑る。滑る風は怒らない。怒らない風は、話を聞く。
「第二段、音相干渉。市井側、合図を」リザが顎を上げる。
丘の上に灯。塔の上に旗。市場の舌の根元に据えた薄い板。井戸の口に小さな金の針金。ベルンが舌を撫で、エミが合図を切り、子どもたちが息を吸う。短い歌。高・低・高。空気は歌を覚えるのが上手い。覚えた歌は、渦の舌にひっつく。舌はくすぐられて、舐める方向を半拍だけ遅らせる。遅れた半拍に、逆位相を刺す。
私は両手を広げ、等圧線の揺らぎを胸骨で受けた。地面の浅い皿が、腹の底で応える。旗は縁で笑い、喉は黙り、舌は抱え、灯は語り、井戸は息をし、軍の盾は動かず、避難導線は歩く。線が揃う。揃いすぎないで、揃う。人の理屈が空の理屈に伸び、空の理屈が人の理屈の指先を握る。握った瞬間、塔の胴の中で共鳴石が一度だけ“がらり”と鳴った。鳴るはずのない音。鳴ったなら、こちらの針が届いた証。
「第三段、符間遅延。——入れる」リザの額に汗が一筋。符の列の間に、わずかな遅れを差し挟む。遅れは粘りになる。粘りは、渦の舌を重くする。重くなった舌は、噛む前に疲れる。疲れた舌に、子どもの歌がもう一度、短く触れる。高・低・高。泡は眠くなり、塔の胴の中で拍子がずれる。三拍が二拍半になり、五拍が四拍になる。宰相の札の下で、術者の声が怒る。
「邪魔だ」古塔の中から、低い男の声。宰相ではない。宰相補佐頭の、硬い声。硬い声は割れやすい。「“風舌工”は下がらせろ! 灯を切れ! 術師団は……」
「術師団は、王女殿下の直轄である」リザの声は静かだ。「“ざらつき”の権利は現場にある」
兵の列がざわめき、城の方向で扇の音が一度だけ鋭く海を打つ。セレスが壁を越える音だ。動員権は札ではなく、扇で行使される。扇の線は城壁の上を滑り、古塔の足下へ落ちる。札は影を落とす。影は切れる。切られた影は風に混ざり、札の文言は風に読めない文字になる。
「第四段——重畳、人声」リザの指が最後の符に触れる。街の四隅で、子どもと若者と婆さんが、短い歌をずらして歌う。合わせない。ずらす。ずらした歌は、渦の舌の“迷い”を増やす。迷った舌に、逆位相をもう一針。私は胸骨に乗せた等圧線を、塔の腹に返した。返すときは、少しだけ遅く。遅れは礼儀になる。
宰相の秘儀は、そこで一度だけ成功しかけた。共鳴石がすべての拍子で同時に鳴り、魔力線が塔の胴の中でひと塊になりかけ、空の舌が地上の“蔓”に吸い寄せられかけた。吸い寄せられると、王都は舐められ、舐められた次に噛まれる。噛まれる前に——舌の根元を、こちらが舐め返す。
「舌、一本、増やす!」私は鐘を一打し、丘の上の舌係へ合図を飛ばした。ベルンが肩に担いだ木柱を土へ落とし、金具を噛ませ、薄板の“ざらつき”を舌の先へ貼る。舌の列が一本、延びる。延びるだけで、風はそちらへ行きたくなる。行きたくなった風が、舌の背で一度眠る。眠る泡は、起きない。起きない泡は、可愛い。
古塔の胴の中で、拍子が崩れた。三拍が三拍もどきに、五拍が五拍もどきに。もどきは、共鳴しない。共鳴しない蔓は、ただの糸だ。糸は、引けば切れる。
「いま」リザの囁き。〈緩解〉の符が走る。塔の石の肌が一瞬だけ柔らかくなり、共鳴石が“疲れた音”を立て、導魔糸の束ね目がほどける。ほどけた糸は、旗の縁へ吸われ、旗は笑う。笑う旗は、勝利の姿をしていない。ただ、人が息を吸いやすい姿をしている。
宰相補佐頭の罵声が、いきなり近くなった。古塔の入口から兵が二人、飛び出す。盾は低く、剣は抜かれず、手は空。空の手は危ない。空の手は、名簿を掴みに来る。私は半歩前に出る。刃物は抜かない。抜かないが、言葉の刃は出す。
「“風舌工—市民版”はここにはない」私は広場の方を顎で示す。「帳面は市場に。灯は屋根に。歌は子どもに。札なら、風に言え」
「風に?」
「風は、札が嫌いだ」
兵の足が一瞬止まった。その止まりに、エミの導線が差し込まれる。避難誘導は戦うためではなく、逃げないための技術だ。彼女は通りの端に“間”をつくり、人の流れを小さく半歩だけずらす。ずれた流れの中で、兵は押し返されず、押し返さず、ただ歩かされる。歩かされた兵は、怒らない。怒らない兵は、噛まない。
宰相は来なかった。来ないのが、宰相の作法だ。彼は城の広間で砂時計を見ていたはずだ。砂は落ちる。だが、今夜の砂は、糊が混ざっている。落ちない砂は、滑稽だ。滑稽は、名に勝てない。
《風読》の視界で、渦核の舌が一度だけ長く伸び、古塔の上空で“つぶやく”のを見た。つぶやきは噛まない。舐めるほどでもない。空が「わかった」と言うときの口の形だ。口は、めったにそうは言わない。言ったなら、聞く。
街では、避難導線が静かに歩き切られていた。井戸は集合点になり、婆さんの判が薄く重なり、赤ん坊は布ごと抱かれ、喉は逆流を飲み込み、皿は一度だけ浅く息を吐き、舌は夜目に溶け、灯は少なく、歌は短く、数字はまだ張り出されていない。数字は夜の終わりに書く。勝負は、数字の前に決める。
リザが膝に手を当て、深く息を吐いた。術式の糸は全部、戻したはずだ。だが、糸は一本だけ、空に残っている。残っている糸は、次の仕事を呼ぶ。
「殿下に、伝える」彼女は立ち上がる。「“古塔の秘儀、緩解。渦、舐めて去る”」
「“去る”は強すぎる」私は首を振った。「舌を拭って帰った。くらいに」
「詩だね」
「刃物ではないだろう?」
「詩も刺さる」
城の北で、扇の音が二度、間を置いて一度。許可でも命令でもない。「見た」。セレスの目は、見たものをすぐには語らない。語らない目は、信頼に向く。信頼は、明日の行軍に向く。
古塔の石段に残った香灰の粉を、私は指で集め、封に落とした。粉は夜露を呼び、封は鯨脂の匂いを吸い、封の端に小さく〈この夜の拍子〉と書く。拍子は詩よりも長持ちする。詩は刃物になり、拍子は骨になる。骨は、街の立ち方を決める。
街へ戻る坂道で、ベルンが肩を落としかけ、すぐに上げた。「金具が五つ、足りない。足りないけれど、余った」
「足りないのに余る?」
「足りないのは作業。余ったのは怒りだ」ベルンは苦笑する。「怒りは歌にして返す」
「歌は短く」
「短い歌は、よく覚える」
市場に着くと、グラールが張り出しの紙を乾かしていた。〈古塔・緩解〉〈避難導線・完了率九割二分〉〈喉・逆流ゼロ〉〈屋根圧・平均一割三分低下〉。数字は冷たい。だが、紙の端に押された小さな判——子どもの指の丸、婆さんの印の四角、若者の傷の線、術師団のざらつきの記号——それが数字の周りを柔らかくした。柔らかい数字は、よく効く。
「宰相は?」私は訊く。グラールは指で西を示した。
「札を二枚、出した。“国家反逆の嫌疑、継続”。“古塔の儀、不成功、妨害あり”。まあ、札の糊は薄い。明日の朝露で剥がれる」
「剥がすのは、誰の指だ?」
「市井の指。王家の扇は“跡”だけ整える」
「跡は大事だ」私は頷いた。「跡がないと、道が迷う」
深夜、私は塔の上で一人、街の呼吸を数えた。等圧線は緩く弛み、魔力線は旗の縁で薄い笑いを置き、渦核は遠くで寝返りを打ち、古塔は黙る。黙っている石は、抗議していないわけではない。抗議をやめたのでもない。覚えたのだ。今夜の拍子を。拍子を覚えた石は、二度目に躓きにくい。
そこに、エミが階段を上がってきた。頬は汗で光り、指先に灯の煤がついている。声は低い。低い声は、夜を壊さない。
「蓮、避難導線、歩き切った。転んだのは二人。擦り傷。泣いたのは四人。笑ったのは——数え切れない」
「笑いは、避難の魂だ」
「魂は軽いほうが遠くへ行ける」エミは欄干に肘をのせ、遠くの古塔を見た。「あそこ、もう黒くない」
「黒くないけど、白でもない」
「灰色は、台所に似合う」
「台所の灰は、塩の相棒だ」
エミはふっと笑い、「明日、台所で歌を一つ、作る」と言って下りていった。歌は短いに違いない。短い歌は、鍋の蓋に乗る。蓋が跳ねそうな夜に、歌は重石になる。
夜明け前、セレスから紙片が届いた。扇の縁で挟んだ短い文。
〈古塔、緩解。動員権は保持。札は三枚、破滅に回収。昼、広間にて“公開報告”。市井の名を掲げる。術師団の功を記す。——空の理屈と人の理屈、噛み合わせる儀〉
噛み合わせる儀。歯車は、噛み合わせるまで役に立たない。噛み合わせの瞬間だけ音がする。音は短い。短い音のために、長い準備が要る。準備は、名のない仕事の集合体だ。名のない仕事の名前は、明日の張り出しで一つずつ増える。
朝。王都の光は薄いが、よく伸びる。風鈴は伸びをし、井戸は一口、冷たい水を上げ、喉は「黙ってる」と挨拶し、皿は何も抱えず、舌は寝癖を直し、灯は芯を短くし、旗は微笑み、軍の盾は立てかけられ、避難導線の板は端を丸められ、子どもの指には昨夜の印がまだ残っている。印は消える。消える前に、紙に写す。写した紙は、風でめくれ、めくれた拍子に誰かが読む。そのとき、街はまた少し、強くなる。
広間の「公開報告」は、札より先に人が集まった。宰相は席に着き、砂時計を指で転がし、落ちる砂の音をわざと大きくした。音は大きいのに、意味は小さい。セレスが立つ。扇は閉じている。閉じた扇のまま、彼女は話す。言葉は短く、名詞が多い。〈古塔〉〈緩解〉〈避難導線〉〈喉〉〈舌〉〈皿〉〈旗〉〈灯〉〈歌〉。最後に、〈市井〉。宰相の顎が、わずかに動く。
「古塔の蔓はほどけました」セレスの声は高くない。「空の拍子は、人の歌で“遅れ”を得ました。遅れは礼儀。礼儀の間に、術式の逆が刺さりました。刺したのは、術師団の手と、市井の手。王家は、風の通りを確保しました。以上」
短い。“以上”が好きだ。以上の後ろには、以上でないものが長く続く。続くものは、帳面が拾い、灯が写し、舌が抱え、喉が黙らせ、皿が受け、旗が笑い、軍が壁になり、井戸が息をする。宰相は砂を倒しかけ、倒さなかった。倒さない砂は、動員権に負けた。負けた砂は、乾く。
報告の後、風務局の年長が私の肩を叩いた。「数字、出す。今夜の張り出し」
「夜まで数字は置け」
「置く場所は?」
「配給所と、台所の壁」
「台所?」
「人は飯の前で数字を信じる」
術師団の屋上で、リザが式の余白に小さく書き足していた。〈噛み合わせ符〉。空の理屈——等圧線、渦核、界層、遅延、干渉。人の理屈——避難導線、喉、舌、皿、旗、名簿、歌。二つは別々に覚えていい。だが、噛み合う瞬間を知らなければ、片方は刃物に、片方は詩にしかならない。今夜、初めて、両方が道具になった。
夜、私は塔の東で灯を一つ上げ、合図を短く切った。高・低・高。街の四隅から、同じ歌が返る。短い合唱。合唱のあいだに、私は胸の中で一行、書いた。
——空の理屈と、人の理屈が、初めて噛み合う。
噛み合った歯車は、音をひとつだけ鳴らし、あとは黙って回り続ける。黙っているのは、最上の承認だ。明晩、宰相は別の札を出すかもしれない。古塔は別の拍子を試すかもしれない。渦核は舌を三度にするかもしれない。だが、もう一度、噛み合わせの音を鳴らせる用意はある。市井の指は覚えた。王女の扇は風を通すことを選んだ。術師団の式は、歌を嫉妬するのをやめた。風務局の数字は、板の上で照れた。ベルンの金具は油をもらい、グラールの帳面は欄を増やし、エミの導線は子どもに譲られた。
王都は水の器で、風の書見台で、灯の筆記具だ。今夜、その三つがいっぺんに働いた。働いた三つは、互いに礼を言わない。礼を言うのは、人の側だ。私は欄干に指を置き、古塔の黒を見ないで、街の灰を見る。灰は、塩の相棒。明日の朝、灰は台所で指先の汗に溶け、短い歌と混ざるだろう。
その歌は、噛み合う音の記憶になる。記憶は、渦に勝つためではなく、渦と暮らすために要る。暮らしが続く限り、理屈は噛み合う必要がある。噛み合わない日は、短い歌を増やせばいい。歌が増えれば、刃物は鈍り、詩は丈夫になる。丈夫な詩は、名になる。名は、奪いにくい。奪いにくい名は、街の骨だ。
灯を落とす前に、私は短く祈らない祈りをした。祈りの代わりに、合図をもう一度。高・低・高。空は黙って、しかし確かに聞いていた。黙っているのは、やっぱり最上の承認だ。空の理屈と、人の理屈が噛み合ったまま、夜が明けた。次は、歯車をもっと大きく。歯車は、増えた力を無駄にしない。無駄にしない力は、城と市場の間をもう少し短くする。短くなった距離に、笑いが増える。笑いが増えれば、舌はまた、返せる。返した舌は、灯に照らされ、等圧線の端をやさしく撫でる。
渦招きの夜は、王都決戦の前哨に過ぎない。だが、前哨は前哨で、戦いの半分だ。半分が終わった。半分が残った。半分は、明日の歌で埋める。歌は短く。短いほど、遠くへ届く。遠くへ届いた歌は、古塔にさえ、恥を教える。恥を知った塔は、黙る。黙った塔の影に、子どもが「高・低・高」と落書きする。それが、勝ちというやつの姿だ。