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2話「観測網は市井から」

 朝の匂いは、昨日より乾いていた。屋根の縁から滴る水は細く途切れ、敷石はまだ濡れているのに、靴底は重くない。等圧線は広がり、魔力線は細く伸び、渦核は遠くて大人しい。噛み癖の強い犬が、骨を埋め直して寝返りを打ったくらいの気配だ。


 市場の中央で、ベルンが新しい杭を束ねていた。彼は朝の光が似合う。木に触れているときの背中は、誰が見ても信頼できる背中だ。エミは干したハーブを並べ、昨日の笑顔の名残を口許に残している。グラールは溝の縁にしゃがみ込み、棒を差して深さを測っていた。帳面は傍らの箱の上、濡れないよう布で覆ってある。

「深さ、二と四分」グラールが言う。「昨日より一分深く掘ってある。誰の指示?」

「俺だ」私は手を挙げた。「流速に対して断面が足りない。もう二分、増やしたい」

「二分?」エミが首を傾げる。「どのくらい?」

「エミの親指の爪の幅、二つぶん」

「わかりやすい」グラールは鼻で笑った。「なら、浅くする代わりに、あふれ道を作るのは? 溝の肩に一列、石を敷いて」

「やる。溝の肩石は“逃げるための路”だ。名をつけると、みんな覚える」

「名付けは、あんたの趣味?」

「職業病」

 軽口を交わしながら、私は市場の屋根の上へ上がった。視界の端で、等圧線がゆっくりと角度を変える。風は今日、素直だ。素直な日こそ、仕込みに向く。骨組みを伸ばし、目の数を増やす。観測網は、上から降ってくるものじゃない。地面から芽を出すものだ。


 私は道具袋から薄い板と真鍮の筒を取り出した。板には四方に穴をあけ、中心に小さな回転軸を立てる。筒の中には短い音管と薄い舌。これは風鈴というより、風向計に音をつけたものだ。四方に向けた小さな舌と、わずかに異なる長さの音管。どの方向から風が来ても、鳴る音が違い、音の高さの差で風の角度がわかる。屋根に上げやすく、見張りの婆さんにも聞き分けやすい。


「ベルン」私は呼んだ。「釘を十本。細くて長いの」

「ある」彼は腰袋から取り出した。「また面白いおもちゃだな」

「おもちゃは良い言葉だ。触れたくなる」

 私は板の角に麻紐を通し、屋根の棟木に結んだ。風が舌を撫でる。東の舌がわずかに先に鳴り、次いで南の舌。二つの和音は短く、揺らぎが小さい。音の揺らぎ幅は風速に比例する。私は耳で聞き、目で線を重ねた。見えるものと聞こえるものが同じ地図の上に並ぶと、人は早く覚える。


「それ、いくらで売る?」いつの間にかグラールが屋根の下に来ていた。腕を組み、顎を上げる。

「売らない」私は笑った。「配る」

「配る?」グラールの眉が跳ねる。「慈善家の夢を見るには、うちの市場は騒がし過ぎる」

「損をする配り方はしない。屋根七軒に一つでいい。自分の家の風鈴が鳴れば、隣も気にする。七つの音が混ざると、通りの子どもでも風向きがわかる。最初に配った七軒は、明日から“風の目”と呼ばれる。呼び名は自慢になる」

「名付け戦略、二つ目」グラールは口の端を上げた。「費用は?」

「材料は市場の余りと、俺の手間。手間は今は安い。寝床はエミの納屋にある」

 グラールは肩の力を一拍、抜いた。彼女は利に敏いが、利だけでは動かない人だ。利に道を敷いて、その上に人間の誇りを乗せないと、首を縦に振らない。


 午前の間に、私は風鈴式風向計を十基、作って配った。配ると言っても、手渡して終わりではない。屋根に上げ、一緒に結び、音を確認し、家ごとに“鳴き名札”を決める。例えば、ハーブ屋の向きはミント、魚屋は銀鱗、粉屋は白粉。風が変わるたび、子どもが叫ぶ。「ミントが鳴いた!」「銀鱗が高い!」叫びは伝言になる。伝言は人を動かす。


 昼前、私は井戸端に移った。市場に三つ、近くの路地に四つ。井戸は町の肺だ。ここに“気圧瓶”を沈める。瓶と言っても、厚手の硝子の筒に栓をしただけのものだ。中の空気量と水の重みの差が、気圧の変化でわずかに動く。栓に細い管を通し、水面の高さを糸で読み取る。浮きにした種子は、乾けば軽く、湿れば重いから、曇天でも読める。井戸に関わる婆さんたちは、こういう道具に目が利く。私はやり方を説明し、測った時刻を石板に刻む方法を教えた。耳の遠い婆さんには、孫の手を借りた。


「これ、すごいね」井戸の番をしている老婆が言う。「水は黙ってるのに、空の機嫌がわかる」

「水は黙って強いから、空のわがままがよく響くんだ」私は答えた。「婆さんが毎朝、種子の目印を見て、刻みを一本足してくれたら、この市場は空の気まぐれの半歩先を歩ける」

「半歩先」老婆は口の中で反芻した。「よその金持ちは五歩先だが、わしらは半歩先でいいの」

「半歩先を続けると、一年で違う道に出る」

「あんた、口が上手いねえ」

 口は上手い。だが、口だけでは風は読めない。数字と骨、音と手。ぜんぶ揃えて、はじめて半歩に届く。


 午後、私は市場の塔に登った。かつて見張り塔だった石の塔で、今は市場の旗がはためいている。塔頭の足場は狭く、風は四方からくる。私はそこで、新しい旗を開いた。魔力旗。布には細い導魔糸が織り込まれ、縁には小さな符が縫い付けてある。魔力線の流れに触れると色がわずかに変わる。色の変化は目で見るには微々たるものだが、灯火を通すと分かれが良くなる——夜にこそ生きる旗だ。


 旗を掲げたとき、私の視界の魔力線がふっとひとつ、濃くなった。塔の足下を流れていた細い線が、旗へと吸い上がる。旗の縁で色が一段、浅くなる。導魔糸が余計なうねりを奪い、空へ返す。いい布だ。誰が織ったのだろう。風務局の備品ではない。手数が違う。市場の金では買えない品だ。借り物か、古物か。布の匂いは新しい塩ではない、乾いた草の匂い。誰かの手が最近、これに息を吹き込んだ。


 旗を留め、私は塔から下りた。下で待っていたのは、グラールと、見慣れない若者だった。若者は深い緑の上衣に、銀の縁飾り。胸元には細い杖の刺繍。宮廷術師団の印章だ。髪は栗色、瞳は灰。雨上がりの石の色。彼女は私を見て、予期していたものと同じ顔を見つけたように、目を細めた。

「あなたが蓮」

「そうだ。君は?」

「リザ。宮廷術師団・第三席補助。正式な用件じゃない」彼女は声を落とした。「ここでは、ただの市民と思って」

 グラールが短く目を細めた。彼女は相手の“ただの”を信じない。でも、それ以上は言わなかった。市場は、情報の出入りに敏感だ。余計な扉を開けると、風は思わぬ方向に抜ける。


「旗を見ていた」リザが言った。「導魔糸の取り回し、誰が教えたの?」

「誰も。手が覚えていた」私は正直に答えた。嘘を重ねると、風は耳を塞ぐ。

「あなたの目は、魔術師に近い。等圧線が見える者は少ないけど、魔力線も同時に読むのは稀よ。術師団の観測室でも、こんなふうに屋根に鳴り物を配る発想は出てこない」

「観測は、市井に降ろして初めて意味を持つ」私は言った。「塔だけで風を読むのは、塔のための風読む。市場のための風読むは、市場でやる」

「口が立つのね」

「手も動く」

 リザは笑わなかった。だが、目の色がほんの少し柔らいだ。彼女は手にしていた細い木箱を差し出した。蓋には簡単な封印が施されている。彼女は指先で封を撫で、囁くように解いた。

「これは、魔力旗の“光鍵”」彼女は言った。「灯火を通すと、導魔糸の色の変化を増幅して、遠目にも見えるようにする。夜に使って」

「夜?」

「夜、見せるのでしょう? “見える化ショー”。呼び方は好きじゃないけど、発想は好き。術師団は今、風務局と仲が悪い。局は自分の塔から数字を独占したい。術師団は数字を語として民に返したい。私は個人的に、あなたの側が面白いと思う。だから、正式には協力できないけど、密かに手を貸す」

 グラールが思わず咳をした。リザは視線だけで彼女を制し、淡々と続ける。

「条件はひとつ。私の名は出さないこと。術師団の若いのが市井に降りてお祭りをしているなんて、上は喜ばない」

「お祭りじゃない」私は首を振った。「導線だ。数字が人を動かすための道筋」

「お祭りの方が人は動く」グラールが棘のない声で言った。「どっちの言葉でも、やることは同じ。夜に灯を上げて、空に線を描く。子どもが叫び、次に大人が財布を開け、最後に役所が帳面を開く」

 リザの瞳がそこで、少しだけ笑った。

「市場は強い。——わかった。夕暮れまでに準備を。光鍵の使い方は私が覚えるより早く、あんたが覚えるでしょう?」

「見ればわかる」私は木箱を受け取り、光の角度で封の模様を読む。符は簡潔で良い。増幅は灯火の波長を選ぶ。油より鯨脂、薪より松脂。市場にあるもので十分、光を切り分けられる。


 夕暮れまでの数時間は、走り続けた。私は屋根から屋根へ、井戸から井戸へ、塔から通りへ、通りから倉へ。風鈴は二十基に増え、鳴き名札は笑いながら増殖した。気圧瓶は七つ沈み、石板には刻みが並ぶ。灯火の係は、焚き手の青年と、灯り屋の娘と、寄り合い所の番が受け持つことになった。光鍵を灯火に噛ませる金具はベルンが作った。金を使わず、鉄と真鍮で。彼は本当に、道具の言語に堪能だ。


 リザは市場の片隅で子どもたちに“光の合図”を教えていた。短い、長い、間を置く。灯を遮る板で簡易のシャッターを作り、腕の角度で方向を示す。彼女の指は正確で、言葉はやわらかかった。術師団の制服を脱ぎ、袖を捲り上げ、髪を紐で結ぶと、ただの若者に見える。彼女は市井を知らないようでいて、空気の混ざり方の要点をよく嗅ぎ取った。人の目がどこで輝くか、知っている目だった。


 日が落ち、最初の灯が点いた。魚屋の屋根に、丸い光。粉屋の煙突の先に、細い光。塔の上の魔力旗は、昼間より淡い青に寄っている。光鍵が灯に噛みつき、わずかな色の違いを拡げる。私は市場の中央に立ち、手で合図をした。鐘を一打。通りの端から端へ、灯が二つずつ、顺に点き、風鈴が三音ずつ、応える。


「第一計時」私は声を張った。「風向、風速、気圧。灯、鳴れ」

 灯火の係が板を持ち上げ、下ろし、隠し、また上げる。屋根の上で子どもが叫び、井戸端で婆さんが刻みを石板に足す。塔の上の旗は、光を流す。私は歩を半歩、引き、視界に重なる線図を夜空に投影するように意識をずらした。灯の位置は市場の縮図。井戸は圧、屋根は風、塔は魔力。体の中の等圧線が、外の灯の間を巡る経路と絡まり、どこで見せれば人が“線”を見るか、自分の脚が教えてくれる。


 鐘を二打。「第二計時」

 灯は先程とは違う配置で明滅し、旗の縁が一段、薄く染まった。光は空の煤けを薄く削ぎ、通りの上に薄い線が一本、浮かび上がる。エミが手を口に当て、笑い声とも歓声ともつかない息を漏らした。子どもたちはもう名札を叫んでいる。「ミント上がった!」「銀鱗下がった!」「白粉、間が長い!」

 間が長いのは、井戸の気圧瓶がわずかに上がった証拠だ。雨上がりの“吸い込み”が空の奥で強まり、地上の空気がゆっくり引かれていく。風鈴が鳴らす和音は、その“引き”を反芻する。灯は合図を繰り返し、私の合図と呼応するたび、夜空の線は濃くなった。市場の上に、簡易の等圧線が描かれていく。歪だけれど、堪能な歪だ。人の目に、風の輪郭が入っていく。


 通りの隅で、最初の賭けが始まった。魚屋の親父が粉屋に声をかける。

「明日の朝の風は北東に三分、賭けるか?」

「四分にしよう」粉屋が笑う。「代金は小麦一袋の半分だ」

 グラールがそこへ歩み寄り、睨みだけで賭けを“記録”に変えた。「賭けはやめ。予測票として受け付ける。明朝、結果を貼り出す。外れたら掃除を一時間。当たったら、市場への納付を一割免除」

 親父と粉屋は顔を見合わせ、笑って頷いた。賭けは遊びで、記録は市場の骨になる。骨が欲しい。市場は今日、肉を得た。骨も、必要だ。


 灯は三度、四度と点滅し、通りの暗がりに、線がまるで縫い目のように走った。子どもが疲れて交代し、婆さんが孫に合図の板を渡す。井戸の水面は静かに呼吸し、旗は風を薄く削ぎ、夜が“見る”ことを覚え始める。私の喉は乾いていたが、声はまだ平らだ。身体のどこかで、昔の夜が目を覚ます。堤防の上、濡れたコンクリート。押さえるべきの順番。灯りを背にした影の形。名前の決まっていない技術は、だいたい灯りと同じ匂いがする。


「終礼」私は最後の鐘を一打した。「本日の線、確定」

 灯が一斉に一呼吸、静まり、次に全て、短く明滅した。夜空に描かれた線はそこでひときわ濃く重なり、やがて薄く解けた。拍手が起きた。誰が最初に手を打ったのかわからない。拍手の音は市場を一周し、塔の石に当たって返ってきた。グラールは拍手を三回だけ打ち、すぐに帳面を開いた。ベルンはハンマーを下ろし、肩で息をしながらも目は笑っている。エミは頬を赤くして、私を見つめていた。


 リザは人混みの後ろに立っていた。術師団の上衣は着ていない。目だけが冷静に、しかし満足そうに光っている。彼女は近づき、声を低くした。

「よく通る。光鍵の増幅が想定より効いた。導魔糸の質が良い」

「君が用意した?」

「術師団の古い在庫。倉の奥で眠っていた。上は数字の新しさにしか目がなくて、道具の古さに眠る知恵を忘れがち。——明朝、術師団の同僚がここに来るかもしれない。様子見。彼らは友好的とは限らない」

「風務局も来る」グラールが割って入る。「塔の上の旗が何をしているか、局は見ている。灯火の合図は、街の屋根からも見える。隠すことはできない」

「隠さない方がいい」私は言った。「市井の真ん中に置く。隠すと、必ず奪われる。真ん中に置くと、奪った者は真ん中ごと面倒を見る羽目になる」

 リザとグラールが顔を見合わせ、同時に小さく笑った。違う笑いだが、同じ方向を向いている笑いだ。私は胸のどこかで、風が頷くのを感じた。頷く、という言葉は風には似合わないけれど、ほかに言いようがない。


 その夜、私はエミの納屋で横になりながら、耳を澄ませた。遠くでまだ風鈴が鳴る。誰かの屋根に残された一基が、夜風に短い和音を置いていく。気圧瓶の種子は、暗闇で静かに浮き沈みしているはずだ。私の視界の線図は、眠りの浅瀬で薄く流れ、魔力線の端は旗に触れる前に解けていた。渦核は眠り、夢の縁で一度だけうっすらと黒く脈打ったが、牙は見せなかった。


 翌朝、予測票の貼り出しはちょっとした人だかりになった。魚屋の親父が掃除を一時間して、粉屋は免除の札を受け取った。子どもたちは自分たちの合図が“結果”になるのを見て、誇らしげに胸を張った。婆さんは石板に刻みを三本足し、孫はそれを写して紙に写し、紙は寄り合い所の壁に留められた。記録は、人の目に触れたとき、記録になる。


 風務局からは、昼過ぎに二人が来た。灰色の上衣、真鍮の留め具、石板を挟む革の筒。彼らの靴は磨かれていて、泥の付き方は見事に左右均等。市場を歩き慣れていない足だ。最初の言葉は丁寧だったが、言葉の内側に“回収”の味がした。塔から数字を持ち帰る者の味。

「この灯火通信、許可は?」年長の方が尋ねる。

「許可は市場が出した」グラールが真っ直ぐに受けた。「市場は市場の安全のために灯を上げる」

「安全のための灯火は認められている。しかし、観測情報の配布は風務局の管轄だ」

「配布?」私は首を傾げた。「配っていない。みんな自分の頭で見ている」

「それを配布と言うのだ」年少の方が鼻で笑った。「市民は数字を理解できない。誤報が混ざれば混乱を招く」

「誤報はいつでも混ざる」私は言葉を噛んだ。「だから公開して、誤り方ごと共有する。独占した数字は、独りで誤る」

 年長の方は形の良い溜息をついた。溜息は形を整えるほど、周囲の空気から嫌われる。風務局は風に嫌われる瞬間を、きっと何度も見たことがあるだろうに。


 やり取りが硬くなる寸前、リザが一歩、前に出た。彼女は術師団の印を見せなかった。市民の顔のまま、静かな声で言った。

「風は言葉を選ばない。だから、わたしたちが言葉を選ぶ。市民が見える言葉で」

 年少の方の顎が跳ねた。年長の方は彼を手で制し、短く頭を下げて去った。局は今、観測塔の威厳と、市井の目の鋭さの間で立ち位置を探している。昨日の灯は、局の窓からも見えたはずだ。見えた灯は、知らないふりができない。


 その日の午後、南の空から薄い雲が上がってきた。等圧線はゆるく曲がり、魔力線は塔の上で穏やかにほどけている。牙の予兆はない。だが、薄い降りが一度、来る。私は風鈴の和音と井戸の刻みで確信し、通りの端に立って声を上げた。

「布を一枚、荷の上へ。濡れて困るものは地面から一つ上へ。掃除を終える人は、そのまま屋根に」

 言われなくても動く人たちが、もう動いていた。昨日の灯は、今日の動きの準備だった。準備の癖は、一度つくと強い。賭けではなく、習慣になる。


 薄い降りは、正午過ぎに来て、午後のお茶の前にやんだ。気圧瓶の種子は二つ分沈み、再び浮いた。風鈴は低い音に寄って、また高く戻った。塔の旗は、淡く、笑ったように見えた。笑う旗というのは気味の悪い表現だが、魔力線の端が陽の中でほどける様は確かに、笑いに似ている。市場は濡れた石の光を手に入れ、人々はそれを当たり前の顔で歩いた。


 夕方、私は寄り合い所の隅で、簡単な図を描いた。市場の上の簡易等圧線の地図だ。灯の位置、井戸の位置、風鈴の“鳴き名札”。そこに刻みの数字を落とし込み、線を引く。見慣れない線の地図に、子どもが群がり、大人が覗き込み、婆さんが眼鏡をずらして笑った。

「字に弱い者も、線は読めるんだよ」婆さんが言った。「線は、怒鳴らない」

「線は怒鳴らないが、嘘もつかない」私は答えた。「嘘をつくのは、線を引く者だ。だから、みんなで引く」

「みんなで怒鳴らない」エミが肩をすくめる。「それが一番むずかしい」

「一番むずかしいことは、いつも一番役に立つ」

 エミは舌を出し、笑った。その笑いが、線の端を柔らかくした。


 夜、二度目の“見える化ショー”は、昨夜よりも滑らかだった。合図の板は子どもの手から若者の手へ、若者の手から老婆の手へ、老婆の手から若者の笑いへと渡った。灯は迷いなく点き、風鈴は迷いながらも音を重ね、旗は迷いなく薄く染まった。線は昨日よりも細く、しかし切れ目が少ない。私は合図を減らし、人の動きに任せた。動く身体が線を覚える。線を覚えた身体は、次に人を動かす。


 最後の灯を落とした後、リザが塔の下で待っていた。彼女の目は夜目が利く。術師団で鍛えられた眼は、光のない情報の拾い方を知っている。彼女は言った。

「あなたがいなければ、これは二年かかった。あなたがいるから、二日で歌になった」

「歌?」

「線と灯、風鈴の和音と人の足音。歌のない技術は、長持ちしない」

「術師団も歌うのか?」

「ときどきね」と彼女は肩をすくめた。「そして、ときどき忘れる。上に行くほど、歌わない顔をする」

「顔は勝手に歌う。風が気に入れば、だが」

 彼女は笑い、その笑いは短く空に消えた。彼女は意を決したように、低く言った。

「明日、術師団の同僚の中に、あなたに興味を持つ者がいる。好奇心の顔をしているが、好奇心は時々、飼い犬の顔をして噛む。私の名は出さない。あなたは“市場の蓮”でいて。——そして、必要なら、私に灯を一つ、合図して」

「合図の歌は決めておこう」

「高・高・低・間・高」リザが指で空を切った。「塔の東、光鍵を二つ噛ませて。見落とさない」

「忘れない」

 灯火の合図が密約になる。密約は危険だが、危険は風と同じで、少しは必要だ。危険がゼロの街は、だいたい嘘で覆われている。


 夜半、遠くで雷の匂いが一瞬、横切った。渦核はまだ眠っているが、目蓋の下で目玉が動く。牙は見せない。舌だけが湿る。私は藁の上で寝返りを打ち、天井の梁の節を数えた。節の間隔は整っていないのに、目をなぞると整う。人間の脳は、整っていないものに整いを与えるのが好きだ。等圧線も、魔力線も、整ってはいない。だから、線を引く者は、時々、整えない勇気を持たなければならない。


 朝。三日目。市場は自分の朝を持ち始める。風鈴は誰に強いられるでもなく、屋根の音として通りの一部になった。気圧瓶の刻みは、婆さんが自慢げに孫へ説教するための道具になった。ベルンは金具の在庫を数え、グラールは帳面に“予測票—市民版”という項を増やした。私は塔に登り、旗の縁のほつれを指でなぞって、糸を一目、詰め直した。


 塔から降りる途中、足場の影に人影があった。肩を壁に預け、帽子を目深に。昨日の風務局の二人ではない。細い。猫背。目だけがやけに乾いている。彼は口を開かず、指で短い合図を切った。低・間・高。術師団の合図ではない。街の裏通りで使われる“仕事人”の合図だ。私は立ち止まった。

「用件は?」

 男は口角だけを上げた。「噂の“市井の塔読み”。上は嫌うが、下は好きだ。好きなことは、商売になる。——明日の夜、南の外れの駄菓子屋の屋根。灯を一つ、売ってくれ」

「売る?」

「名をね。灯を上げる権利は、名になる。名は店を救う。救われた店は、あんたの名を広める。あんたの名が広まると、上はもっと嫌う。嫌うほど、市は好く」

 面倒な匂いだ。だが、嘘ではない。私は男の指の動きを見た。指は嘘をつくのが下手だ。彼の指は“売る”という語彙をよく使ってきた指だ。私は短く頷いた。

「市場の許可が先だ」

「市場はあんたの味方だろう?」

「市場は市場の味方だ」

 男はわずかに肩をすくめ、影に溶けた。足音は残さなかった。残らない足音は、だいたい高くつく。


 昼、私はグラールに男の件を話した。彼女は即座に首を振った。

「駄目。灯を金にすると、灯が嘘を覚える。名が金になるのは止めない。名は嘘のためにある部分があるから。でも、灯は嘘を覚えるべきじゃない」

「では、どうする」

「名を貸す。灯は貸さない。看板に“風の目”の絵を描く。金は看板職人に落ち、噂は市場に落ちる」

「名付け戦略、三つ目だな」

「数えないで」とグラールは笑った。「数え始めると、ずれる」

 ずれる。風はずれるところから始まる。線はずれをつなぎ、地図はずれの集まりを“街”と呼ぶ。


 夕方、私はリザと塔の上にいた。彼女は光鍵の微調整をし、私は旗の縁をさすった。遠くの南で、薄い砂煙が上がった。等圧線は格子の目を細くし、魔力線は遠い森の上で一度、束になってほどけた。渦核は眠い顔をしながら、舌打ちの練習をしている。

「明日は東から長い帯が来る」私は言った。「降りは細いが、長い。市場だけじゃなく、南の畑も巻き込む。灯を市場から一つ、畑へ貸そう」

「貸す?」リザが眉を上げる。

「灯そのものではない。合図の知恵を。農夫の手は、灯より賢い」

「あなたの言うことは難しいようで、やっていることは単純ね」

「難しいことは、単純な手を欲しがる。単純な手は、難しいことに喜ぶ」

「術師団に来ない?」リザがふと、言った。「あなたの目は——」

 私は首を振った。「市井でやる。市井にしか、届かない線がある」

 彼女はそれ以上、勧めなかった。勧めなかったこと自体が、彼女の賢さだ。賢い者は“次も話せる機会”を残す。風は一度で決めない。


 その晩の「見える化」は、市場の枠を越えた。灯は通りを渡り、畑の端へ伸び、井戸の刻みは村の端で真似され、風鈴は家々の軒で混じり合った。線は上手くも下手にも、人の手の数だけ変奏を持った。ショーと言うには静かで、儀式と言うには軽い。軽い儀式は、町に良く効く。人と人の間の空気の温度を、一度だけ上げる。そこに線が通る。


 リザは約束どおり、合図を覚えていた。高・高・低・間・高。私は一度だけ、塔の東に光鍵を二つ噛ませ、彼女に小さく頷いた。彼女は頷き返し、術師団の影に一歩、戻った。私たちはそこで、敵でも味方でもなく、同じ“風の歌”の異なる声部を受け持っていると感じた。合奏は、いつだって危うい。危ういほど、音は遠くへ届く。


 夜の終わり、私は市場の中央に立ち、灯を落とした後の暗がりを見た。暗がりの中に、昨日より多くの“目”を感じる。風鈴の舌が微かな寝息をつき、旗の縁が夜露を吸い、井戸の水が地中の静脈で脈を打つ。人々の家の内側で、今日の線が明日のパンに混ざる。私は胸の中で、ひとつだけ、短い線を引いた。


 観測網は、市井から。


 塔からではなく、王からでもなく、術師団からでもなく。屋根の音、井戸の刻み、灯の握り、旗の縁。笑いと眉間の皺、掃除の一時間と免除の札。子どもの叫びと婆さんの説教。ベルンの金具とグラールの帳面。エミの“ミント”。リザの密やかな光鍵。ぜんぶが等圧線の一部だった。ぜんぶが魔力線の微かな偏りだった。ぜんぶを一緒に見たとき、空の牙は——牙の形のまま——少しだけ、鈍く見えた。


 鈍く見えるというのは、弱くなるという意味ではない。噛まれても、骨が折れにくくなる、という意味だ。噛まれても、名が残る。名が残れば、次の手がある。名もないまま噛まれた者の骨は、風化が早い。市井の観測は、名を残す技術だ。音で、刻みで、灯で、布の縁で、人の呼吸で。


 私は夜空に指で線をなぞり、誰にも聞こえない声で言った。

「次の歯形も、ここで写し取る」


 風は、黙って、しかし確かに聞いていた。黙っているというのは、いつでも最上の承認だ。翌朝に向けて、空はゆっくりと、歌のキーを変えていった。グラールは新しい欄を帳面に増やし、ベルンは金具をもう十個作り、エミは風鈴の音に合わせてハーブの束を並び替えた。リザは姿を消し、代わりに塔の陰に小さな紙片が一枚、残っていた。


〈明日、北の丘に牙の影。夜半、旗に“間”を二つ〉


 紙片の文字は美しすぎず、丁寧すぎず、走る風の速度で書かれていた。私はそれを指で折り、道具袋の底に沈めた。底に沈めたものほど、頭の上でよく響く。


 観測網は市井から——合言葉にするには気障だけれど、合言葉には気障が少し似合う。気障は旗になる。旗があれば、走る者はそこへ向かう。走る者がいれば、風は背を押す。


 市場の朝の音に、風鈴が一音、追加された。知らない家の、知らない子の声が上がる。「ミント、鳴いた!」続いて別の声。「白粉、短い!」井戸の婆さんが笑う。「刻み、一本!」グラールが筆を走らせ、ベルンが金具を打ち、エミが頷き、私は塔を見る。旗は新しい光を通し、魔力線は薄い笑みを返し、等圧線は、街全体でゆっくりと、手をつなぐ準備をしていた。

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