成長するのは子だけではない
第42話更新です。
西宮はトラウマを克服することができるのでしょうか?
西宮に構わず、潔はぽんと西宮の肩を叩いた。
「あんたはもう、酒井少年のことを忘れないって決めたんだろ? だったら、それでいいじゃねえか」
なあ? と尋ねるように、潔が片眉を上げる。
「むしろそんなこと考えてると、奴さんまた戻ってくるぜ」
戻ってくる。その一言だけが、西宮の心に重く響いた。
「……彼はもう、ここにはいないんですね」
「ああ。あんたの中にも周りにもあいつの気配はねえ。酒井少年は自分がいるべき、場所に戻ったのさ」
良いことだ。
「だけど今のあんたには旧友との思い出がある。そうだろ?」
「……そうですね」
「それでいいじゃねえか」
酒井が消える寸前の笑みを思い出しながら、西宮も微笑んだ。
あれは黒いもや、もとい酒井の「寂しさ」から来る思念が祓われた表情だったのだろう。
——良かった。
どんな形であれ、友の笑みをもう一度見ることができたことが。
「ところで、これが僕のところに降ってきたのはなぜなんでしょうね?」
純粋な疑問が漏れ出る。
潔はしばらく考えるように口をつぐんでいたが、やがて口を開いた。
「……テレポーテーション、か」
「てれ?」
——また難しい言葉を!
しかも、西宮の苦手な横文字だ。
「テレポーテーション。千里眼の仲間みたいなものといえばわかりやすいかね」
念力など超自然的な力で人や物が瞬時に、遠く離れた場所に移動してしまう現象のことだという。
「俺はここに来るまでずっと、同じことを強く考えていた。あんたに会ったらすぐに形代を渡す、ってな」
——つまり。
「潔さんの強い思いが高じて、形代が僕のところにええっと、テレポーテーションしたと」
「かなり都合の良い考え方だがな」
「でも、辻褄は合いますよね。実際にそういう現象が起きていたんじゃないですか?」
すごいですね、潔さん!
手放しで褒める西宮。
「……西宮、悪い奴に騙されるなよ」
「え、どういうことですか?」
「なんでもねーよ」
ぽかんとする西宮を見て、潔がおかしそうに吹き出した。
穢れを受けた形代はどうすればいいのか。
西宮の問いに対する潔の答えははっきりしていた。
「穢れは水の流れとともに散っていく。川に流せばいいのさ」
築地には、役目を終えた形代を流すのにうってつけの場所がある。作曲家・滝廉太郎が唱歌にも残している「隅田川」だ。
広大な隅田川の一部であり、二つの橋を見渡せる越前堀川岸に二人は向かった。
川べりに浮かぶ舟から酒屋の男たちが積み荷の酒樽を下している片隅で、西宮は形代をそっと流した。
止まることなく流れ続ける川の流水とともに、西宮の名の書かれた形代は徐々に遠ざかっていった。
「潔さんは、これからどうするんですか?」
川沿いを並んで歩きながら、西宮は潔に問う。
「帰るさ、ここに俺の家はないんでな。あんたは家に戻るのか?」
「……ええ」
歩みを止め、頷く。
「もう一つ、決着をつけないといけないことがあるので」
「いい? 父さまのご機嫌を取ろうとか、余計な心を使っちゃあ駄目よ」
「今の龍くんがどうしているか、ありのままを伝えるの。それだけできっと大丈夫なはず」
緊張した表情を隠せなかったからか、鷹子は西宮にそう耳打ちした。西宮は何も言わず、ただ大きく頷き、深く息を吸った。
それから、父の部屋の襖に向き合った。
「……父さま、龍之介です。本日帰宅しましたので、ご挨拶に参りました」
震える声を抑えながら、呼びかけた。
やがて、障子の向こうから「入れ」と返ってくる。
障子一枚隔てていても、芯の通ったような力強い声がはっきり伝わってくる。
「……失礼致します」
するすると開いた障子の向こう、父が座っていた。
ぴんと背を伸ばして座る姿は、とても患ったとは思えないほど矍鑠としたものであった。
「只今、帰りました」
「そこに、座れ」
身を縮こませながら、父の正面に正座する。
「……二年もの間、どうしていた」
声を荒げて罵倒するでもなく、巌は静かに問いただした。
「日雇いで植字をしながら、暮らしております」
時折つっかえながらも、姉に言われた通り全てを赤裸々に伝えた。
本郷のアパートの安部屋を拠点に、神保町で日雇いの仕事をしていることも。職場の上司やその街で出会った同年代の青年に助けられながら、何とか生きていることも。
「おかげさまで大病もなく、過ごしております」
そう締めくくり、話を終えた。
「——そうか」
罵倒や説教を飛ばすことなく、父は腕を組んだまましばらく黙り込んでいた。
永遠に続きそうな静寂の後、父は口を開けた。
「龍之介」
「はい」
「なぜ、学業が嫌になった」
——来た。
西宮は身を硬くする。どう答えればいいものか。
「長くなりますが、良いでしょうか」
少しの沈黙。
「……構わん、言ってみろ」
「中学の頃、私には親友と呼べる友がおりました。彼も、学業に大層励んでおりました。彼は己の苦手な科目を克服ことができず、いつも苦しんでいました。そして、僕が二年の秋に……」
言葉が続けられなかった。
だが、言わずとも何のことかは巌も理解しているはずだ。
「そのことが。そのことが、幼かった僕にとって大きな打撃となりました。……言い訳のように聞こえるでしょうが、僕は恐ろしくなってしまったのです」
友人の死を言い訳にしていることは、痛いほどわかっている。
だが、事実なのだ。偽ることはできない。
「恥ずかしいことですが、僕は逃げたのです。自分が歩むべき道に背を向け、全てを投げ捨てた。自分でも、随分と情けないと思います」
頭を下げ、額を畳にこすりつけた。
父の顔を見ることなどできなかった。
「父さまを失望させてしまい、申し訳ございません。こんなにも、不甲斐ない息子で」
「顔を上げろ」
鶴の一声と言うべきか。
鋭い一言は、西宮を巌の方に向けさせるためには十分であった。
「……少し前になってようやく、気づいたことだが」
巌がおもむろに立ち上がる。
しかし西宮の方に来るでもなく、背後にある窓に顔を向けた。
「我が子が自分の元から離れていくというのはな」
「……はい」
「簡単に言葉にはできぬぐらい、悲惨なことだ」
お前が家を出て行ってから、ようやくわかった。
それが父なりの後悔の言葉であることに気づくまで、少しの時間がかかった。
父の顔は窓の外を見ている。だから、どんな表情をしているかはわからない。
しかし、声だけは涙をこらえているように震えているのがわかった。
「……もう俺の言う通りの人生を歩めとは言わん。龍之介、お前はただ」
巌が振り向く。
西宮の見間違いでなければ、その瞳は透明な雫でうるんでいるように見えた。
「ただ、生きろ。生きるために、もがいて足掻け。俺よりも先に死んだら」
その時こそお前に失望する!
ようやく、父は声を声高に言い放った。しかし、微塵も恐ろしいなどとは思わなかった。
「……はい。肝に命じます!」
負けじと、西宮も声高に返す。
満足そうに頷いた父の頬を、涙が伝うのが見えた。
どこか爽やかな気持ちで廊下に出ると、鷹子がにこにことした面持ちで待っていた。
「言ったでしょう? 父さまも丸くなったって」
どうやら、全部聞いていたようだ。
「本当に変わったね。あんなに怖かった人とは思えないぐらいだ」
「そうよね。……だけど、龍くんも本当に成長したわねえ」
「そうかな?」
「したわよ。自分の考えをはっきりと言えるようになってたもの。偉いわ~」
「ちょ、それはやめてくれよ……」
よしよしと頭を撫でてくる姉の手を、そっと払いのける。
「ああ、そうだ。姉さまに聞きたいことがあるんだけど」
「なあに?」
姉が知っているかどうかはわからない。だが、西宮の問いを聞いて鷹子はこくりと頷いた。
「……ああ、そのことね。もちろん、知ってるわ」




