再会
第46話更新です。
謎の女性は一体何者なのでしょうか。
背中まで伸びた長い黒髪は、日差しが少ないその日でも艶々と光っていた。
「よし、よし」
美しい黒髪を持ったその女性は、ぼくのこめかみをひんやりとした手で撫でていた。まるで赤ん坊をあやすみたいに。
一人でいたときよりもっと、涙がぼくの両目から流れ続けた。頭が痛くなるぐらい、とにかく泣いた。
どれだけぼくが泣いても女性は怒ったり、馬鹿にしたように笑ったりなんかしなかった。
「辛かったのね。大変だったのね」
「悲しいときには、泣けば良いのよ」
「そうすれば、少しは気持ちが楽になるわ」
ぼくを気遣う言葉一言一句が、耳元に甘く溶けるように響いた。
不思議なことに、触れられたところからじんわりと熱が全身に広がっていくような気がした。兄さんに同じことをされたら手を払いのけたかもしれないけど、彼女に対してそんな気は微塵も怒りはしなかった。
ごほん。
いつしか、女性の口から苦しそうな咳が一つ飛び出した。
女性はぼくの額からさっと手を引っ込めると、ハンドバッグからハンケチを取り出して口を抑えた。
「大丈夫」
ですか、と聞きかけたぼくの視線は自然とハンケチの方にいっていた。
「あっ」
見るつもりなどなかった。
彼女の肌と同じぐらい白いハンケチに、ぽつんと紅色がついていることなんて。
彼女の体内から吐き出されたばかりの紅は、濡れたようにぬらぬらと光っていた。
「……ごめんなさい」
今にも消えそうなか細い声とともにハンケチを細い手で握りしめ、女性は立ち上がろうとした。
途端、ぐらりとその身体が前に傾いた。
「危ない!」
女性が倒れる前に何とか身体を支えることができた。
「有難う」
ぼくの腕の中で息を吐いた女性の顔は、咳をし始める前よりもさらに白くなっていた。明らかに健康じゃない人の顔色だ。
「……見苦しいところを、見せてしまったわね」
余計なことを言ったぼくを責めることもなく、女性は悲しそうに笑ってみせた。
「もう、大丈夫。立てるわ」
まだふらふらとしていたけど、女性はぼくの腕の中から抜け出した。
「お嬢様」
女性が立っている向こうから、低い声が飛んできた。
学士会館の前、止まっている大きな自動車。そこから、白いシャツとパンタロンを履いた男の人がずんずんと歩いてくる。
少し怖かった。肩幅もぼくの倍ぐらいあったからというのに加えて、よく日焼けをしたその人の顔の左頬には大きな刃物でざっくりと切ったような傷跡があったから。
「寅吉さん」
「お嬢様」と呼ばれた彼女が、男の人の方を振り向く。
「そろそろ帰りましょう。この寒さはお身体に障る」
「……そうね」
女性は洋傘の柄をぎゅうっと両手で握りしめると、悲しそうに顔を伏せた。
「だけど、ちょっと待って頂戴。……ねえ、あなた」
車の方を向いた男に「さあ、行きましょう」と促されているのを遮ると、女性はぼくを真正面から見つめた。
「あなたのお名前は何というの」
「えっと、清太」
「清太さん……私ね、さっき思ったの」
女性の両手がぼくの手を取る。
ひんやりと氷のように冷たい、だけど高級な布みたいになめらかな手が。
「あなたとは、もっと早く出会いたかった」
彼女はなぜそんなことを言ったのだろう? 未だにぼくはわからない。
ただ、ぼくを見つめるうるんだ黒い瞳がまぶしかった。心臓が爆発してしまいそうなぐらい痛かった。
「ぼくも、そう思います」
自然と、口に出してしまっていた。少なくとも、嘘じゃあなかった。
「……そう、嬉しいわ」
半月のような切れ長の瞳が、きゅっと細まった。
顔は相変わらず真っ白だったけれど、微笑んだ彼女の頬にはうっすらと赤みが差していた。
「お嬢様、そろそろ」
もう待てなくなったのか、後ろに立っていた男の人が女性に話しかける。
「寅吉さん」と呼ばれていたその人は、一度もぼくの方を見ることなく、女性の方だけを見ていた。
「清太さん、きっとまた会いましょう」
男の人に手を引かれた女性は、帰り際に一度だけぼくの方を振り向いた。
やがて二人が乗った車が走り去ってしまうまで、ぼくは木偶のように道に突っ立っていた。
翌日、ぼくは高熱を出して寝込んだ。少しずつ寒くなってきた秋の空気の中、薄着で路上にいたのだから当たり前だ。
「まさか風邪引くとは。お前も馬鹿じゃあなかったんだな」
細川さんの家の寝室、ぼくの額に載っていた冷たい水で濡れた手ぬぐいを替えながら、兄さんが笑った。
何も今、兄さんお得意の皮肉を言わなくたっていいじゃないか!
そう思ったけど、背中を走り続けるぞくぞくとした悪寒が辛くて、文句を口に出す元気はなかったし、しばらくしないうちに意識が消えた。
ぱっちりと両眼を大きく開けて目を覚ましたことを覚えている。
左側がまぶしいことに気づいて、目を動かす。部屋に一つだけある小さな窓がある位置だ。
窓の外はペンキで辺り一面を塗りつぶしたような闇の色をしていたけど、一筋だけ細くて黄色い光があって、それが部屋の中に入り込んでいた。月の明かりだ。寝ているうちに夜が来ていたんだ。
兄さんが看病に来てからどれぐらい経ったんだろう。でも、ひと眠りしたことでいくらか気分が良くなっていた。だからぼくは起き上がろうとした。
無理だった。どうしてだか、身体が動かなかった。額の上のほとんど乾いた手ぬぐいを外してしまいたかったのに。
この状態を兄さんは「金縛り」と呼んでいた。人間じゃない良くないものを連れてきやすい体質の兄さんは、よくこの状態になっては愚痴をこぼしていた。
「夜中に目ェ覚まして、動けなくなったら気をつけろ」
「悪いもんを連れてきてる証拠だぜ」
——しまった。
ため息をつきたかったけど、それすらできなかった。兄さんの弟だから似てしまったんだ。そう思えて少し悲しくなった。
——どうしよう。
唯一動かせた目をゆっくりと動かしていると、すぐそばで気配を感じた。
右横に誰かが座っている。そんな気がした。
仕事を終えた兄さんが、ぼくの様子を見に来たんだろう。そう思って、両眼を動かした。兄さんじゃなかった。
その人の全身は、ぼんやりとした青い光に包まれていた。
それでも、彼女の髪はつややかな漆黒をしているであろうことは十分にわかった。




