3話「貴族の宴と、雨の日の台所」
朝の空は、薄い雲を一枚だけ肩に掛けていた。等圧線は昨夜よりゆるく、魔力線は塔の上で細くほぐれ、渦核は遠巻きにこちらを睨んでいる。噛みに来る気配はないが、舌打ちは練習している——そんな具合だ。市場はもう、自分の朝を持っていた。風鈴が三和音で目を覚まし、井戸の刻みは婆さんの指で一本ずつ増える。グラールは帳面の新しい欄に「予測票—畑」と書き足し、ベルンは金具を十個、さらに磨いた。エミは「ミント」を通りの端に吊るし直し、音程が半音だけ澄む。
「今日、城から使いが来た」溝の縁でしゃがんでいたグラールが立ち上がる。「“宮廷催事の安全観察”に市場からも一名、協力を求む、だそうだ」
「協力という言葉は、たいてい片側にしか利がない」私は笑った。「でも、見ておきたい。塔ばかり見てると、王の屋根の癖を忘れる」
「行くのは、あんたしかいない」グラールは顎を上げる。「帰ったら、市井の雨の台所を一つ見ろ。エミの家。屋根が弱い」
「承った。王の屋根の次は、台所だ」
王城の正門前には、既に馬車の列ができていた。車輪の幅は似ているのに、轍の深さが違う。重さが違うのではない。御者の手の癖が違う。宮廷の石畳は「同じ重さ」を好むが、人間はいつも少しだけ偏る。その偏りが、石に刻まれる。偏りそのものが、この国の模様になる。
案内役は、銀糸の飾りを控えめに配した若い侍従だった。左の靴だけ泥が高く跳ねている。「雨の斜面を下るとき、少し右足を甘やかす癖がある」と靴が言っていた。彼は目礼し、私を王城の南翼へ導いた。高窓の廊は、風にさやさやと鳴る。高いところの風は抑制が利いていて、地上の騒がしさを少しだけ遅れて運ぶ。
「本日の宴は“親潮会”」侍従が小声で言う。「氾濫原に別邸を持つ方々の集いです。春の満水期を乗り切った祝い」
「満水期を祝うのは良い。満水期を忘れるのは悪い」
「忘れるために祝うのかもしれません」
言い草は柔らかいが、侍従の目は乾いていた。乾いている目は、記録向きだ。彼はきっと夜に何かを書いている。
宴の広間は、川の香りがした。テーブルの中央に、氾濫原の縮景が据えてある。苔を貼り、砂を敷き、小さな木片の家を並べ、水路には銀紙の帯。帯は光を震わせ、さざ波のような“豊かさ”を演出していた。楽師が控えめに弦を撫で、料理人が白い皿に水辺の色を並べる。客たちは笑い、氾濫原の自慢を互いに交換する。
「我が別邸は水に浮く床だ」ひとりの男が胸を張る。「柱に仕掛けがあってな、増水すると浮力で床が上がる。水が床下に入っても、床上には来ない」
「床上浸水にはならない、と?」別の貴族が問う。
「ならんとも。設計は宮廷の技師殿だ」
私は縮景に近づき、手にしていた布包みを開いた。持参の「模型」を広げる。木片の箱、透明の枠、細い布、穴の空いた蓋。貴族たちの視線が、刺繍から木片へと落ちてくる。視線の重さは、意外と軽い。
「何をなさる?」と、男の顎が動く。
「床上浸水の模型です」私は笑って見せた。「といっても、笑って見るのに向いた模型です」
「ほう、笑える床上浸水とな」別の誰かがくつくつと笑った。笑いは偏見の角を丸めるから、悪くない。
私は木片の箱に水を満たし、透明枠の中に小さな家の模型を置いた。家は二種類。ひとつは床下に換気口と逃げ道の小さな穴を持つ。もうひとつは壁を厚くし、隙間を念入りに塞いだ“堅牢”な造り。どちらも床はわずかに浮力で動くようにしてある。私は観客に見えるように指先で水面を揺らし、小さな波を起こした。換気口のある家は、床下に水が入るが、反対側の穴からするすると抜ける。床は少し持ち上がるが、すぐに落ち着き、家の中の人形(ひどく不器用な出来だ)が倒れない。堅牢な家は、床下に水が押し込まれたまま行き場を失い、圧が高まって床を持ち上げ、やがて“ぼこん”と床板を外す。人形は見事に仰向けに倒れ、観客の笑いが起きた。
「強さには、逃げ道が要る」私は言った。「“堅牢”は、時として、力の通り道を殺す。水は押し返せるが、圧は押し返せない」
「風の話ではないのだな」肩章の金糸が多い男が食いつく。「水の話か」
「同じことです」私は透明枠の上辺を指で叩いた。「風も水も、器の癖に従う。従わないときは、牙になる」
「牙」ひとりの女が扇をそっと閉じた。「昨夜、市井で“空の線”を見たと報告があったわ。屋根の上に灯で描かれた地図。あなた?」
「市井の手の中に線を置くのが、私の仕事です」
笑いの熱が一段落した頃、部屋の奥の扉が静かに開いた。香の調子と足音の合奏が変わる。空気がわずかに背筋を伸ばした。王女セレスが入ってきた。年若い、というより若いと美しいの間にいる年頃。瞳は澄んでいるが、澄み切ってはいない。底にわずかに“泥”がある瞳だ。泥がある瞳は、流れを読む。薄紫の衣は川岸の薄明かりを連れていて、彼女の歩くところにだけ、床の木目が一度だけ水を吸ったように色を変えた。
「模型を見せて」セレスは近づくなり言った。声は高くない。高くないのに、よく届く声だ。
「畏まりました」私は再び水を揺らし、二つの家の床の動きを見せた。彼女は息を飲み、すぐに吐く。息の出入りの動きが、滑らかだ。
「床下の空気が押し上げるのね」セレスは自分の掌を伏せ、指をすこし立てた。「押し上げられた空気が抜ける道がなければ、床は浮いて、やがて破れる。抜けがあれば、床は息をする。床が息をする家が、わたくしは好き」
「息をする家は、掃除が面倒です」と金糸の男が肩をすくめる。「隙間に埃が」
「埃と水、どちらを床上に招くのがよいかしら」セレスは扇を傾け、にこりともせずに言った。その無表情な微笑に、周囲が少しだけ黙る。無表情な微笑は、王家の言語だ。笑いながら、誰かの舌を軽く噛む。
金糸の男は咳払いで誤魔化し、話題を変えようとしてうまく変えられず、葡萄酒に逃げた。セレスは透明枠の上に身を寄せ、私の模型を覗き込む。
「市井で灯を上げるのは、誰の許しで?」
「市場の許しで」
「術師団と風務局は?」
「風は許しを選ばない」私は肩を竦める。「だから、私たちが言葉を選ぶ。見える言葉で」
セレスの瞳の泥が、わずかにかき混ぜられる。
「見える言葉。いいわ。それで——あなた、名前は?」
「蓮」
「市井の蓮。わたくし、セレス。王女としてではなく、雨の夜に天井の音を聞く人として、あなたにお願いがあるの。氾濫原に建つ別邸が、今夜、宴の二次会をする。わたくしの叔父様の別邸。床上浸水を笑いに変えたい方々の集い。そこで、今の模型を持って、もう一度“笑い”を起こして。笑いは忘れさせるためにあるけれど、時々、思い出させるためにも使える」
「了解しました」私は頭を下げた。「笑いに混ぜる塩加減は、市井のやり方で」
「塩は手に取ってからね」セレスは扇で自分の掌を軽く打った。「舌に直接は、きつすぎるから」
宴の一部は、その場で私の模型を肴に続いた。貴族たちの自慢は、模型の前では少しだけ控えめになり、その控えめさがまた自慢の形を変えた。氾濫原の縮景には、誰かがこっそり小さな木片の橋を増やし、誰かが銀紙の帯の幅をほんの少しだけ広げた。見栄は世界を壊すが、見栄の調整は世界を保つ。そこに技術の出番がある。技術は見栄のために働くのではなく、見栄に働かされないために働く。
宴がいったん解け、侍従の案内で私が城を出ると、南の空に薄い幕が降り始めていた。雨にはならない。だが、湿りは台所を鈍らせる。市場に戻る前に、私は道をひとつ折り、エミの家へ向かった。グラールの指示——雨の日の台所。風下に開口部を作るだけで、室内の圧力差を整える。言葉にすると簡単だが、家には性格がある。性格に合わせて穴を開けるのが、難しい。
エミの家は市場の裏通りにある。壁は土と藁、梁は堅木の若い木。屋根は薄い板と布。板の重ね目は甘く、布は去年の秋に張り替えたばかりでまだ硬い。硬い布は、風の変化に鈍い。鈍い布は、剥がれる時も鈍い音を立てる。鈍い音は、怖い。
「台所、こっち」エミが先に立つ。彼女の足取りは軽いが、軽い足取りの中に時折、止む音が混じる。心配の音は、足音に小さく掠れる。
台所に入ると、湯気の匂いが鼻を撫でた。小さな竈、鍋、干した野菜、吊るした香草。壁の上部には小さな窓が二つ。外の通りに面した側は狭く、裏庭に面した側は少し広い。天井は低い。低い天井は、音を集める。音が集まる台所は、家の心臓だ。
「雨の日、ここで屋根が“ぶう”って鳴るの」エミが言う。「最初は低くて、そのうち“ぼふっ”てなる。鍋の蓋が浮きそうになる」
「浮きそうになる蓋は、先に浮かせてやるのが礼儀だ」私は竈の横にしゃがみ、天井の梁の位置を数える。梁の間隔は一定ではない。一定ではないから、均等な穴は似合わない。似合わない穴は、家に嫌われる。
「ベルン」私は扉の方を向いて声を上げた。いつも通り、彼はすでに来ていた。市場の誰かが私を呼ぶと、ベルンは手を拭いて現れる。「板を二枚、幅は手のひら、長さは腕から肘」
「ある」彼は頷き、五分で戻ってきた。ベルンの“五分”は信用できる。
私は台所の裏庭側の壁、梁と梁の間の高いところに印を付けた。ここに“開口部”を作る。と言っても、大穴ではない。二つの細い横長の穴。外側には板を斜めに立てて雨を弾き、内側には布の紐で開閉できる蓋を付ける。空気の通り道は、目に見えないから、見える印が要る。だから、私は蓋の端に小さな風鈴の舌を一つ、付けた。開けば舌が少しだけ鳴り、閉じれば舌は沈黙する。音の記憶は強い。未来の雨の日に、音が手を動かす。
「穴を開けるの?」エミの父が眉を寄せる。「壁が弱る」
「弱るところに、力を預けないための穴だ」私は板を当て、角度を示す。「風は台所の煙突から抜ける。だが、煙突が風上になると、逆流が起きる。逆流のとき、屋根の布は外へ剥がれたがる。内側の圧が押し上げるから。だから、風下に逃げ道を作る。押し上げる圧が外へ逃げれば、屋根は剥がれたがらない」
「息をさせる、だね」エミが頷く。「床のときと同じ」
「そう。床も屋根も、息をするのがうまい家は、長生きする」
ベルンが小刀で壁に切れ目を入れ、私は慎重に土壁を剥いだ。中から藁が現れ、それを指で掻き出す。外側からは雨避けの板を斜めに渡し、内側に布の蓋をさげる仕掛けを付けた。紐は台所の柱に回し、竈の手元から引けるようにする。熱い鍋を持ったままでも、指先で扱える工夫は、火のある場所には不可欠だ。
作業のあいだ、私はエミに蓋の“音”を聞かせた。蓋を一分だけ上げると、舌はほとんど鳴らない。二分上げると、低くひと鳴き。三分で、二つ目の舌が短く応える。四分は、台所の熱に吸われて舌が沈黙する——それは開けすぎの合図だ。音を身体に入れておけば、雨の日に指が勝手に動く。
「料理の匂いが逃げる?」エミの父が少し心配そうに訊く。
「匂いは逃げるが、湿気はもっと逃げる」私は笑った。「匂いはまた作れる。湿気が残したカビはそうはいかない」
「言い返せないね」とエミは肩をすくめる。「じゃあ今夜、試す」
ちょうどそのとき、空が一枚、色を変えた。薄い幕が二枚になり、低い層が西から滑ってくる。等圧線の密度が、台所の窓の向こうで目に見えない指を組む。私は竈に火を点けさせ、鍋に水を張って湯気を立てた。湿りを増やし、家に“試験”の合図を出す。
最初の低い“ぶう”が、天井の板の向こうで鳴った。エミが顔を上げる。私は竈の横で紐を一分、引いた。蓋が少し上がり、舌がひと鳴き。板は唸りを弱め、次の“ぶう”はわずかに音程が上がった。二分、引く。舌が短く二度、応える。三度目の“ぶう”は、鳴らなかった。代わりに、布の端がふっと浮き、すぐに落ちた。内と外の圧が、手を握った合図だ。
「どう?」とエミ。
「屋根は剥がれたがっていない」私は天井の縁に耳を寄せる。「布が少し“笑ってる”。笑う布は、いい」
「布が笑う、か」エミの父は苦笑する。「お前の言葉はときどき詩で、時々刃物だ」
「詩と刃物は、どちらも研ぐと光る」
台所の空気が軽くなると、エミはいつもより多く喋った。干し肉の塩加減、葱の束の吊るし方、雨の日の包丁の重さ。包丁は湿ると少しだけ滑る。滑る包丁は、手に「ゆっくり」を教える。ゆっくりの包丁は、味付けを賢くする。台所の科学は、手触りの科学だ。数式より先に指が知っている。指の記憶に言葉を与えるのが、私の仕事だ。
夕刻、私は一度市場に戻り、旗の縁をなで、グラールに短い報告をし、ベルンに板の余りを渡してから、城下の外れへ向かった。二次会の会場——氾濫原の別邸は、川の肩に立っていた。岸は緩く、草は濃い。増水時には、水は草の上を歩いていく。別邸はそれを“景色”と呼ぶ。景色には値段がつく。値段は水位と比例する。笑い話のようで、本当の話だ。
広間は、昼より陽気だった。酒の匂いは水より速く回る。中央に据えられた大きな卓上模型には、さっき私が見たのと同じ“浮く床”の仕掛けが誇らしげに組まれていて、その周りに小さな観客席が作られている。昼に笑われた“床上浸水”が、ここでは笑わせる側に回っている。笑いは主客が入れ替わるとき、よく転ぶ。
「市井の蓮殿!」金糸の男が私を見つけて声を上げ、集まっていた視線が一斉にこちらへ向いた。「昼の続きだ。氾濫原の誇りに、笑いの塩を」
「塩は手に取ってから」と私はセレスの言葉を借りて笑い、透明枠の模型を卓の横に置いた。「今日はもう一つ、持ってきました」
私は布袋から短い筒を取り出した。中に鯨脂の灯。灯の上に光鍵の小さな板を噛ませ、模型の“堅牢な家”の床板の端に置く。灯の光は、板の影で細かく切られる。切られた光は、水面のわずかな揺れをはっきり見せる。床の下の水が、押して、引いて、押して、引く。押すたびに床がわずかに浮き、引くたびに床が重くなる。繰り返しの中で、床が耐えられる限界まで、圧は溜まり、ある一点で「解放」の音がする。
「堅牢は、堅牢であるほど“解放”が派手です」と私は言い、灯を少し近づけた。「派手な解放は、宴では喝采。台所では悲鳴」
笑いが起き、セレスの扇がわずかに速く動く。「では、飲み物を床板に?」
「いえ、今日は床板に“逃げ道”を一つ足してみます」私は堅牢な家の壁に、針の先ほどの穴を開けた。観客のひとりが眉を上げ、別のひとりが鼻で笑う。穴は見えない。見えないものは、信用されない。
再び水を揺らす。床は持ち上がりかけ、穴から「こぽん」と小さな泡が上がる。泡は三つ、四つ、五つ。床は動くが、外れない。灯の光が、水面に細かい輪を描く。輪は模様になる。模様が、人間の記憶になる。
「床上浸水の笑い話は、穴一つで変わる」私は言った。「穴は恥ではない。穴が恥になるのは、穴の位置を間違えた時だけ」
「穴の位置を決めるのが難しい」セレスが扇を止める。「市井の蓮、城は穴をどこに開けるべき?」
「城は、城下よりも風下に穴を開けるべきです」私は広間の窓の向こう、暗くなりかけた川面を見た。「城が先に息をすると、城下は窒息する。城下が先に息をすると、城は少しだけ咳をする。咳で済むなら、安い」
広間の空気が、わずかに固まる。私は灯を吹き消し、透明枠を片付けた。笑いの塩は軽く、舌に残りにくい。だが、残らない塩でも、舌の記憶は変わる。
二次会の終盤、セレスが廊の影で私を待っていた。扉の向こうから音楽が漏れ、川風が薄く吹き込み、彼女の髪の端を小さく動かす。
「昼に言っていた“雨の日の台所”は?」
「ひとつ、終えました。風下に開口部。蓋に舌を付けて、音で覚えさせる」
「市井の王令ね」セレスは小さく笑う。「宮廷は明後日、春の治水演説をする。私はそこで、“息をする床”と“息をする屋根”の話を入れたい。許可は要る?」
「許可は要りません。言葉は自由です」
「王家の言葉は、自由に見せて、重く落ちる」彼女は扇を閉じ、胸元に当てた。「——重く落ちる言葉が、市井に届くように。あなたは市井で、わたくしは宮廷で。風を通しましょう」
「合図は?」
「先日、術師団の若い子が、市井で歌っていたわ。灯の合図。高・高・低・間・高。あれを塔の東で一つ。私は城の北で、同じ調べを返す」
「受け取ります」
「受け取って。——それと、模型、ひとつ借りていい? 叔父様に“穴”の美学を説明したいの」
「穴の美学は、いつだって誤解されます。どうか、誤解を遅らせて」
「遅らせるのは得意よ」セレスは目を細くした。「早めるのは、あなたの方が得意でしょう?」
城を辞すころ、小雨が出迎えた。雨は弱い。弱い雨は、台所を試したがる。私は早足で市場へ戻り、エミの家の裏口から台所へ滑りこんだ。竈はまだ温かく、湯気は薄く、天井の板は声を殺している。エミが頬を上気させて振り返る。
「鳴った、鳴らなかった、鳴った、で、鳴らない」彼女は指を折る。「三回目で合った。蓋は二分」
「覚えたな」
「舌が教えてくれた。あと、匂い。蒸気の匂いが軽くなった」
「匂いが軽いと、味付けが前に出る。塩は少し控えろ」
「さすが」エミは笑い、鍋の中を木杓子で混ぜた。「ねえ、蓮。科学って、結局、台所の道具だね」
「そうとも言えるし、違うとも言える」私は頬杖をついた。「科学は“名前の付け方”。台所は“名前で手を動かす場所”。名前を覚えた手は、知らない匂いにも動じない」
「じゃあ、私の名前も変えてよ」
「何に?」
「“ミント”じゃなくて」
「じゃあ……“風見”」
「それは屋根に置くもの」
「君は屋根の音を聞くから、きっと似合う」
エミは笑い、木杓子で私の肩をつついた。「今のは詩。刃物じゃない」
夜が深くなるにつれ、外の雨は一度だけ強くなり、すぐに細くなった。旗の縁が遠くで薄く光り、風鈴が短く会話し、井戸の種子が一つ分沈んでは戻る。私は台所の片隅で、今日見た貴族の笑いと、セレスの泥を思い出していた。泥のある瞳は、川の底を知っている。底を知っている者が上にいるのは、街にとって良い。だが、泥のない者が上にいるときより、街の仕事は増える。増えた仕事は、台所で始まる。
翌朝、雨は上がり、空は薄い光を広げていた。市場の通りには夜の湿りがまだ残り、風鈴は背伸びするように鳴った。グラールが帳面を抱えて近づき、眉を少しだけ上げる。
「城の宴はどうだった?」
「床上浸水の模型は、よく笑った。王女は、よく見た」
「見た王女は、だいたい書く。王家の言葉が重く落ちる前に、市井の言葉を下に敷く準備を」
「すでに台所で敷いた」私はエミの家の蓋のことを話し、ベルンに板の角をもう一枚削るよう頼み、リザ——そうだ、リザの顔が頭に浮かぶ。
彼女は塔の影から現れた。制服は着ていない。目だけが、いつも通りよく見える。
「昨夜、城の北から“高・高・低・間・高”が一度」リザが言った。「合図は受けた?」
「受けた。王女は、泥を知っている」
「泥を知らないふりをするのが、宮廷の作法。でも、泥を知っている目は、そのふりが上手い」リザはふっと笑う。「風務局が来る。今度は“理解した顔”で。理解した顔は、数字を持っていく顔」
「数字は持っていかせればいい」グラールが肩をすくめる。「灯は残る。歌も」
リザは私に短い紙片を渡した。〈北の丘、今夜、牙の影〉短い文の後に、見慣れない印。術師団の古い記号。牙の方角と、舌打ちの回数。私は頷く。
「今夜は市場の“見える化”を丘まで伸ばす」私は言った。「灯を二つ借りる。子どもを四人、若者を二人、婆さんを一人。歌を薄く、線を長く」
「貸す」グラールは即答し、帳面に新しい欄を増やした。ベルンはハンマーを肩にかけ、金具の袋を叩いた。エミは風鈴の舌を磨き、舌の音程を一度だけ上げた。
夕暮れ。私たちは丘に灯を運び、光鍵を噛ませ、旗を二つ、臨時に立てた。丘の上の風は市場より一音、高い。風鈴は短く、早口で喋る。井戸はないが、土の湿りが気圧の変化を足の裏に伝える。私は灯の列を市井の方へ伸ばし、通りと通りを結ぶ目印を置いた。丘の上の線は、街の呼吸の輪郭をひとつ大きくする。輪郭が大きくなると、牙の影は相対的に小さく見える。小さく見える歯でも、噛めば痛い。痛いから、備える。
夜、灯は歌い、旗は笑い、風鈴は相槌を打ち、子どもは合図を覚え、若者は板を軽く扱い、婆さんは刻みの代わりに昔話を一つした。昔話は、歯形の古地図だ。古い地図は縮尺がめちゃくちゃだが、地名は生きている。地名が生きている場所に、私は穴を一つ、開ける。
終礼のあと、私は丘の端に立ち、暗い氾濫原の方角を見た。昨夜の宴の笑いはもうない。代わりに、湿った草の匂いが濃く、川は音のない速度で動く。そこに別邸があり、床が息をするか、しないか。息をしない床は、沈黙のうちに割れる。息をする床は、軋みながら持ちこたえる。軋みの音は、笑いでは消えない。だが、歌で包める。灯の歌で。
丘から戻る途中、私は道を少し外れて、エミの家の裏手に回った。台所の蓋がわずかに上がり、舌がひと鳴きする。中から、塩の匂いと葱の匂いと、誰かの笑い声が漏れてくる。科学が生活の手触りを変える——教科書みたいな言い方だが、つまりは、夜の台所の湿りが軽くなる、ということだ。軽くなった湿りの分だけ、誰かの声が遠くまで飛ぶ。飛んだ声は、灯の線の上を歩く。
私は空に指で線を引き、声に出さずに、ひとことだけ言った。
「穴を笑え。笑って、覚えろ」
風は、その夜も黙っていた。黙っていることが、いちばん大きな合図であることを、私はこの街に来てから何度も学び直している。市井は穴で息をし、宮廷は泥で視る。灯は歌い、屋根は笑い、床は教える。貴族の宴と雨の日の台所は、遠いようで、同じ圧の出入りで繋がっている。圧は目に見えないから、見える形にして回す。回すたびに、街の骨は少しだけ強くなる。
翌朝、王城の北の塔から一瞬、灯が「高・高・低・間・高」と返った。セレスの扇の音が、遠くで水を打つ音に重なり、私は市場の塔の東で同じ調べを一つ、返した。市井と宮廷のあいだに細い糸が張られる。糸は細いから、よく揺れる。よく揺れる糸は、風の歌をよく拾う。
観測網は市井から。だが、市井だけでは足りない。市井で始めた歌を、城に届く高さまで上げる。城で重く落ちた言葉を、市井で糸に戻す。行き来のあいだに、穴をひとつ、必ず開ける。穴があると、呼吸になる。呼吸になると、笑いが生き延びる。笑いが生き延びる街は、噛まれても折れにくい。
今日も風鈴が鳴り、井戸の刻みが一本、増える。台所の舌は二分でちょうどよく、屋根は剥がれたがらず、床は息をする。市場の端で、ミントが揺れる。ベルンが金具を磨き、グラールが帳面を開き、リザが影で目を細め、セレスが遠くで扇を打つ。私は道具袋を肩にかけ、朝の光の中で、次の穴の場所を探し始めた。穴を開けることは、隠すことではない。穴を開けることは、見せることだ。見せるために、今日はどこを笑わせよう——そう考えるだけで、指が少し、軽くなる。