それは音もなくすり寄ってくる
第37話更新です。
潔と会った西宮ですが……。
「潔さん、なんでここに……」
「俺が本郷にいちゃ悪いかよ」
「そ、そういうわけじゃないですけど……」
「このあたりの古本屋に用があったんでな」
親指を立て、背後を指さす潔。
示した先には、神保町ほどではないが古書店が並ぶ通りがある。近辺に帝国大学がある故だろう。
「はあ、本探しですか」
「いや、今日は人捜しだ」
「人?」
「神出鬼没な身内だよ。ここら辺の古本屋で見かけたって聞いたんだけどな」
結局いなかったぜ。
と、悔しそうに吐き捨てた。
「そういえば、弟さんがいるんでしたっけ」
以前、そう言っていたようなことを思い出す。
——会ってみたいなあ。
やはり兄に似て強面なんだろうか?
「……なんだ、じっと見たりして。気持ちわりいな」
「い、いえ、なんでもありません」
「そういや、調子はどうなんだ?」
「おかげさまで何とか」
昨日も仕事だったが、金曜の夜に眠ることができたからか、調子は悪くなかった。
「実家に行った帰りにでも、酒井——友人の家に行ってみようかと思いまして」
「へえ、帰るのか」
「こんなこと言うのも良くないですけど、あまり気は進まないんですよね」
父とはうまくいっていないこと、しかし病に倒れた故に会わなくてはならないことを話す。
「ははあ、そりゃ大変だな」
「元気になってもらえたのは嬉しいんですが、会いに行ったところで何を言われるものやら怖くて、怖くて」
「なるほどな。……なあ、あんたには耳が痛てえこったかもしれねえが」
刹那、行き交っていた自動車やタクシーの通行が少なくなった。
「家族がいて、帰れる家があるっていうのは幸せなもんだぜ」
西宮の一歩先を行く潔は言った。どこか羨ましそうな響きも入っていた。
「そう、ですね」
少し後ろから追いつつ、頷く。そして、ふと思った。
——潔さんの郷里はどこなんだろうか。
いつ、どこで、どんな両親のもとで生まれたのだろうか?
「それじゃ俺、こっちだからよ」
「かねやす」の前まで来ると、潔は左に曲がる道を示した。駅に向かう西宮とは反対方向だ。
「どうも、ありがとうございました」
「……ああ、ちょっと待ってくれ」
「何です?」
引き留めたならば何か用があるはずだが、こちらを向いた潔は何も言わず突っ立っていた。
「……ど、どうしたんですか」
西宮を見つめる潔の顔は険しかった。
ただぼうっとしているだけには見えず、睨まれているような感覚になってくる。
「わりいな。ちょっとみてたもんでね」
「何をですか?」
「ついてるものだよ。あんたにどす黒いのがついてる」
——ついてる。
苦い生唾がせりあがる。
「この間、あんたに言ったろ? 少し黒いって」
「で、でもあれは、僕が暗いことを考えていたから」
「どうやら俺の見当違いだったようだ」
すまない。
潔が真剣に謝るのを聞いて、身体をがつうんと殴られたような感覚が襲った。
「今のあんたは真っ黒だ。ここ数週間で何があった?」
潔が探るように、眉間に皺を寄せる。
「別に、何もないですよ」
何故だか後ろ暗い気持ちにさせられる。気に病むことなど何もしていないのに。
「そこ、何か入ってんな」
そいつが特に黒いぜ。
半歩近づいた潔の右腕が伸びる。
ブラウンのジャケットを羽織った西宮の胸元に。
「……え」
西宮は思わずジャケットの襟を掴んでいた。
中にはいつも持ち歩いている懐中時計が入っているのだが。
「西宮! そんな奴放っといて早く行こうぜ」
黒い学ランの袖から伸びた白い腕。
手の持ち主である酒井は、どこか不機嫌そうに西宮の左手を掴んでいた。
「うわ、酒井。……痛いっ、そんなに強く握るなって……」
手首の骨が折れてしまいそうなぐらい、強力な力で掴まれている。
「へへっ、わりいわりい。でも、家に帰るんだろ? 早く行かないと日が暮れるぞ」
「そうだけどさ。——それに、そんな奴って」
潔のことを言ったのだろうが、あんまりな言い方じゃないだろうか。
「……そんな奴だよ」
おい、あんた!
潔の大声が遠くでぼんやりと聞こえる。きっと、西宮に言っているのだろう。
「ほら、早く行くぞ!」
すでに駆けだした酒井がぐいぐいと西宮を引っ張っていく。
「わ、わかったから、引っ張るなよ!」
つんのめりそうになりながら、西宮は駆けだす。
*
——あいつ。
洋品店「かねやす」の前。
遠ざかっていく西宮の足音を聞きながら、村田潔は地に膝頭をつけてうずくまるしかできなかった。
額の脂汗をぬぐいたいが、全身が感電したかのようにびりびりして動けない。悪霊に呪詛を吐かれたあとはいつもこうだ。
「おい、兄ちゃん大丈夫か?」
やがて、店の方から出てきたらしい中年の男に声をかけられた。しばらくの間こちらに話しかけているのが聞こえたが、潔が返事をしないのでやがてはどこかに行ってしまった。
「……何者だ」
ようやく立てるようになった潔は、西宮が駆けて行った道を睨みつける。
否、西宮だけではない。
潔が特に黒かった西宮のジャケットの胸元を霊視しようとしたとき、正に彼が見ていたところからザンギリ頭の学ランの少年が現れた。
西宮自身は何も気づいていなかった。だからこそ問題なのだ。
西宮の胸元からぬうっと顔を出した少年は、一番先に潔を睨みつけた。
——まずい!
そう思った矢先、こちらに顔を向けた少年は般若のように怒りを込めた顔で口を歪ませていた。
「うせろ邪魔者が」
怒りと恨みの籠った呪詛だった。
「くらった」と思った瞬間には、潔の全身を痺れが襲っていた。
『ほら、早く行くぞ!』
その時すでに潔は俯いていたからわからなかったが、尋常ではない少年が西宮に話しかけているのは間違いなかった。潔に対するものとは落差の激しい、無邪気な声で。
すぐに、忙しない足音が遠ざかっていった。
西宮は連れて行かれた。
潔の肉体に呪詛の実害がなければ、止められたはずだ。何としてでも、西宮を止めなくてはいけなかったのに。
「……許さねえ」
怒りが声となって洩れる。そばを通りがかったモダンボーイ風の男がぎょっとしたように潔を見たが、どうでもよかった。
あの忌まわしい少年が潔から遠ざけた。あいつは潔が何をしようとしていたか、理解している。
あれは死者だ。それも悪意のある死者だ。
少しふらついていた身体は、しばらく歩けば元に戻った。
潔は本郷通りを全力で駆けた。怒りとわずかな不安を走る原動力にしながら。
「怪奇庫」には細川がいたはずだ。
急がなくてはならない。




