1 白い結婚
「俺からの愛など期待するな」
初夜の夫婦の寝室で、夫となったばかりのこの男オスカー・ラングフォード侯爵子息が言い放った。
ですよね〜、なんとなくそんな気はしていたのよ。だって初めての顔合わせでも『こんな婚約は納得がいかない』と顔に書いてあったし、半年間の婚約中もデートのお誘いどころか手紙ひとつ来なかったんだもの。
おかげで、顔を合わせるのも今日が二回目。たった一回会っただけの人と、結婚をした日に愛など育っているわけがない。それはこちらだって同じ。手紙の返事もくれない人に良い印象があるはずもないでしょ。それに身内だけの簡素な結婚式だったとはいえ、それなりに支度で疲れていた。初夜がないのは、願ったり叶ったりよ!
「はーい、かしこまりました! では、こちらの私室で休ませていただきますね。今日は一日お疲れさまでした〜」
「いやっ、ちょっ!」
「あ、そうだ。旦那様、別に愛のない仮面夫婦でも構いませんけれど、領地経営と家の財務については私にもお手伝いさせてくださいね。そのために嫁いできたのですから」
「それは、まあ……」
「よかった! 白い結婚ならそれくらいしかお役に立てませんもの。では、明日からよろしくお願いいたしますね!」
「し、白い結婚!?」
「おやすみなさーい」
夫婦の寝室から続き部屋になった私室の扉を開き、ペコリと頭を下げ扉を閉めた。
「は〜こんなピラピラした寝間着じゃ、お腹が冷えちゃうわ」
私は侍女達から着せられた薄い下着のような寝間着を脱ぎ捨て、愛用の綿の寝間着に着替えた。頭からスポッと被るスモックのような上着と、足首で絞ったズボンのセットで、もちろん上着はズボンにインである。お隣のおばあちゃんがよく『女の子はお腹を冷やしちゃいかんよ』って言っていたもの。色気ゼロだが、これならお腹は冷えない。
私はひとり、私室のベッドにもぐり込んだ。月の障りの時などはこちらで寝られるよう、私室にもひとり用のベッドが用意されている。だけどもうずっとこちらで寝ても良さそうね。
初夜であんな宣言をするくらいだもの、きっと私が子供を産まなくても愛人に産んでもらうか、親戚から養子を取るおつもりなんだわ。今世は子供を産み育ててみたかったけれど、気に入られなかったんだから仕方がない。オスカー様となら、きっとかわいい子が産まれると思ったのになぁ……
◇◇◇◇
私には前世の記憶がある。日本という国に生まれ両親と三人で暮らしていたが、二十歳の学生の時に両親が突然事故で亡くなった。私はアルバイトに励み貯金を切り崩し、なんとか大学を卒業。幸い両親が遺してくれた家だけはあったけれど、頼れる親戚もおらず就職したての給料でカツカツの生活をしていた。
そこで始めたのが、節約生活。食費節約のため庭に家庭菜園を作り、なんでも手作りをして食費を抑えた。野菜の育て方や保存方法を教えてくれたのは、お隣のおばあちゃんだ。休みの日に庭の芝生を引っぺがし、畑を作ろうと悪戦苦闘している私を見かねてイチから指導してくれたのだ。
「野菜ってのはね、ただ種を蒔いても駄目なんだよ。芽が出る季節ってのが決まってるんだ。種袋をよく見てごらん。発芽温度が書いてあるだろ? これをきちんと守るんだ」
「へぇ〜そうなんだね」
息子夫婦に引き取られるまでは、田舎で農家をしていたというおばあちゃん。ありとあらゆる知恵を私に授けてくれた。庭に生った果実でジャムを作ったり、おばあちゃんの梅仕事を手伝ったり……休みの日は大抵おばあちゃんと過ごしたので、ひとり暮らしも寂しくなどなかった。
「あんたもそろそろ、いい人はいないのかい?」
なんて時折私の心配をしながら、おばあちゃんはある日突然眠ったまま亡くなった。病気ひとつせず老衰で静かに眠ったまま。私はまたひとり、家族を亡くしてしまった。
そのとき私は三十歳、会社でも責任のある仕事を任されるようになっていた。通常の営業以外にも、新人の指導、新しい取引先への提案書の作成、後輩のミスのフォローと仕事が立て込んだ時期に、疲れからか会社で倒れてしまった。朦朧としながらも同僚の心配する声と救急車が近づいてくる音は聞こえていたが、倒れた拍子に頭を打ったためか前世の記憶はそこで途絶えている。
◇◇◇◇
次にそのことを思い出したのは、十歳のとき。クラヴェル子爵家の長女ノーラとして生まれ変わって十年が経っていた。
きっかけは領地にある山の中へキノコ狩りに出かけて、偶然湧き水を見つけたこと。それはただの湧き水ではなかったのだ。
「これ、炭酸水じゃない! ビンに詰めて売り出せば大儲けできるわ!」
「ノーラ、水なんか売れるわけがないだろ。国中どこにでも川があるんだし、水道の栓をひねれば水は出てくるんだから」
「いいえお父様、だだの水じゃなくて炭酸水なのよ! お酒を割ったり、甘いシロップを割ったりすれば、今までにない飲み物として流行るわ! 大人にはハイボールとか!」
「ハイボール? なんだいそれは」
一緒にいたお父様やお兄様は不思議そうな顔をしていた。だって炭酸水なんて、この世界にはまだ作る技術がないんだもの。ん? この世界って……
「あれ? なんで私はそんなことを知っているの……」
その時に前世の記憶を思い出した。そうよ、私は日本人だったのよ。炭酸水もその時に飲んでいたから知っているんだわ。モヤモヤしていた頭も次第にスッキリしてきた。
「お父様、お兄様、キノコ狩りなどしている場合じゃないわ! ここがうちの私有地でよかった。さっそくここに瓶詰め工場を建てましょう」
ふたりは口を開けてポカーンとしていたが、私は水筒に入っていた水を流し炭酸水を詰め直して邸に戻ると、父秘蔵のウイスキーを拝借してハイボールを作ってみせた。
「なんだこれは! シュワッとして爽やかで喉越しがいいな! ただの水割りとは一味違うぞ」
「こちらのレモンを絞っただけの炭酸水も美味しいです。こんなシュワシュワした飲み物は初めてだ」
「でしょう?」
私は腰に手を当て、ドヤってみせる。ふたりは納得して、すぐに工場を作る計画を進めていった。生産が始まるとすぐに誰も飲んだことがない炭酸水の噂は広まり、事業はあっという間に軌道に乗った。
元々父と兄の真面目な性格もよかったのね。今まで大した産業もなかった小さな子爵領は、数年で国内でも有数の資産家となっていった。
陰で『成金』などと揶揄されることもあったけれど、贅沢もせず、前と変わらず倹しい生活を続けていた。父と兄の経営も堅実だった。地元の業者に工場建設を依頼し、工場の従業員や山をきれいに保つための管理人、また営業や運送の人材も地元から雇用した。そのためますますクラヴェル子爵領は栄えていった。
そこに目を付けたのが、ラングフォード侯爵家だ。ラングフォード侯爵領は、レモンなど柑橘類の産地だったので、炭酸水に入れるレモン果汁を一緒に売ってほしいと話を持ち掛けてきたのだ。ラングフォード領は、数代前に水害があったため治水工事の資金が嵩み、オスカー様の父の代になってもまだ完全に経営を立て直すことができていなかった。
レモンを買うのは建前で、できれば資金援助をお願いしたいと頼み込まれたのが正直なところだった。家と家の結び付きを強くするのは、結婚が確実。しかもクラヴェル家をここまで押し上げたきっかけが私の一言だったと聞き、ラングフォード侯爵から是非にと請われ、ラングフォード家の一人息子オスカー様と、クラヴェル家唯一の娘である私が婚約することになった。
貴族に生まれた時点で、政略結婚もあるだろうなとは思っていた。なので、お見合いという名の実質婚約のサインをする顔合わせには、特に何の期待もせずに両親と王都へ向かった。
王都のラングフォード侯爵家では、侯爵夫妻の大歓迎を受けた。美男美女のご夫妻は、非常に眩しい!
「クラヴェル子爵ご夫妻、ノーラ嬢、よく来てくださった!」
「まあ、なんてかわいらしいお嬢さんなのかしら。ねえ? オスカー」
「……地味だな」
えっとー、初対面の婚約者(ほぼ確定)から、『地味』というお言葉をいただきました! ノーラ・クラヴェル十九歳です!
まあ確かに? 赤みのある茶髪はくせっ毛だし、ヘーゼルの瞳はそこら辺にゴロゴロいる地味な色味だ。オスカー様のような明るい金髪と、サファイアブルーの瞳に比べたら誰だって地味だと思うの。ちょっと背が高くてイケメンだからって、初対面の女性にかける言葉にしては乱暴よね。
オスカー様の発言に、うちの両親も侯爵夫妻も笑顔のまま固まっている。この空気はどうしたものか……うん、もうこれしかない。
「はじめまして。ノーラ・クラヴェルと申します」
私は聞こえなかったことにした。親が四人とも、どう出るべきか考えがまとまらず固まっているのだ。聞こえなかったことにするのが、大人の対応ってもんでしょう。
「あ、あぁ。ノーラ嬢、こんなところではなんだ。応接室へ案内しよう」
「えぇ、それがいいわね。さあ、皆様こちらへどうぞ」
私の意図が伝わったのか、引きつった笑顔ではあったが全員で応接室へと移動した。