決別
第41話更新です。
お待たせしました、「彼」がやってきます。
何が起きているのか。
目で見えてはいるのだが、その意味までは西宮には理解できなかった。
「絶対に逃がさない。逃がさない逃がさない……」
酒井は呪詛を吐き続け、周りの黒い腕もまだ動き続けている。
しかし、西宮には向かっていない。
西宮の頭上には、あの人型の紙があった。それは、西宮と酒井の間に挟まるような形で宙に浮かんでいた。
黒い腕は、全てその紙に吸い込まれていく。インクを吸いとる吸い取り紙のように。
その紙はまるで破れる様子を見せなかった。原理などわからないが、西宮の人智を超えた何かが起きていることだけは理解できた。
いつまで続くのか。
どこかぼんやりとした心地で、奇妙な光景を見つめていたときだった。
「うわっ……」
びゅうう、と音を立てながら冷たい風が吹きつけてくる。思わず顔を手で押さえ、瞼を閉じた。
長い風が止んだとき、かさりと軽い音が足元から聞こえた。
人型の白い紙が地に落ちている。「西宮龍之介」と彼の名が書かれた面を上に向けて。
「西宮」
名を呼ばれた。
目と鼻の先に、旧友が立ち尽くしている。
もう、歪んだ笑みなど浮かべてはいなかった。
ただ、悄然とした顔で西宮を見つめていた。
「ごめん、オレ」
「酒井」
勝手に身体が動いていた。
つぎの瞬間、西宮の両腕は頭一つ分小さい酒井の身体を抱きしめていた。
「……謝るのは、僕の方だ」
彼はもう生きてはいない。もう何年も前に不慮の死を遂げた。だから、目の前にいるのは幽霊の類なのだろうと思う。
だが、少し骨ばった身体の感触が確かに西宮の指に伝わってきていた。
彼は今、こうしてここにいる。
心から実感すると、言葉があふれ出た。
「……僕が、全部忘れていたから」
「だから、君はこんな姿になってしまったんだよな」
「もう、忘れない」
「絶対に忘れたりしない」
他に何を言ったのか、西宮自身も覚えていない。
だが、何度も許しを乞うていた。どれだけその言葉をかけたとて、もう生きた酒井は戻ってこないことはわかっていながらも。
やがて耳元でふっと笑う声が聞こえた。
「約束だぞ」
涙で腫れた目を開ける。
変わらず、旧友はそこに立っていた。口元に柔和な笑みを浮かべて。
その姿は透けかかっていた。
「酒井!」
酒井の細い右肩に手を伸ばしたときには、すでに消えかかっていた。確かにあったはずの感触はもう感じられなかった。
霧が吹く風に飛ばされるのと同じように、酒井の姿は見えなくなっていく。笑みも徐々に透けていく。
「会いに、行くよ」
西宮が一言呟いたとき、酒井の姿は完全に消え失せた。
また、どこかで会えるだろうか。
西宮はそんなことを考えていた。
——しかし、これは何なのだろうか?
西宮の手元には、自身の名が書かれた人型の紙が残っている。
捨てようか迷っていると、門の入口目掛けて、慌ただしい足音が駆けてきた。
「おう、いたか! 大丈夫か!?」
全身黒の人物が、西宮家の敷地内に入ってくる。
黒いもやで覆われているというわけではない。髪も着ているものも黒いというだけだ。
「潔さん?」
数時間ぶりに会う村田潔だ。
「どうしてここに?」
——僕の実家、教えたことあったっけ?
何よりもまずその疑問が頭をよぎった。
「んなことは、どうでもいい。……おい、それ。どこで手に入れた」
潔が慌てたように、西宮を指さす。
正確に言えば、西宮の名が書かれた人型の紙が握られている右手を。
「これですか? さっき、降ってきましたけど」
言ってから、自分の言っていることがおかしいことに気づいたが訂正はしなかった。
潔が関わることなら、それぐらい不思議じゃないと西宮が思い始めている証拠である。
「何となくわかってきました。これ、潔さんが書いたんですね?」
「そうだけど、もっと驚けよ……。ったく、この本に挟んで走ってきたのが無駄になっちまったじゃねえか」
潔が懐から和書を取り出す。
その本の表紙には『陰陽師日記』という題が書かれていた。
「それ、やっぱり呪術の本ですか?」
「いや、これ自体はただの安倍晴明の末裔の随筆だ。その中に形代を作って、著者にかけられた呪いを返すっていう話があってな。これを作るのに役に立ったよ」
「呪いを返す……」
「そう。こいつは、西宮龍之介の身代わりだ。人の形を模した紙に、人物一人の名前とそいつの年齢、性別を書く。本人がそれにふうと息をかければ、名前を書かれた人物の身代わり——形代に早変わりってわけさ」
「それに、そんな力が……」
西宮は信じられない思いで、潔の手元に移った形代を再び見つめた。
しかし、ただの白い紙と思ったものがが不可思議な動きをしたことは説明がつく。
「あんたは悪霊に憑りつかれてた。かねやすの前で俺も見たよ」
「……酒井のことですね」
「知り合いか」
「僕のせいなんです、全部」
「どういうことだよ」
西宮は話した。
亡くなったはずの友人、酒井が黒いもやとともに現れたこと。そして彼に襲われかけたとき、この不思議な形の紙が現れたこと。
潔は口を挟むことなく、黙って西宮の話を聞いていた。
「僕が彼のことを覚えていれば、良かったんです」
——そうすれば。
西宮は唇をかみしめた。
「あんまり、自分のことを責めるなよ」




