10話「晴れ間の街で(終)」
朝。王都の輪郭はまだ傷の地図を抱えていた。屋根の布は縫い目を増やし、路地の石は一枚ずつ微妙に色を変え、塔の階段は夜の湿りの記憶を手摺に残している。けれど、立っている。立っていることは、誇張ではなく、体の使い方だ。等圧線は緩く、魔力線は旗の縁でほどけ、渦核は遠くの丘で子どもの昼寝を真似ている。百年渦《大牙》で裂けた空の折り筋は、まだ淡く見えるが、折り紙は広げてからが飾りになる。折り目は、飾りの始祖だ。
《風読》を薄く立てると、今朝の街は“学びやすい”顔をしていた。風鈴の音階は昨夜から半音下げられ、井戸の気圧瓶は刻みを細かく刻み、「喉」は喉らしく喉を務め、浅皿は皿のまま浅く、旗は笑い、灯は昼の役目をやめ、帳面はふくらみ、扇は閉じられ、舌は口をつぐみ、数字は張り出しに腰を下ろした。
広場では、人の集まりがいつもより早い。「公開報告」は今日が区切りの式になる——式と言っても紙芝居と釜の湯気と風鈴の合唱が混じったようなものだ。壇も玉座もない。王女セレスは配給所の釜の脇に立ち、扇を閉じたまま、よく通る声で最初の一行を置いた。
「工事は権力ではなく仕組み」
短い。短いのに、重い。重さは扇の重さではなく、扉を開けた日々の重さだ。セレスは続ける。「治水と気象観測を常設にする。王家の下に新しい器を置く。名は『王都水と空の局』。水の器と風の書見台をひとつの棚に並べる。数字は飯の前、報告は灯の下、式は短く、名簿は誰でも読める場所に」
「局長は?」と、誰かが問う。問う声は市場の棟梁の女の声。「局長は誰でもない。局は二階建て。下の階は『工事票—市民版』、上の階は『式—術師団版』。階段に“扉”は置かない。ただし、壁は歩く」
セレスの言葉に、風務局の年長がうんうんと頷き、板を頭上で小さくゆすった。「数字は毎日。張り出すのは配給所の壁と井戸の横。『喉』は逆流の吠えを黙って報告し、『皿』は息を吐いた回数を刻み、『舌』は角度を日誌に、旗は光鍵の色の変化を一行」「三音の歌は?」と子どもたち。「歌は短く。高・低・高。間は、好きに増やしていい」とセレスは微笑んだ。「間は街の礼儀だから」
その場で、リザが一歩出た。術師団の浅い青の制服の袖を肘まで捲り、黒板の小ぶりな写しを抱えている。板の上の文字列は見慣れた符だが、新しい行が加わっていた。〈工学局——術と工の噛み合わせ室〉。読んだ群衆の背筋がわずかに揃う。
「術師団の中に『工学局』を作る」リザの声はよく眠った朝の声。「術を詩に戻さず、工を刃物にしない仕立て場。〈界層〉〈遅延〉〈干渉〉〈偏位〉、ぜんぶ“現場の歌詞”に訳す部屋。局長は私じゃない。——局は“局面”で決まる。面が変われば、歌詞も変える。嫉妬しないこと。術も工も」
笑いが起きる。嫉妬しない——それは術の習性をからかっているようで、からかっていない。昨日まで死にかけた術式の額の汗が、今日は涼しい。「教本は?」と、舌係の若いの。「書く。けど、分厚くしない。分厚い教本は、薄い現場に負ける。薄い歌を増やす」
エミは人混みの隙間をするりと抜け、板の前に出る。服の袖には灯の煤の色が薄く残り、指先には“ざらつき”の名残が虚ろに光る。「観測隊、作るよ」と彼女は言う。言葉が跳ねる。「『市井観測隊』。風鈴式風向計、気圧瓶、旗、舌、井戸、喉、皿。——隊長は、わたし」
わたし、に拍手が重なる。子どもも大人も、手のひらの皮が少し厚いから、音が良い。エミは続ける。「隊の仕事は、“学び”を街に載せること。大牙で泣いた子の手に三音を、婆さんの判に『喉』の回数を、配給所の釜に『数字の湯気』を。——『晴れ間の観測』こそ大事。危ない日にだけ空を見るんじゃなく、なんでもない日に空を嗅ぐ」
なんでもない日に空を嗅ぐ——その言葉に、鍛冶場のベルンが親指を立てた。彼は今日、金具の袋を肩から降ろし、代わりに規格表を抱えている。〈微舌・規格〉〈舌・蝶番・鳴らないこと〉〈逆止・革の厚み・油〉。規格の字は不格好だが、匂いはよい。鉄のにおいに、麦と塩の匂いが足されている。現場で育った規格は、飯の匂いがする。
グラールは帳面の耳を新しく整え、張り出しの欄を増やす筆運びを見せた。〈止めない壁・事例集〉〈手信号・図譜〉〈半歩偏位・骨評〉〈扉・開閉・二十三〉。欄の横に小さな点——昨夜の“良”。「“良”は珍しい」と彼女は頬を掻き、でも誇らしげに笑う。「珍しいから、薄めて毎日出す」
「では——褒賞の話だ」と誰かが言い出す前に、私は階段を降りた。降りた先は屋根。市場の端の、笑い損ねて裂け目を作った布の上。「蓮、受け取れ」と、背中に声。「王家の銀札がひとつ、王都の名誉がひとつ」声は年長の。王女の扇は薄く笑っている。
「もらえない」と私は振り向かずに言った。「銀は『喉』の革に、名誉は『止めない壁』の用語に。俺は、風鈴を整える」
固い空気が半拍だけ固まって、すぐに解けた。解けるのが早いのは、街がもう“褒賞の声色”を覚えたからだ。名誉は名に変換され、名は張り出しの隅に釘でとめられる。「蓮」という名に飾りはいらない。名は道具だ。道具は油をさす。私は風鈴の舌をひとつ外し、“ざらつき”を薄く残した薄板を貼り、紐を短くした。音が半音、低くなる。低い音は、晴れの日の理屈に似合う。
屋根の上で、子どもが三人。三音を練習している。高・低・高。間。間は、指で作る。指で作る間は、手の温度を相手に渡す。「間をくれ」と私は言った。「間をくれたら、風が聞く」「風は聞くの?」と小さな顔。「聞く。今日は特に。晴れ間は“聞く耳”が多い」
午前のうちに、王都のあちこちで小さな工事が始まった。工事と言っても、穴を掘って砂利を運ぶような大仕事ではない。舌の角度を一指だけ寝かせ、ざらつき板を一段だけ薄くし、旗の光鍵の色を琥珀から空色にし、井戸の気圧瓶の刻みを秒から分に戻し、喉の革に油を差し、浅皿の底の砂をひとつまみ洗って干す。どれも台所仕事に似ている。洗い物の途中で振り返ったエミが笑う。
「台所、工事の原型だね」
「汁は流体。湯気は等圧。蓋は逆止。火加減は遅延。皿は、皿」
「詩人みたいなことを言う」
「誤魔化してるんだ」私は布の皺を撫でた。「褒賞を断る言い訳を、詩に仮装してしゃべってる」
昼、城の広間では形式的な手続きが粛々と進んだ。宰相は拘束の札を剥がされ、代わりに「取調の札」を胸につけられ、砂時計は没収されたままだ。「言葉は記録に」と書記が言い、セレスは「記録は灯下に」と言い、補佐頭は黙り、風務局の年長は「数字は飯の前に」と繰り返し、術師団の古株は目を閉じ、扇は開かれず、扉は半開き、壁は歩く。王家記録庫の写しが広間の端で閲覧自由になり、巻四十五から六十の余白の間投詞に小さな栞が挟まれた。百年前の“沈黙”の位置に、今日の“歌”の譜が重なる。
午後、「王都水と空の局」の最初の会合。会議といっても、長椅子と釜と板だ。私、リザ、エミ、グラール、ベルン、風務局の年長、そして子どもが三人。子どもは欠かせない。子どものいる会議は、詩が短くなる。「局の目的は?」とリザ。
「晴れの日に、空を嗅ぐ」とエミ。
「数字を飯の前に置く」と年長。
「規格の字を太くする」とベルン。
「欄を増やし、字を減らす」とグラール。
「壁を歩かせ、扉に歌を」と子どもが言って笑いが起きる。
「局の第一規程」として、私は板に四行を書いた。
——流体に礼儀を。
——名は薄く、道具は厚く。
——歌は短く、数字は飯の前に。
——壁は通すために、扉は開くために。
「詩だね」とリザが笑う。「詩を規程にする局、嫌いじゃない」「規程は刃物じゃない」と私は肩をすくめる。「刃物は一瞬だ。規程は長い。長い詩の代用品だ」
会合のあと、リザは工学局の部屋を見せてくれた。術師団の一角に、木の匂いのする細長い部屋。黒板が三枚、机が四つ、棚に薄い本が十冊、窓が一つ。窓の外には旗。黒板の端に、昨夜の〈螺旋偏位—半歩〉の式の写し、そしてその下に手書きの見出し。〈素人のための薄膜——なぜ風は“舌”の背で眠るか〉〈喉の革の寿命——油の嗅ぎ方〉〈浅皿の底の砂——粒度と歌〉。読みたい人が読み、読みながら眠ってもよいように、文字の密度が呼吸に合わせて変わる。「この部屋に『嫉妬禁止』の札を」と誰かが言い、皆が頷いた。嫉妬は風に向けるものではなく、刃物に向けるものでもなく、昨日の自分が“短い詩”を思いついたときにだけ向けるものだ。
夕刻、王都は晴れ間を本当に手に入れたとわかる匂いになった。雨の気配がないのに、湿りが意味を持つ。洗濯物の湯気に混じって、浅皿の石の熱が細く空気を押し上げ、喉の革がむせずに閉じ、旗の縁が光鍵を遊ばせ、風鈴が笑い、逆止の弁座が私語をし、井戸の気圧瓶の刻みはなめらかに半分へ戻り、等圧線は紙飛行機の折り筋の手前でくつろぎ、魔力線はリザの指の匂いを忘れて街路樹の葉に絡んでいる。
私は屋根の端に座り、風鈴の舌をひとつずつ撫でた。音は低い。低い音は、遠くへ行く。近くばかり見ていた耳を、広げてくれる。下では、エミが観測隊の初点呼。子どもの名前に「係」がつく。「旗係」「喉係」「皿係」「合図係」。名を持った役目は、背筋を楽に伸ばす。伸ばした背に、短い歌が乗る。
遠くの北門で小さな喧騒。兵が列をすこし崩し、扉がひとつ、ゆっくり開いて、旅の一団が入ってくる。彼らは王都の噂を聞きつけてきた別の町の人々だ。手には粗末な風鈴、背には小さな皿、腰には細い管。「見学できる?」と、彼らは口を揃える。「見えるところは全部、見える」とグラールが軽く掲示を指差す。「見えないところは、紙に写してある」
王女の扇は夕日に細く光り、セレスは彼らに頭を下げた。「王都のやり方は王都のやり方。あなた方の街のやり方は、あなた方の声帯で決めてほしい。名だけ持ち帰っていい。名があれば、器は育つ」
宮廷の内側では、別の晴れ間が生まれていた。宰相の部屋から砂時計が全部運び出され、代わりに扇の古い骨が壁に掛けられた。「扇の骨は、骨の数だけ覚える」という古い言い回しが、ようやく意味を取り戻す。記録官室の窓が少し広くなり、夜の墨は昼の水で薄められ、巻四十五〜六十の写しは市井の張り出しと同じ紙質に刷り直された。紙の手触りを合わせるのは、政治の最低限の詩だ。
日が落ちる前に、工学局の黒板に新しい落書き。子どもの字で「止めない壁」。その下に矢印が二本。片方は中に、片方は外に。——中へ入れるために壁を置き、外へ出すために扉を置く。逆のようで、筋は一本。筋が一本だと、人は学べる。筋が二本に見えると、人は喧嘩する。今日は一本でいい。
夜。張り出しの板に新しい欄が増えた。〈晴れ間の観測〉。エミの手だ。晴れの日に、風鈴の音階、旗の色、井戸の刻み、喉の静けさ、皿の呼吸——を短く書いていく欄。「なぜ晴れの日に?」と誰かが問う。「晴れの日にしか学べないことがある」とエミは釜の湯気の向こうで笑う。「鍋が静かな日にしか聞こえない音がある」
私は張り出しの端に小さな行を足した。〈明日、微舌の追加設置:市場西二・四間〉〈舌—ざらつき板交換:三番通り〉〈喉—油:城南五〉。数字の横に、短い歌の符号。高・低・高——「終わり」。高・間・高——「間を置く」。低・低・高——「始め」。歌は、明日の段取りの箇条書きだ。箇条書きは、詩の姉妹だ。
広場の中央で、最後の「公開報告」。今日のはお祭りめいていたが、祭りの真似ではない。街が呼吸を確かめる時間だ。数は小さい——〈屋根裂け・補修・一〉〈喉・油・三〉〈皿・砂洗い・二〉〈旗・付け替え・一〉——小さくて、重い。重さは子どもの手の温度で割って、配給所の湯で薄める。薄めた報告は、よく染みる。最後に、セレスが短く言う。
「王都は傷だらけだが、立っている。——王都は、立てる」
彼女は照れ笑いをし、扇の先で「立てる」の下にもう一本、薄く線をひいた。「立てる」は動詞であり、形容詞である。人間の言葉が、ときどき工学に追いつく瞬間だ。追いついたら、抜かない。並走する。
式が終わる前に、私は屋根の上で風鈴の紐を最後にひとつ結び直した。結び目は小さく、固くなく、ほどきやすい。「蓮」背後でセレスの声。「褒賞、辞退と聞いた。——ありがとう」「ありがとうは要らない」と私は笑って振り返る。「扉を開けたのは、あなた。『止めない壁』の用語は、あなたが作った。俺は、風鈴を整える」
「風鈴を整えるのは、王都を整えるのと同じ」とセレス。「名は薄く、道具は厚く。——局の規程は、あなたが書いた詩よ」
詩と言われ、私は少し照れた。照れ隠しに、風鈴の舌に目を落とす。ざらつきは薄い。薄いざらつきが、晴れ間にはいい。晴れ間には、言い返しが弱くていい。声が遠くまで届くから。
夜風が上の方で歩き、等圧線の折り筋が夜の灯に触れて白く笑った。リザが工学局の窓を開け、黒板に最後のひと筆。〈明日、式を短く〉。短い式は、長い実務を呼ぶ。グラールは帳面を閉じ、「‘良’は薄めて出す」をもう一度確認し、ベルンは油壺を布で拭き、風務局の年長は板を抱えて帰る。エミは観測隊の子に毛布を配り、「晴れ間の見張り」を交代制にした。見張りと言いながら、彼らは星を数えるだけだ。星を数えるのは、晴れ間にしかできない学びだ。
私は塔の縁に背を預け、短い文をひとつ、書いた。
——空は気まぐれ。でも、人は学べる。
学べる、は万能ではない。学べる、は万能になる約束でもない。学べる、は「間」を覚えることだ。泣く前の一呼吸、怒る前の一行、扉を開ける前の半歩、刃物を研がないための詩。晴れ間の街は、間を増やすために、仕組みになった。仕組みは権力ではない。仕組みは“続ける”の形だ。
——最後の一行は、風の匂い。次の季節へ、準備は続く。