6話「宮廷の内側、陰謀の種」
朝の空は軽かった。等圧線は薄く広がり、魔力線は塔の縁でほどけ、渦核は寝返りの途中で欠伸を噛み殺している。牙の気配は遠い。こういう日には、街の表面を撫でる風より、内側の紙の匂いが呼ぶ。塔の階段を下りる足が、いつもより紙に近い音を立てる。
「今日は?」グラールが帳面から顔を上げた。彼女の目の下の影は薄く、筆はよく滑っている。
「宮廷記録庫へ」私は道具袋から石筆を抜いて見せる。「百年前の渦の記録に“変な節”がある。渦核が三度舐め、四度目で噛んだ。その間隔が、人の手でつけた拍子みたいだ」
「記録庫は、宰相の庭の内側よ」グラールは眉を寄せる。「中に入るなら、リザの袖を掴んでいきなさい。坊やの手首じゃ、扉は開かない」
「その坊やの手首が、扉の蝶番を眺めたいんだ」私は笑った。「鈍っていない蝶番は、たいてい嘘が少ない」
宮廷術師団の回廊に、古い羊皮紙の乾いた匂いが溜まっていた。リザは机の上に巻物をいくつも並べ、手早く紐を解く。彼女の指は文字を読む指ではなく、構造をなぞる指だ。記録の骨を、指の腹で探す。
「百年前の“長雨の年”の巻、四十五から六十まで」リザが言う。「渦災記は王家の記録と術師団の記録に二重で残ってる。数字が二つあるときは、数字以外のものを読む」
「注釈?」
「それより“間投詞”」彼女は笑った。「驚きの声とか、ため息。その位置が、技術の匂いを出す」
王家の記録は几帳面だった。降雨量、風向、目撃の刻。術師団の記録は、ところどころに墨の濃淡があり、符号の余白に書き足しがある。私は《風読》の線を薄く目の裏に立て、紙の上の線と重ねた。数値が語るリズムと、余白が押し返すリズム。二つの合いの手が、某所で妙に揃う。揃い方が人工的だ。
「ここ」私は術師団の巻の端を指で叩いた。「“南端、三刻ごとに微渦増幅、二度。三度目、遡上の兆”。遡上の兆の前に、三刻で区切られた増幅がある。風は三刻で楽器を調律しない」
「調律した誰かがいた、って言いたいのね」リザは墨の濃い箇所を紙越しに透かす。「この符。〈導魔糸・束ね・九〉。旗に似てるけど、旗じゃない。地下構造の指示」
「貯水路の薄い皿を繋いで、帯を作る?」私は眉を上げる。「皿は“受け”に向く。増幅器じゃない。けど、魔力線を噛ませれば、皿は“鳴る”」
「皿を鳴らせば、空の舌が舐め返す」リザは短く息を吸った。「百年前、やった」
さらに巻を繰る。記録の奥に、王家の側筆が一枚、挟まっていた。筆致は真面目すぎて硬い。そこにはこうある。〈治水事業の一元化につき、宰相家の所掌とす。渦災の後、出納と資材の配布を集約し、魔力土木の符の貸与もこれに含む〉。宰相の家名は、今と同じ。百年単位で変わらないもののひとつは、たいてい“器”ではなく“口”だ。
「人為的増幅で渦を大きくし、治水の“舵”を握った」私は言った。「百年後も、同じ匂いがする」
リザは机の下から別の束を出す。最近の出納記録。宰相府の印が押された札。〈導魔糸・特等・布庫より移管〉〈共鳴石・四箱〉〈香灰・七袋〉。どれも土木の符とつながるが、数量が奇妙に丸い。そして、移管先には“風務局”の文字。だが、更に小さい字で“宰相家別邸倉”の追記。足跡だ。消し忘れた足跡は、だいたい靴が良い家のものだ。
「これ、証拠になる?」リザが目を細める。「足りない」
「足りない。足りないから、足す」私は道具袋から薄紙を出す。「工区の地下に入ろう。共鳴石の置かれる場所は、音が残る。皿の縁に“二度舐め”の調和が染みているはずだ」
地下へ入る許可を取るのは、名を出すことに等しい。名は盾になり、刃にもなる。セレスの扇は城の北で“可”を打ち、グラールの帳面は「工事票—市民版」に“調査の名目”を綴じた。許可の上に、灯の合図を二つ。昼間の光鍵が街路樹の葉に小さく反射した。協力者が位置につく合図。ベルンは金具を肩に、エミは巻尺を首に、風務局の年長は顔をしかめつつ「見て見ぬふり」の位置に足を置く。術師団の若いのは、歌の短い節を喉の奥で鳴らした。
地中は涼しい。凝土の壁の奥に、旧い空洞が脈打っている。皿の縁を指で撫でると、皮膚が低い音を拾う。耳ではない。骨だ。骨が《風読》をなぞる。二刻……二刻半……三刻。三刻の倍音が、皿の縁の奥に二つ、薄く残っていた。百年前の“増幅”の拍子が、地下の骨にまだいる。
「残響」リザが囁く。「ここに“共鳴石”が置かれていた。九つ。三列。蔓の形」
「蔓?」私は皿の縁に跪き、指で土のざらつきを拾った。細い筋が三本、束ねた痕跡。導魔糸。旗の糸と同じ織り。布庫に眠っていたはずの“古物”だ。
さらに進む。二つ目の皿。そこにも蔓。三つ目。蔓。どれも街の南から北へ薄い緩勾配で繋がっている。舐める舌に、胃の形を教える道筋。空の癖に、地の癖を学ばせる——悪趣味な授業だ。
証拠は、紙の上と土の中にひとつずつ。足りないのは、手の温度。今の手が、その石を運んだ証が要る。私はリザと視線を交わす。彼女は頷き、術師団の印のない簡易封印を取り出した。小さな浅い箱の蓋に〈触れた者の魔素の癖を写す〉符。共鳴石の安置痕の土を少量、封に落とす。封は静かに閉じ、ほんの短い呼気の音を立てた。吸い込んだのは土の匂いだけではない。
「宰相家の魔素……取れる?」私が問う。
「取れる。ただし、捕まる」リザの微笑は短い。「宰相家の倉に入るには、二つの扉を通る。扉の蝶番は濡れている。濡れた蝶番は歌が得意」
重い扉の歌は、確かに鍵になる。宰相家別邸の地下倉、夜半。セレスの扇は城の北で一度鳴り、風務局の年長は目を逸らす位置に椅子を引き、グラールは帳面に小さく「夜の散策」と書き付けを残した。私は足音を殺し、リザは術式を浅く、短く整える。扉の蝶番に耳を当てると、油と湿りの間で、金属が微かに呼吸している。長い息。短い息。間。蝶番の歌は、扉の主の気分に似る。宰相の気分は、薄い。薄いが、長い。
倉の中の匂いは混ぜ物だった。香灰、鯨脂、導魔糸の布、石の粉、古い松脂。棚に箱が積まれ、印は「風務局移管」と整っているのに、札の紙質がバラバラだ。同じ書記の手になりすましているが、墨の油が違う。真昼の墨と夜の墨。夜の墨は濃いが、光を嫌う。
リザは封印の箱を開け、先の封で吸った匂いと同じ匂いを探す。封の蓋がわずかに震え、ある方向を指した。共鳴石の箱だ。〈共鳴石・九〉。ふたを開ける。中は空。布の跡。石の粉。粉は指に残り、指の腹が冷たくなる。紙の裏に小さな封書。〈配備先:南中帯〉〈施術者:——〉。名は、ない。空白の場所に、薄く擦れた筆圧の跡。書いて、消した。消す前の墨は、少しだけ残る。私は薄板で擦り、浮かせた。——宰相補佐頭・名。
封印の箱が、二度目の短い呼気を立てた。小さな音。だが、倉は小さな音に敏感だ。扉の外の空気が、ひとつ、固まった。リザと目が合い、同時に紙を畳む。出るべきだ、と骨が言う。骨の言葉は、風より正しい。
廊で足音が重なる。複数。革靴の音。真鍮の金具同士が触れる音。術師団のものではない。風務局でもない。宰相家の廊下の音だ。私は指で壁の石を撫で、微細なざらつきの段を拾った。右に小さな逃げ道。古い溝は埋められているが、空気の薄い筋が残る。リザがあごで示す。行ける。行く。暗がりの中で、扉の蝶番が一瞬だけ息を止め、次に長く吐いた。吐く音に合わせて、私は身体を薄くした。
逃げ道は城市の胃の裏側へ通じ、そこから塔の根元の下へ抜けられる——はずだった。曲がり角に影がひとつ。「出口まで十二歩」と言ったのは、宰相の声に似た人の声。似ているが、柔らかい。柔らかい声は、刃物を包むためにある。影は灯を上げず、口の端だけで笑う。
「市井の蓮殿に、第三席補助殿」影の声は薄い。「宰相閣下がお待ちだ」
逃げ道など、最初から指先で押すために用意されていたような角度で、兵の影が動いた。私の手は封印の箱を袋の底へ落とし、リザの指は袖の中で短い符を丸めて潰した。潰す符は、目くらまし。目くらましは、一瞬だけ空気を白くする。一瞬は、逃げるのに足りないが、ものを落とすのに足りる。私は石粉を廊の上に落とした。足裏で滑る前に、兵の革靴は動きを止める。止めたのは訓練。訓練の音は、呼吸でわかる。訓練は本物だ。
宰相の私室は、砂時計で飾られていた。大きいもの、小さいもの、細いもの、太いもの。砂は落ちたり、止まったり、寝かせられていたりする。宰相は背もたれに体を半分預け、指を砂時計の縁に置いて、砂の音を弾くようにしていた。
「夜の散歩にしては、足元が泥だらけだ」宰相が言う。「術師団の若いのには似合わない靴だ」
「倉の整理を」リザは落ち着いて答える。「〈共鳴石〉の箱が空だった。配備元の記録が要る」
「配備先は、風が知っている」宰相は笑わない。「問題は配備元ではない。配備された“責”だ」
「宰相」私は言った。「百年前の渦災の記録に、“人為的増幅”の節がある。今も同じ蔓が土の下にある。あんたは渦を舐めさせ、噛ませ、その後、治水を握る。王女の扇を折り、数字の流れを独占する。それが狙いだ」
「詩人めいた断定は、詩の上では美しい」宰相は目を細める。「現実では、どこに置く? 詩の椅子は汚れに弱い」
「椅子は要らない。灯の列に吊るすだけでいい」
「それを“国家反逆”と言うのだ」宰相は砂時計を横倒しにした。砂が止まる。「王家の印を盗み、倉に忍び込み、術師団の密符を破り、市井を煽動した容疑をもって、お前たちを拘束する」
言葉は整っていた。整っている言葉ほど、骨が冷える。扉が開く。真鍮の留め具が鈍く光り、鎖は無駄な音を立てない。兵の手は乱暴ではなく、丁寧。丁寧な手は、怪我を遅らせる。遅らせられた怪我は、じわりと効く。
「セレスは?」リザが問う。
「王女殿下は風の観測をお好みだ」宰相の声は薄い。「観測に没頭している間に、街は静かになる」
地下回廊へ引かれる途中、私は一瞬だけ窓の外に目をやった。市井の塔の東。灯は落ちている——ように見えた。だが、その落ち方が均一すぎる。均一な“暗”は、だいたい暗くない。闇の中に薄い線が一本、浮き、消えた。高・高・低・間・高。合図は短い。短いほど、遠くへ届く。
拘束の報が市井に落ちたのは、鐘が二つ鳴るより早かった。エミは鍋の蓋を音もなく伏せ、風鈴の舌を二度軽く叩き、屋根の子どもに声をかけた。
「“灯を消して、灯を上げる”。やるよ」
市場の屋根で、風鈴が短くうなずく。ベルンは金具の袋を肩に引っ掛け、グラールは帳面に太字で“非常配備”と書く。術師団の若い者は制服を脱ぎ、ただの市民の顔で灯の芯を切る。見える化ショーの配線は、町内会の紙芝居より速く組み直される。
市井ネットワーク——誰がいつ名づけたのか知らないが、灯火と風鈴と井戸と帳面の結び目は、もう名前を持つだけの筋力がある。エミは合図の板を抱えて通りを走り、屋根へ登る子どもに短い歌を教える。「高・低・高・間・低」——“救出”。「低・低・高・間・高」——“証拠”。「高・間・高・高・低」——“王女”。
夜のはじめ、市内の灯が一斉に落ちる。“暗”は合図だ。落ちた直後に、塔の上に一灯。東で一灯。通りの端で一灯。灯は短く、二度三度と点き、すぐに落ちる。高・高・低・間・高。最初の波は市場から北へ、次の波は西の丘へ、三つ目は南の外れへ。井戸の婆さんは孫の手を引いて石板を叩き、若者は板を掲げて遮光し、子どもは歌を繋ぐ。鐘一打。“市井の救出要請”、回る。
救出といっても、城門に押し寄せるのではない。市井の強さは“押す”より“漏らす”。グラールは帳面を縦に裂き、半分を配給所の壁に貼り、半分を屋根の縁に渡した。〈王家記録庫・巻四十五〜六十・人為的増幅〉〈宰相家別邸倉・共鳴石・空箱〉〈配備先・南中帯〉——名詞の列。名詞の列は、噂より速い。数字を混ぜた名詞は、宰相の砂より重い。
ベルンは“喉”の予備を抱えて工区へ走った。逆流弁は救出の道具ではない。だが、流れの劇的な変更は捕縛の言い訳に使われやすい。喉を守ることは、灯を守ることに等しい。術師団の若いのは「ざらつき板」を持って“舌”の列に散り、舌の背で灯の反射を連ねる。光鍵を噛ませた灯の“緑”が、街路の上で細い線を作る。線は城の壁へ向かい、壁の石の目を撫でる。石は光に弱い。弱い石は、声を漏らす。
王女セレスは城の北で扇を閉じた。閉じる音を二度、早く。一度、遅く。窓の外で“救出”の合図が踊る。扇は王家の言語で、合図は市井の言語。ふたつの言語は、短い橋で繋がる。セレスは橋を渡る方を選んだ。護衛に命じるのではなく、記録官を呼んだ。
「巻四十五から六十を持ってきて。あと、出納掛の“夜の墨”の名簿」
「殿下、夜に?」
「夜に。夜は“見える”」
記録官は震えながら走り、やがて紙の束を抱えて戻る。セレスは扇の先で紙を捲り、筆致の乱れに指で触れた。夜の墨は、よく滲む。滲んだところを、扇で扇ぐ。扇は風より速いことがある。
そのころ、私とリザは城の地下回廊の端の部屋に押し込められていた。石の床。壁は湿りを含み、空気は薄い。鎖は短い。短い鎖は、嘘をつけない。リザは椅子に座らされ、私も同じように座らされた。兵の一人が巻紙を読み上げる。“王家記録の窃覧”“術師団印の毀損”“風務局管轄下の倉への不法侵入”“市民扇動”。詰め込み過ぎの料理みたいに、味が喧嘩している。喧嘩している味は、塩でごまかす。ここでの塩は、拷問だ。
「拷問は?」リザが淡々と問う。
「殿下の許しが要る」兵が答えた。正直だ。
「殿下は許さない」私は言う。「殿下は泥を知っている」
「泥を知らないふりをするのが、城の仕事」兵は唇を歪めた。「泥を見ている目は、時々、目蓋を閉じる」
耳の奥に、灯の音が届いた。音ではない。視界の端で薄い線が踊る。高・低・高・間・低。救出。リザも同じものを見たのだろう、指がわずかに動いた。短い歌を、喉の奥でひとつ。変わらない石の部屋に、わずかな音階が生まれ、消える。
「逃げ口は?」私が呟く。
「逃げない」リザは首を振った。「今、逃げると、宰相の詩になる。捕まえた反逆者を夜に消し、市井に“やさしい雨”の芝居を打つ。殿下の言葉は侮辱になる。逃げないで、灯を待つ」
「灯は刃物じゃない」
「刃物じゃないから効く。刃物は切れる。灯は写る」
地下の空気がわずかに動いた。動くはずのない場所で空気が動くとき、だいたい誰かが息を我慢している。壁の石目の隙間から、細い緑が差した。光鍵の緑。城の外で舌の背が笑い、光が舌の上を滑ってここまで届く。届いた光の上に、影が一つ。扇の影。短く、正確に二度、打つ。王女の合図。〈記録官同行〉。
扉が軋み、宰相が現れた。背後に記録官と、風務局の年長。記録官の手には巻四十五から六十。年長の眉は寄り、喉仏は固い。宰相は砂時計を提げず、微笑みを提げている。
「殿下の命で、尋問は一時中止だ」宰相が言う。「記録の精査が済むまで」
「精査」私は笑った。「精査は、灯のある場所でするものだ」
「灯は、目を眩ます」宰相の声は薄い。「目を閉じた者にこそ、真実は見える」
「目を閉じた者に真実が見えるなら、あなたは王だ」
宰相の口角が一瞬、上がり、すぐに元に戻った。「王は扇を持つ。私は砂を持つ。砂は、落ちる」
宰相は兵に指示し、我々を別の部屋へ移すよう命じた。移動の途中、私はわざと一歩、遅れた。遅れた足に、壁から吹き込む薄い風が触れる。風は語彙が少ない。それでいて、急ぐべき時だけ正しい。私は遅れた一歩を、速さに換える場所を胸に控え、顔だけは従順に保った。
夜の深いところで、市井の灯は地図になり、地図は詩になり、詩は帳面になった。グラールは張り出しに〈百年前の“宰相”〉と小さく書き、〈今の“宰相”〉と隣に書き、その間に“=”ではなく“→”を描いた。等号ではない。矢印だ。矢印は、道であることを思い出させる。道は、変えられる。
ベルンは鍛冶場の奥から古い鋼板を引っ張り出した。板の端に小さな穴を穿ち、そこに光鍵の薄片を埋め、塔からの短い灯で文字を浮かべる。文字は短い。〈渦招き〉。次に、〈蔓〉。さらに、〈喉〉。浅い言葉を並べ、深いものを言う。浅い言葉は盗みやすいが、盗んでも味がしない。味がない盗みは、広がらない。
術師団の若いのは、団の屋上から城壁へ向けて短い反射の連なりを送った。〈証拠〉〈倉〉〈空箱〉。団の古株は顔をしかめ、しかし止めなかった。魔法土木は抱っこ仕事だ。抱いた赤子が声を上げるのを、止める仕事ではない。
翌朝、王都の朝は奇妙に静かだった。風鈴は鳴ったが、人の声が最初は出なかった。声が出ない朝は、考えが先に出る。考えが先に出る街は、次に叫ぶときに言葉を選ぶ。張り出し板の前で、エミが指で新しい欄を叩いた。〈“救出要請”の受信・返信:通り別記録〉。子どもが誇らしげに自分の屋根の名前を書き、婆さんが判を押す。判は小さく、強い。
城の中で、宰相はもう一枚の札を用意していた。〈王女殿下、療養のため一時退席〉。札は簡単に出せる。出した札を引っ込めるのは、難しい。セレスは札を見て、扇を閉じ、開き、閉じた。扇の縁で紙の端をそっと撫でる。撫でられた紙は、折れる準備を始める。
記録官が震える手で巻四十五を開く。セレスは扇の先で、余白の間投詞を数える。「驚き」三つ。「ため息」二つ。「沈黙」一つ。沈黙の位置に、細い印を付ける。沈黙したのは、書記ではない。沈黙したのは——王だった。王の沈黙は、誰の言葉でもない“大きい音”に似る。百年前の王は沈黙で認めた。セレスの目の底の泥が、一段、重くなった。
昼前、地下回廊の端の部屋の扉が開いた。入ってきたのは、兵ではなかった。風務局の年長だ。彼は顔をこちらに向けず、壁に向かって言った。
「数字が、灯に負けた」
「負けた数字はどうする?」私は問う。
「張り替える。紙の上から。砂は、止めた」
彼は鍵を机の上に置いた。置く音は小さく、鍵は古かった。古い鍵は、壁の方が覚えている。
「逃げない」リザが囁く。「出て、扇に会う」
「扇は、どこ?」
「北の塔。殿下は泥を纏い、上へ出る」
鍵穴は古く、鍵は古く、開く音は新しかった。新しい音は、嘘を連れて来ない。回廊の角を抜け、階段を上り、細い射しの光をくぐる。外の空気は軽く、灯の匂いが細く残る。私は《風読》を薄く立ち上げ、等圧線と魔力線の重なりより先に、人の“線”を見た。屋根と屋根を繋ぐ合図の経路、通りと通りの間の隙間、城壁の石目の緩い点。人間の線は、風より賢い朝がある。
北の塔の階段に、セレスが立っていた。扇は閉じ、目は開き、泥は澄み、澄み切らず、ちょうどよい濁りを持っている。彼女の手の中に、王家の印が一つ。印の縁は古く、印面は真新しい。古い縁と新しい面——王家が時々、正しいときの取り合わせだ。
「蓮」とセレス。「リザ」
「殿下」リザは頭を下げた。
「宰相は“療養”の札を用意している。扇で叩き落とした。落ちた札は踏まれる。踏まれる紙は痛い。だから、扇の代わりに“灯”で叩く」
「灯?」
「今夜、回廊を開ける。王家記録庫の写しを、市井の張り出しに。〈渦招き〉の語は使わない。〈増幅〉と〈蔓〉と〈喉〉と〈扇〉だけ」
「扇?」
「扇は、風を通すためにあるもの」セレスは薄く笑う。「扇で隠すのではない」
宰相は、もちろん、止めに来る。止める札は用意済み。止める兵も用意済み。だが、灯の上で名詞が踊るとき、札は遅い。兵は重い。重い者を動かすのは数字だ。数字は、もう板の上で街に配られている。配られた数字は、宰相の砂では止まらない。
「殿下」私は言った。「我々は“国家反逆”の札を貼られた」
「札は剥がす」セレスの目は静かだ。「剥がすのは扇ではない。市井の手で。王家は“剥がし跡”を残す。跡は、後の王への教えになる」
その夜、王都の灯は初めて、城の内側から外へ向けて点いた。記録庫の高窓から、光鍵を噛ませた灯が細く漏れ、回廊の内壁に反射し、北の塔へ一本の線を作る。塔の上で、その線は市井へ返され、通りの張り出しに落ちた。紙が風にめくれ、露わになった文字は短い。〈増幅〉〈蔓〉〈喉〉。その隣に、〈扇〉。
宰相は広間で砂時計を倒した。砂は落ちなかった。砂の中に何か混ぜ物がある。混ぜ物は、誰かの指だ。砂が落ちない間に、笑いが一度だけ起こった。誰の笑いかわからない。笑いに顔がない時、街が笑っている。街の笑いは、個人の笑いより鋭い。
拘束は解かれたわけではない。札はまだ貼られている。だが、札の糊は弱くなった。弱くなった糊は、朝露で落ちる。朝露は、井戸の歌で呼べる。エミは屋根の上で、短い歌をもう一度繋いだ。高・間・高・低・低。〈明朝、集合〉。ベルンは金具の袋から“鍵”を二つ出し、グラールは帳面に“剥がし役”の名を列挙した。リザは術師団の屋根で〈ざらつき〉の符を一つだけ上に重ね、“渦の舌”が今夜は眠るよう、街の呼吸を低く整えた。
私は塔の東で灯を一つ上げ、短く合図した。高・高・低・間・高。救出要請は救出で終わらない。救出の先に、修復がある。修復の先に、記憶がある。記憶の先に、癖の書き換えがある。
宮廷の内側に撒かれた陰謀の種は、光に弱い。種は暗い土で芽吹くが、芽が出た瞬間に光を欲しがる。光を欲しがる芽は、灯で見える。見える芽は、摘める。摘む指が多いほど、街は強い。
——扇で風を通し、灯で詩を写し、喉で匂いを抑え、舌で泡を抱く。百年前に仕込まれた“増幅”の拍子を、今夜、書き換えにかかる。
《風読》の線は、城の屋根の上で静かに頷いた。頷く風は珍しい。珍しいから、信じる。明日の朝露は、札の糊を溶かし、張り出しの紙は一枚増え、王都の器は少しだけ新しい縁を得るだろう。宰相の砂は落ちず、扇は一度だけ叩かれ、灯は短く、歌は強く、舌は笑い、皿は深呼吸する。
救出は、合図で始まり、合唱で終わる。合唱のあいだに、街は自分の声帯を知る。声帯を知った街は、陰謀の種に唾を吐く。吐かれた種は、芽を出すのを諦める。
私は塔の縁に手を置き、下で動く小さな灯を見た。灯の数は、昨日より少ない。少ないのに、濃い。濃い灯は、よく写る。写った文字は、長く残る。残った文字は、次の章の扉を開ける蝶番になる。蝶番は、濡れている方が、いい音を出す。明日の朝、私はまた耳を当て、歌を聴く。歌は短く、刃物を鈍く、詩を丈夫にする。王都は、水の器であり、風の書見台であり、灯の筆記具だ。
陰謀の種は、今日、光を浴びた。まだ枯れてはいない。枯らすのは、笑いと、歌と、帳面と、短い合図だ。渦核は寝返りを打ち、舐める舌は忘れ、噛む牙は遠い。遠いあいだに、人間のほうの牙を片づける。牙を磨くかわりに、舌で返す。返した舌は、灯に照らされ、名になる。名を持った舌は、奪いにくい。
——灯を消して、灯を上げろ。救出は、見える化で。