決起
第49話更新です。
決断を迫られた清太は、何を選ぶのか。
「……ひがん」
寅吉さんの車の窓から片岡家の広い玄関を再び見たとき、ぼくの口からそうこぼれ出た。少し前まで、喜朗さんがぼくに繰り返していた言葉だ。
聞いたことがないと思ったけど、落ち着いて考えてみればそんなことはなかった。
彼岸。ぼくたちが生きている世界「此岸」と対になる世界。つまり、あの世だ。
『寅吉は、鈴子の魂は完全にあっちに行ったわけではないと言います。まだこの世にいるんだそうです』
霊感のある寅吉さんには、鈴子さんの魂がこの世をさまよっているのが感じられるのだという。
『鈴子の魂が肉体を手に入れて蘇れば、儂らもあの子と会えるのだそうです』
『寅吉の故郷では死んだ若者を蘇らせ、その者が焦がれた相手と結婚させる秘法があると言います』
『できることなら儂と登美代も、もう一度あの子に会いたい』
『そしてあの子が望んでいたように、焦がれていた貴方結ばれて、幸せになってもらいたい』
『無茶な話だとはわかっています。ですが、どうか』
喜朗さんはぼくに向かって、畳に頭をこすりつけるように頭を下げた。
「ご協力、感謝します」
走る車のエンジン音の中、寅吉さんの声がはっきりと聞こえ、現実に戻される。
「おそらく、お二人の話を突き返すこともできたかと思います。しかし、あんたはそんなことしなかった」
本当にありがたく思います。
「別に寅吉さんたちのためじゃありません。ぼくが、鈴子さんと結婚したいと思ったからです」
「なるほど、よくわかりました」
何がおかしかったのかわからないけど、ふっと笑い声が返ってきた。
「……だけど、本当にできるんですか」
——鈴子さんを生き返らせるなんて。
「俺の生まれ故郷は青森の小さな村なんですが、こんな話が伝わっています」
それはこんな話だった。
村に村長の孫娘である一人の美しい娘がいた。娘は隣村の村長の孫と結婚するはずだったが、落雷を受けて死んでしまう。悲しんだ若者は、旅の僧から死んだ娘と結婚する方法を教えてもらう。
「娘に似せた顔の人形を作り、人形の中に死んだ娘の身体の一部を入れる。それが、僧が教えた方法です。そして、その僧はある一冊の本を青年に渡しました」
「その本が、さっき喜朗さんが言っていた」
「ご推察通りです」
『貴方のご実家の古書店では摩訶不思議な本を取り扱っていると聞きました。故に、探していただきたい本があるのです』
鈴子さんの花婿になるとぼくが告げた後、喜朗さんは本を探すように頼んだ。一度も聞いたことのないものだった。
「失敗することはないでしょう。お嬢様の魂はほとんどあの世にいるようなものですが、完全にあの世の住人になったわけではありません。簡単に戻ってこられる場所にいる」
「喜朗さんもそんなことを言っていましたね」
「ええ」
寅吉さんはぼくの兄さんと同じ体質なのかもしれない。
「しかし、気づいていないんですか。それとも気づいていないふりを?」
「え?」
「あんたのすぐ後ろにいますよ」
意外と鈍感なんですね。寅吉さんが、ははっと笑う。
「まったく、こっちからしたら羨ましい限りだというのに」
「いるって、誰が」
「鈴子お嬢様のことに決まってるでしょう」
「彼の言う通りよ」
声と共に、耳に熱い息がかかった。それまではなかったはずの、石鹸のような爽やかな香りも鼻孔をくすぐる。
前方の窓ガラスに暮れかかった陽の光が一瞬だけ反射したとき、ぼくの首に二本の腕がかかっているのが見えた。
「ずっと、一緒よ」
囁きは、耳元で甘くとろけた。隣を見ると、上等そうな着物を着た鈴子さんがぼくの隣で微笑んでいた。
どうして、気がつかなかったんだろう? 違う、気がつかないふりをしていたんだ。本当はもっとはやくわかっていたじゃないか?
「……すずこさん」
ぼくの手は、彼女の白い手をつかんでいた。つかんだ、はずだった。
「そんな」
目で見れば、ぼくの両手は確かに彼女の手に触れている。しかし、指先は何かに触れている感触がない。ただの空をつかんでいる。
「違うでしょう、今の私」
悲しそうに鈴子さんが言った。
「肉体がないの」
うるんだ両目がぼくを見つめていた。
「貴方と同じものがほしいのに」
雪が溶けていくようだった。
「待って、鈴子さん」
ぼくには止められない。虚しく、彼女の輪郭が薄れていく。隣にいたはずの彼女は、どこにもいなくなっていた。
車はやがて、神保町についた。見慣れたはずの景色は、今までとは違うものに見えた。
「俺はこれから、お嬢様のお身体を作るつもりです」
「身体?」
「お嬢様の魂が宿るお身体です。できあがるまでにはひと月ほどかかります。あんたは、それまでに旦那様が言った本を探してください。本の名は覚えていますか?」
「覚えています」
「結構です。頼みましたよ」
彼が再び車に乗り込み、元来た道を走り去っていくのを見届けたぼくは、裏通り目掛けて走っていった。
『その本は、日本に一冊しかないと言われています』
『さまよえる鈴子の魂をこの世に呼び戻すために必要なものなのです』
喜朗さんは、そう言っていた。
『貴方のお兄さんたちのお店なら、きっとお持ちのはずです』
彼の言う通り、きっとあるはずだ。怪奇庫には、奇妙な本が揃う。
「……兄さん!」
店に駆けこんだとき、兄さんは書架の本にはたきをかけていた。
「おう、何だ。やっと帰ってきたと思ったら、息切らして」
「あのさ」
「ああ?」
「——裏経文って本、ある?」




