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古書店「怪奇庫」の奇怪な日常  作者: 暇崎ルア
第3章 忘却の凶夢(まがゆめ)
32/67

人間の脳と夢は謎に満ちている

第32話更新です。

悪夢に困った西宮は、「彼」の下へ相談に行くようです。

「……西宮あ、ちょっと来い」

 編集室の奥のデスクで、編集長の水野の声が飛んでくる。水野が「西宮あ」と呼ぶときは、小言の合図だ。

「どうなってんだこれは」

 ため息とともに渡された紙には、よく知った文章が書かれている。西宮が植字を担当していた新聞記事の試し刷り、またの名を「ゲラ刷り」と呼ぶ原稿だ。

 縦書きの行の中央をよく見ると、二か所赤い線が引かれていた。「今日」となるべき箇所は「今目」、「する」となるべき箇所は「すろ」となっていた。誤植である。

「ゲラ刷りだったから良いけどよ、しっかりしてくれ」

 紙もタダじゃないんだぞ?

 水野の眉がたしなめられるように持ち上げられる。怒鳴ったりはしないが、ねっとりとした小言が西宮の胸の内を刺す。

「……はい。申し訳ございません」

 ただ、頭を下げるしかない。自分の過ちであることは、痛いぐらいわかっている。

「しかし、お前がこんなに間違いをするとは珍しいな。どうしたんだ?」

「はあ……」

 どうしたんだと聞かれても、ありのままを話したところで言い訳に聞こえるに違いない。

 ひたすらに、眠い。夜が深い中悪夢で目覚め、そこから寝付くことができなかったのだ。

「まあいい、給料分は気を張ってしっかりやってくれよ」

 言いたいことは終わったのか、ようやく解放される。全身がずっしりと重かった。理由はいくつも考えられる。


「……それで、ここに来たってわけか」

 勘定台の奥に一人座り、本を読みながら西宮の話を聞いていた「怪奇庫」店主、もとい村田潔はようやく本から顔を上げた。

 相変わらず不機嫌そうな顔だ。

「そうです。だから、夢に関する本とかありませんか?」

 西宮が仕事帰りに「怪奇庫」を訪れた理由はただ一つ。悪夢ばかり見てうまく眠れない自分を、潔ならなんとかしてくれるのではないかと思ったのだ。

 寝不足が原因なのは、どう考えてもあの悪夢だからだ。

「それか、潔さんの知識ですとか」

「俺を何だと思ってるんだよ」

「古書店の博識な店主さんです! ……そうだ。僕、呪われてたりしませんか?」

「はあ?」

「潔さんは悪い気を見ることができるんでしょう? もしかしたら、僕にそういうものが憑いてるとか」

 以前、潔は『異物』という本に憑いた未練の念を黒いものとして見ることができた。突拍子もない思い付きだが、可能性としてはあるんじゃないだろうか。

「ねえよ。今のあんたは少し黒いだけだ」

「ほ、本当ですか……?」

「ああ、全身がうっすらだが黒い」

「どっちかっていうと灰色だけどな」と付け加えられるが、あまり変わりはないような気がした。

「やっぱり、何か憑いてるんだ……」

 潔の返答に、自分で聞いておきながら少し後悔する西宮。

「あー、いや、すまん。言い方が悪かったな」

 なんていえばいいのかねえ。

 少し考える仕草を見せてから、潔は口を開いた。

「誰かに憑かれてるというより、あんた自身の問題だよ」

「誰かから恨みを買ってるとか」

「違う。今のあんたの心根が原因だ」

 潔の真剣なまなざしが、西宮を正面から貫く。

「今のあんたが、『自分は今どこかおかしいんじゃないか』っていう後ろ向きな考えに囚われているからだ。それだけでも、悪い気っていうのは人にまとわりつく。で、暗い考えの奴には悪いもんもほいほい寄ってくる。単純な話だ。……といっても、今のあんたは外部から悪いもんに憑かれてはいない」

 きっぱりと断言する潔。

「大体よ、『眠れない』とかいうのは医者に行って言うべきなんじゃねえのか」

 潔が今言ったことが、真理なのかもしれない。

「僕、病気なんですかね……」

「自分が病んでるなんてこと、そう簡単に認めたくないよなあ」

「でも、何か意味があるんじゃないんですかね? そういえば、夢で人の心を分析だかしようとしてる学者がいるって言うじゃないですか?」

「フロイトのことか?」

「ああ、多分その人です。その人の本とかあったりとかは」

「……あるよ」

 ——さすがは「怪奇庫」!

 西宮は勝利のポーズをしたくなった。

「最も、あんたのお悩みには役立たねえと思うけどな」

 と言いながらも、潔は店内中央の棚から分厚い本を一冊出してくる。

 題名は『精神分析入門講義』。著者は西宮も名前なら聞いたことがある、ドイツの心理学者ジグムント・フロイトだ。

「潔さんはもうお読みに?」

「読んだよ。そのうえであまり役に立たないんじゃないかと言ってる」

「でも、人間の夢は何かの象徴だって主張なさってるんでしょう、フロイトさんは」

「ああ。だがフロイトの主張は言っちゃ悪いがかなりお粗末だ。……例えば、部屋が出てくる見たとする。最初から部屋の中にいるでもいいし、入る夢でもいい。この『部屋』っていうのは、閉じたり閉まったりするから、人間の身体のあるものに例えられるんだと」

「あるもの?」

「端的に言えば、女性器だ」

「じょ……!?」

 潔が淡々と発した思いがけない言葉に赤面する西宮。

「さらにいえば『箱』なんかも女性器の象徴だっていうからな。部屋だって、考えようによっちゃ『箱』の一種ともいえるわな。だからフロイト的に言わせれば、教室はつまり『部屋』さ。そこにいる夢っていうのは、あんたの性的な欲望が夢となって現れたってことになる」

「それじゃ、何でもその……性的な欲望につなげられるんじゃないですか?」

「ああ、俺もそう思う。性欲ってのが人間の根本的な原動力でもあるから、こういう主張になってもおかしくはないと思うがな。……どうだ、解決につながりそうか?」

 西宮を皮肉げに見る潔。

「いえ……」

「だと思ったよ」

 と言うと、潔は西宮の手からフロイトの本をするりと取っていった。

「なら、血まみれの酒井くんが出てくる夢を何度も見ていても、意味なんてないんですか?」

 あんなに恐ろしい夢なのに。

「——これもいくつもあるうちの説の一つだが」

 独り言ちた西宮を哀れに思ったのか、第二の説らしきものを述べようとする潔。

「夢っていうのは、人間の記憶の奥深くにあるものが出てくるともいう」

「ええっと、つまり」

「あんたが過去に見たもののことだ」

「それはありえないですよ。僕は、血まみれの酒井なんか」

「その酒井っていうのが血塗れじゃなくとも、過去のあんたは血塗れの誰かが四つん這いになって追いかけてくる場面を見たのかもしれない。現実ではなくとも、それこそ小説とか演劇とか活劇なんかでな。現実か虚構かは関係なく、実際に見た記憶と記憶が混ざり合って出てくることもあるだろうよ、って話だ」

「はあ……」

 ——本当にそれだけの話なんだろうか。

「そんなに気になるんならよ、会いに行けばいいんじゃねえのか?」

「……会う?」

 潔の提案がピンとこなかった西宮は、返事が一拍遅れた。

「だから、その酒井ってやつにだよ。十年会ってないけど、友達なんだろ? だったら会って様子を見て来れば、変な夢も見なくなるかもな」

「……それはつまり、僕が自覚していないだけで彼の心配をしていると?」

「そういうこった」

 満足そうに頷く潔。

「そいつがどこに住んでるのかは知ってるのか?

「知ってますよ。九段坂です」

 学校帰りに一度だけ酒井に連れられ、彼の住む家を見に行ったことがある。

『オレの曽々じいちゃんが建てたんだ』

 昔ながらの大きな武家屋敷の前、酒井の顔に浮かんだ無垢な笑顔は誇らしげに見えた。

 それもそのはず、酒井家は徳川家に仕えていた祖先を持つという。

「じゃあ、空いてる日にでもそこに行ってくればいい。引っ越してたなら、またややこしくなるがな」

 潔は同情するようにそう言った。


 その夜、西宮は洗面台の鏡の前で歯を磨きながら、潔に言われたことを思い出していた。

 潔の言う通り、酒井が血塗れだったのは、自分が活劇で見た「血まみれの人物」が混ざってしまっているだけなのだろうか?

 思い返せばこれまでに見た活劇で、壮絶な斬り合いの末、主人公の侍が誰のものかわからぬほどの血を身に受け、息絶えるものを見たことがある。

 ——それが混ざっただけなのかな。だとしても、よりによって友人の姿にあてはめてくれなくてもいいのに。

 惨い組み合わせの夢を見せてくる己の脳を恨みながら、口の中の泡を吐き出す。

 顔を上げ、鏡を見たときだった。

 西宮の隣、黒い学ランを着た学生がいた。

 棒立ちの姿のまま、鏡を見る西宮に顔を向けていた。

「……え?」

 思わず辺りを見回す。

 しかし、どこにも人影などいない。背後には、万年布団が敷かれた無人の部屋があるばかり。

 もう一度鏡を見たが、鏡に映る人間と思しき者は青ざめた自分だけだった。

 ——見間違いかな。

 そう思いたかった。

 一瞬こちらを見ていた学生帽の人物は、酒井によく似ていた。

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