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5話「風除壁と渦の癖」

 夜明け前、塔の石は沈黙を固めていた。視界に《風読》が立ち上がる。等圧線は薄い楕円を作り、魔力線は南端で一度よれて、すぐ解ける。そのよれの奥——渦核が、黒い舌を二度、空の底から伸ばしては引っ込める。舐める。噛む前に味を確かめる、厄介な癖。南から二度“舐める”。それが今日、街に投げられた手紙だった。


 私は塔の手すりに肘をかけ、舌の長さを目測した。一本目は街外れの畑の端で折れ、二本目は城壁の影をかすめて市場に届く。噛むほどではない。だが、舐めていく風は屋根の布を持ち上げ、中の空気を膨らませ、剥離の泡を肥やす。泡は目に見えないのに、骨の裏側に指を突っ込むのが上手い。剥がしにくいところほど、丁寧に剥がしてくる。


「舌には、舌で返すか」独り言が口から零れた。

「朝から詩ね」背後でグラールが笑った。「書き付けはできてる。“工事票—市民版”、新規欄。“風除壁の試験設置”。王女の許可印は?」

「まだ、扇の音しかない。午前に取りに行く。形は決めた」

「聞こう」

「連続壁はやめる。舌状の短壁を、ずらしながら並べる。舌で舌を操る。剥離をわざと起こして、屋根の上の圧を抜く」

「“壁なのに通す”のね。あんたが好きそう」

「壁は、通さないと壁にならない。全部塞いだら、ただの塊だ」


 私は塔から降り、広場の隅で白墨を走らせた。地面に描いたのは、街の南側から市場へ抜ける風の地図。通りは四つ。屋根の高さは三段。舌状に突き出した短い壁——“風舌ふうぜつ”——を置く位置に丸印。風は壁を嫌うが、壁の端を愛する。端で剥がれ、端で絡み、端でほどける。その剥がれ方を、舌の輪郭で決める。舌の根元を太く、先を薄く、角を甘く、開く側へわずかに傾ける。剥離泡は舌の背後にでき、泡の外周で流れが加速する。加速は圧を下げる。下がった圧は、屋根の上の膨らみを潰す。潰しすぎれば逆効果、潰し足りなければ意味がない。中庸は、いつだって脚で覚える。


「ベルン」私は鍛冶場に顔を出した。「板を六十枚。厚みは指の幅、長さは両掌三つぶん。先端に柔らかい曲がり。柱に抱かせる金具を付ける」

「舌か」

「舌だ。市井の舌は、風を噛み切らない」

「なら、金具は二重にしよう。鳴らないように」

 ベルンは鋼を撫で、火に唇を突き出して温度を測る。彼の唇は、風箱の音を覚えている。風箱は、舌が良いと楽をする。


 午前、私は断面図と粗い模型を小脇に抱え、城へ向かった。南の門の廊、扇の裏側で、セレスは短く頷いた。彼女の瞳の底の泥は、今日も正しい重さを持っている。

「連続壁ではなく、舌状の短壁をずらして?」セレスが模型の舌を指でなぞる。「あいだの空間は?」

「呼吸室。剥離泡が育つ部屋。泡は壁の裏で育てて、通りの上では育てさせない」

「“育てる場所を指定する”。王都の政治のやり方に似ているわ」セレスは微笑んだ。「宰相は?」

「連続壁の方が好きだ。数字が揃いやすいから」

「揃いやすい数字は、演説向き」

「演説は、風に弱い」私は肩をすくめた。「王女、《公開工事》の盾をもう一枚」

「出す。名は?」

「“風舌工ふうぜつたくみ”」

「気障で良い」セレスは扇で合図を切った。「術師団は?」

「リザが式をいじる。舌の背後の泡の縁に、微細な回転を与える術式。泡が屋根の方へ寄らないように、舌で抱いて舌で返す」

「泡を王女として扱うのね」

「泡の機嫌は、王女の機嫌より難しい」


 宮廷術師団の部屋。窓辺の机に広げられた式は、土と風の合いの子だ。リザは髪をひとまとめにして、指先で符の細部を修正している。黒板に、短い列。〈界層薄膜化/微渦列付与〉。彼女は顔だけ上げ、私を見る前に舌状模型に目を落とした。

「舌、いい形。先端の曲率をもう一割、甘く。泡が舌の背にかかりすぎる」

「甘い舌は、風に好かれるか?」

「好かれすぎないように、術式で舌の肌に“ざらつき”を乗せる。ざらつきは目に見えず、手に触れず、泡だけが触る」

「泡にだけ触るものは、だいたい魔法だ」

「魔法を嫌う顔」リザが笑う。「魔法は“見える”ことに嫉妬するの。だから、灯と舌で宥める」

「宥める相手が多すぎる」私は頭をかいた。「風、泡、屋根、役人、宰相」

「王女がいる」

「盾はいる。刀もいる」

「刀は鈍らせる方が長持ちする」リザは式の最後に、小さな符を一つ足した。「“舌の歌”。短い。高・低・低。舌に触る風が歌う。歌う風は、機嫌を直す」

「歌の数が増えると、私は音痴になる」

「音痴は短い歌を繰り返せば良い」


 午後、南側の通りに最初の“風舌”を立てた。木柱に金具で抱かせ、根元を石で押さえ、先端は宙に浮かせる。舌は地面に触れたがらない。触れる舌は、すぐに濁る。五歩進んで、もう一本。さらに七歩ずらし、三本目。通りは蛇行する川みたいに、舌の間をくねって風を通す。屋根の上では、ベルンが子どもと一緒に風鈴を鳴らし、舌が立つたびに短い音を足した。


 最初の手応えを確かめるために、私は「煙糸」を使った。術師団の倉から借りてきた——細い糸の芯に微量の香を通し、流れに触れると香りの筋が生まれる。見えない泡が、鼻に触る。見えない匂いが、線になる。舌の背後で香が巻き、小さな輪が生まれた。輪は屋根の高さまで上がらない。舌の背に抱かれて、手前で消える。舌は、いい子に働いている。


「へえ」風務局の年少が腕を組んだ。「壁を断続にすると、空気がくじかれると思っていたが、逆か」

「“連続”は風の自尊心を刺激する」私は香の筋を見ながら言った。「意地を張って乗り越える。断続は自尊心を迷わせる。意地がほどけて、舌の背でうたた寝する」

「うたた寝の泡が起きると?」

「誰かの屋根を剥がす。だから、舌の背で寝かしたまま、そっと逃がす」

「逃がす先は?」

「空。空は眠れないから、泡を飲んでも平気だ」


 舌が通りに列を作り始めるころ、城から宰相の使いが来た。巻紙を広げ、声を太くする。

「“風除壁連続設置”の件、王家の許可を受けて風務局が総覧する。市井からの協力は歓迎する」

「連続ではない」私は巻紙の字を指で弾いた。「舌状。断続。“風舌工”。王女の許可は?」

「王女は“市井の工事を可とする”とのみ」

「言葉の穴に、いつも砂を詰める」グラールが肩で笑う。「宰相の癖よ」

 使いは首筋を硬くし、巻紙を巻きなおして去った。巻紙の縁は粗い。急いで作られた証拠だ。宰相はいつも、成果の匂いにだけ鼻が利く。匂いの根本には興味がない。


 夕刻、セレスから扇の音が一度、届く。〈“連続壁”は不許。舌状短壁の試験、王家の盾の下に〉。短い言葉は、堅い盾になる。宰相は盾を嫌うが、盾を持つ腕に噛みつくほど愚かではない。彼は噛む前に舌で舐める癖がある。王都は今、舌に満ちている。


 リザは術式の“ざらつき”を通りごとに微調整した。舌の表皮に微細な乱れを与え、泡の縁に小さな回転を連ねる。私は屋根の上に立ち、指で風を千切るようにして、香の糸を追いかけた。泡は育ちすぎない。育つ前に、舌の根元に置いた小さな逃げ口で弱める。通りの幅が変われば舌の間隔も変える。一定は、いつも嘘を連れてくる。ばらつきは、嘘を少し酔わせる。


 試験二日目の昼、《風読》が南の渦核の舌打ちを一度だけ強くした。一本目の舐め。畑の端で折れるはずの舌が、通りの突端まで伸びる。舌と舌が向かい合うところで香が散り、泡が一度、屋根の縁を撫でた。風鈴が低く鳴る。私は通りの舌の角度を、ほんの一指ぶん、寝かせた。舌の先の曲率を甘くして、泡の腰を重くする。泡は重くなれば、跳ねない。跳ねない泡は、可愛い。


「三番通り、舌を一本追加」私は鐘を一打し、ベルンに合図を飛ばす。彼はすでに木柱を肩に担いで走っていた。舌は思っていたよりよく食べる。材料は足りないほどがちょうど良い。足りない材料は、工の歌を増やす。


 午後、城の広間で「舌の会」が開かれた。名前は誰がつけたのか知らない。貴族の好む響きだ。宰相は背もたれに軽く寄り、術師団の老いぼれが一人、あごを撫で、風務局の年長が数字の板を抱えて立つ。セレスは扇を閉じたまま、わずかに笑った。私は模型を卓上に置き、香の糸の細い筒を二つ立てる。連続壁の模型と舌状短壁の模型。どちらも同じ風を受けるように、扇の風を借りる。


「連続壁は、風を上へ跳ね上げる」私は筒の香に火を入れ、煙をわずかに立てる。「跳ね上がった風は、壁の先の屋根に落ちる。舐めた舌が、そのまま舌打ちに変わる」

 連続壁の先で煙がもつれ、屋根の模型の上に落ちる。紙の屋根がふっと膨らみ、針金の棟がぎし、と悲鳴を上げる。笑い声が半分、失せる。笑いばかりでも、怖がりばかりでも、会議は壊れる。ちょうどいい配合が、政治の調理。


「舌状短壁は、風を横へ舐めさせる」私はもう一方の模型の風向をわずかに変えた。「舐めて、飽きて、溶ける。舌は疲れやすい」

 香の糸は舌の背で緩く巻き、屋根に届く前にほどけた。術師団の老いぼれの顎が一段、下へ落ちる。風務局の年長は数字の板に目を落としたまま「ふむ」と言い、宰相は扇がないのに扇を開いた真似をした。


「市井の舌が王都を守る」セレスが言葉を拾う。「工事は公開、市民は歌い、術師はざらつきを繕い、局は数字を張る。宰相は……」

「宰相は責任を背負う」宰相は笑ってみせる。「成果も、責も」

「成果は灯に、責は名簿に」グラールがいつの間にか広間の端に立っていた。帳面は市場の灰色の紐で綴じてある。「名簿は市井の壁。誰が舌を立て、誰が油を挿し、誰が傷を洗い、誰が歌を短くしたか、書く」

 宰相はそこで初めて眉をわずかに動かし、「よろしい」とだけ言った。よろしいは、政治の中でいちばん便利な言葉だ。意味が薄いのに、責任の匂いだけある。


 三日目の朝。《風読》は舌の癖を繰り返した。一本目は昨日より短く、二本目は昨日より長い。南からの“二度舐め”は、予報どおりに来て、予報どおりに躊躇い、予報どおりに増長する。渦核は臆病で、急に大胆になる。人間と似ている。似ていると思った瞬間に、裏切る。風は、ひとの友人を真似る天才だ。


 舌の列は市場の南端で九本になった。屋根の上で風鈴が短い連打をし、井戸の刻みは朝から一本増え、気圧瓶の種子が軽くなった。泡の縁は安定している。リザは術式の「ざらつき」を通りによって段替えし、“弱いざらつき/強いざらつき/なし”の三種を交互に当てた。ざらつきの段替えは、泡の気分を散らす。気分が揃うと、泡は街に悪戯をする。散らしておけば、個性だけ残る。


 昼、舐め一度目。南の端で舌が伸び、畑の埃をぬらし、通りの手前で折れて溶ける。舌は疲れ、泡は眠くなり、屋根は笑っている。鳴っている、ではなく、笑っている。布は笑いながら耐えるとき、いちばん綺麗に皺を作る。


 午後、舐め二度目。一本目より湿りが太い。等圧線が寄り、魔力線が南の壁の影で一度噛む。噛みかけて、舐めに戻す。舌は、迷いながら伸びた。通りの舌の列が、迷いを受け止める。舌は舐め返し、泡を抱く。抱いた泡の縁で、軽い渦列が生まれ、屋根から離れた空に小さな点線を描く。私は香の糸でそれを数えた。七つ。七つで足りる。足りないときは九つ。多いときは、泡が喧嘩を始める。


 どしゃぶりとは呼べないが、息の長い降りが続いた。台所の蓋は二分で丁度よく、舌の舌は静かに笑い、井戸は皿の縁で呼吸し、吐口の喉は黙って働いた。通りに“逆流の声”はなかった。代わりに、子どもの合唱があった。「舌が鳴った」「泡が寝た」「屋根が笑った」。比喩が市井に定着し始めると、街は少しずつ、“専門家のいない場所”を取り戻す。専門家がいない場所ほど、強い。


 夜、張り出された数字。〈南三区・屋根剥離数:前月比四割減/屋根上圧の平均:一割低下/吐口逆流:ゼロ〉。数字は冷たい。だが、人混みの熱であぶると、良い匂いがする。宰相は数字の前に立ち、うなずき、砂時計を携えの使いに渡した。砂は、今夜は落ちなかった。落ちない砂は、重い。重い砂は、成果の重さとよく似ている。


 その翌朝、王城の回廊で宰相とすれ違った。彼は歩みを止めず、視線だけを寄こし、ひとこと。

「“連続壁の成果、上々”」

 舌の裏で、私の歯が鳴った。噛んだのは、怒りではなく、笑いの未遂だ。笑いは刃物で研いだ方がよく切れる。だが、ここで刃物は抜かない。抜けば、舌で舐めてくる。


「宰相」私は言った。「連続ではなく、断続。舌だ」

「王家の布告は“風除壁”」

「王家の扇は“舌”」

 宰相はわずかに肩をすくめ、通り過ぎた。成果の横取りは政治の基本動作だ。盗まれた成果は、灯で取り返す。灯は名を持つ。名は、盗みにくい。


 セレスはその日の夕刻、北の塔から扇の音を二度、落とした。〈“風舌工”——名を出す〉。翌日の布告の末尾に、小さな欄が増えた。〈市井の“風舌工”、募集。指導:市場の蓮/監:宮廷術師団第三席補助〉。宰相の筆致はそこにはなかった。王女の泥が、紙の裏側から一度、覗いた。


 この街で“名”はご馳走だ。扉の脇に短い板を掛け、そこに名を書くだけで、匂いが変わる。「風舌工・見習い」の看板が通りに五枚、十枚、十五枚と増える。ベルンは金具の袋を分け、グラールは帳面を細かくし、リザはざらつきの符を簡略化して、子どもが手伝っても暴れないように調整した。


 午後の試験で、予期せぬ癖が顔を出した。南の舌が伸びる前に、東の低い屋根沿いで小さな舐め——舌の舌——が生まれた。地形の浅い皺。路地の曲がり角。香の糸がそこで絡み、泡が舌に無礼な背中を見せる。通りの舌は一瞬、迷い、泡は屋根の縁を撫でた。風鈴の音が半音、濁る。私は「余白の舌」を出した。舌の列の外——路地の角に、短い一枚。ほんの肩で息をする程度の舌。小さすぎて笑える舌。笑える舌は、風をくすぐる。泡はくすぐられ、怒りを忘れた。


 夕方、術師団の屋上で、リザは私に一枚の薄い板を渡した。石の粉を練り込んだ紙のようなもの。〈ざらつき肌・持ち出し用〉。舌の先にこの薄板を貼ると、ざらつきの波長がわずかに変わり、泡の縁の回転の強さが調整できる。

「屋根の高さが揃ってない通りに使って。ざらつきの“段”を、板で切り替える」

「板は何枚?」

「五十。夜のうちに、あと五十」

「睡眠は?」

「短い歌で代用」

「短い歌は、長い寝不足の代用品じゃない」

「あなたが言う?」

 私は笑い、板を受け取った。受け取る手は、責任の重さを正確に測る。重さは灯に流せる。流した重さを紙で証明する。紙に落ちた重さは、横取りが難しい。


 舌の列が街の癖を覚える頃、《風読》の渦核は舐める回数を二度から三度に増やし、うち一度は嘘をついた。舐める振りをして、すぐ引っ込む。嘘を見抜くのに《風読》の線は早いが、現場はもっと早くなければならない。舌は嘘に弱い。嘘を信じて身構えると、身構えた姿勢で別の場所をやられる。舌の列に“無視”の手順を入れた。無視は動作だ。何もしないのではなく、何をしないかを決めること。舌は無視を覚えると、賢くなる。


 王都の南端、見張りの塔で、私はセレスと並んで風を見た。扇は閉じられ、彼女の指は欄干に掛かっている。瞳の底の泥は薄くなった。舌の効果は、王女の夜の眠りにも効く。

「宰相は、いつ成果を取りに来る?」セレスが尋ねる。

「明日。数字が壁に貼られて、一晩経ったら」

「貼る数字は?」

「“屋根圧、平均一割低下”“剥離件数、四割減”“舌の設置数、三十六”」

「“市井の歌、八十七”も加えて」

「笑われる」

「笑わせればいい。笑いは、数字から人間に戻す橋」

「橋は、牙に噛まれやすい」

「噛まれた跡が残る橋は、強い」


 翌朝、張り出し板の前に宰相が立った。彼は紙を二枚だけ手に取り、「よろしい」と一言残して去った。その後ろ姿は、盗みに成功した狩人のように軽い。だが、彼の軽さは半分だけ正しい。板の片隅に、セレスの筆致が小さく踊っていた。〈“風舌工”、名簿閲覧自由〉。名は、盗めない。


 昼前、風務局の年長が私に近づいた。珍しく、頭を掻いている。

「すまん。お前の舌だ。連続壁の書き付けは消す」

「消す必要はない。書き付けの上から、新しい線を引け。消すと、噂になる」

「噂はいつも、真実の半分だ」

「半分は、たいてい足りる」

 彼は苦笑し、板に新しい線を引いた。線は、嘘をあまり好まない。


 午後、私は子どもたちに「舌の歌」をもう一度短く教えた。高・低・低。舌は高く始まり、低く収め、低く忘れる。忘れるのが、肝心だ。風に恨みを残すと、次の歯形が深くなる。恨みを覚えない舌は、長生きする。


 その夜、南の空に稲光が一度だけ走った。牙ではない。舌の光。渦核は疲れて、寝返りを打った。市場の通りの舌は濡れを抱え、屋根は笑い、台所は蓋を二分で保ち、喉は黙り、皿は水を浅く抱いた。灯は少なめ。歌は短め。数字は紙に落ち、紙は風にめくれ、めくれた拍子に子どもが笑う。笑いは、街の体温だ。


 私は塔の縁に背を当て、《風読》の線をゆっくり畳んだ。南から二度舐める癖は、今日も二度で終わった。明日は三度かもしれない。四度かもしれない。癖は治ると見せかけて、位置を変える。舌は位置を変えて待つ。待つこと自体を設計する——それが、今日の仕事の内容だった。


 寝床に戻る途中、エミが新しい看板を見せてきた。小さな板に、ぎこちない字で「風舌工 見習い」。彼女は照れ笑いをし、舌を出す。

「字、下手」

「下手は可愛い。可愛い舌は、風に好かれる」

「好かれすぎない?」

「好かれすぎたら、ざらつきを足す」

「ざらつき?」

「言い返す言葉。きつくないやつ」

 エミは笑い、板を柱にかけた。板が風に揺れて、短く鳴った。風鈴の舌が、それに答えた。


 翌朝、《風読》の渦核は舐めることを忘れ、代わりに背伸びをした。等圧線は伸び、魔力線はほどける。舌は休み。休みの日は、手入れの日だ。舌の根元に油を差し、ざらつき板を一枚、二枚、交換する。ベルンは金具のゆるみを締め、グラールは帳面の「傷」を読み上げ、リザは術式の最後の符にひと筆足した。〈忘れの符〉。舌は、恨みを忘れる符を持つ。持っているふりでもいい。ふりは、よく効く。


 昼、セレスが市場に現れた。護衛は少なめ。扇は開かれず、指だけで挨拶する。彼女の瞳の泥は、薄くも厚くもない、ちょうど良い深さだった。

「舌は、街に似合う」

「壁より、舌の方が似合う街は、長生きする」

「宰相は、もう一度来る。演説の文に“連続壁”の語が残っている。消させる」

「消し切らなくてもいい。重ね書きの跡が、街の記憶になる」

「記憶は、時々、毒」

「毒は薄めれば薬」

 セレスは笑い、扇の先で舌の先端を軽くなぞった。「あなたの舌も、時々、鋭い」

「ざらつきだ」


 その日の夕暮れ、塔の上から街を見降ろすと、舌の列が影の中で淡く光っていた。光っていた、というより、濡れた木肌が日を吸っていた。泡の縁に沿って、小さな鳥が一羽、風に乗った。鳥は舌の上でふわりと浮き、すぐに肩をひとつ揺すって飛び去った。鳥は、正直だ。正直な背中は、舌の出来を教えてくれる。


 私は胸の中で、短い文を一つ、書いた。


 ——壁は通すため、舌は返すため。風は忘れさせ、街は覚えるため。


 《風読》の線は、夜の底で静かに寝返りを打つ。南の舌は、いつでも伸びてくる。伸びてくるものには、伸びていく形で答える。応える形は、句読点みたいに街のあちこちに置いておく。子どもが読める句読点。婆さんが笑う句読点。宰相が舐めて、王女が扇で叩く句読点。風務局が数字に訳し、術師団がざらつきで注釈し、ベルンが金具で挿絵を描き、グラールが脚注を付ける。


 渦の癖は、治らない。治らないから、扱いを変える。癖の軌道に、舌の列を曲げる。曲げた先に、台所の蓋と、喉と、皿が待っている。待っているものがある街は、噛まれても折れにくい。舐められても、笑える。


 私は塔の東に灯を一つ上げ、短く合図した。高・低・低。舌の歌。城の北から、扇の音が一度だけ返る。市井の舌と宮廷の扇のあいだに、細い糸がまた一本、渡された。糸は細いから、よく揺れる。よく揺れる糸は、風の歌をよく拾う。


 明日も舌を立て、ざらつきを足し、歌を短くし、数字を張り、笑いを少し多めに。宰相が横取りの機を見て、セレスが盾を出し、リザが式を磨き、ベルンが金具を鳴らし、グラールが帳面を滑らせ、エミが看板を指で弾く。王都は今日も、風の舌を味わう準備ができている。舐められても、噛まれても、まずは笑う。笑う街は、強い。


 ——舌を出せ。出した舌で、風を返せ。

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