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古書店「怪奇庫」の奇怪な日常  作者: 暇崎ルア
第3章 忘却の凶夢(まがゆめ)
31/67

夢の中の感覚は現のようにはっきりとしている

第3章、第31話更新です。

西宮は何度も嫌な夢を見るようです。

 下を向いた姿勢から、ぱっと顔を上げた。眠っていた意識が覚醒したといってもいいかもしれない。実際は違うかもしれないが、西宮にはそういった感覚が残っていた。

 西宮は教室にいた。十年以上前通っていた中学の木造の教室である。

 教壇に教師はおらず、他の生徒がいる机や窓際に立ち、わいわいと話をしている同級生ばかり。

 教室前方の時計を見ると、九時五十五分を指していた。一限が終わって、ちょうど休み時間の時間だ。

「おはようございます、西宮クン!」

 目の前の空いた椅子に学ランが座ったかと思うと、からかうような声が飛んでくる。

 にかにかと楽しそうに笑う酒井だった。

「顔、跡ついてるぞ」

「え、どこだ?」

「ここだよ、ここ」

 酒井が額の中央を指さす。西宮も自分の同じ場所を触ってみると、腕や手の甲に突っ伏して寝ていた後特有のつるりとした感触がある。

「次の授業、何だったかな?」

「忘れたのかよ、数学だよ」

 酒井が重いため息をついたので、西宮もそれに倣う。両者が最も苦手な科目だ。

「三角柱とか習ってどうするんだろうな? 漢字とか外国語を必死に勉強した方がよっぽどいいと思わないか?」

「そうそう、将来社会に出ても難しい数式とか使わないよな、絶対」

「本当だよな! 研究者になるわけじゃあるまいし」

 数学への文句から、他愛もない会話が始まる。

「まあ、僕は外国語もあんまり好きじゃあないけどさ」

「何だよそれ、逆に特異な科目とかあるのか?」

「……うーん、国語かな。本読むの好きだし」

「あはは、確かに! 西宮って、本の虫だもんな」

「虫ってやめろよ……」

 酒井と会話をするうちに時計の長針が十二を指し、チャイムが鳴った。午前十時。二限目が始まる時間である。

「……それでさ、昨日の数式の問題がどうしてもわからなくてさ」

 チャイムは確かに鳴ったのに、酒井は西宮の目の前で数学の課題への愚痴を続けている。他の生徒も一向に授業の準備を続ける兆しはない。

 時計の長針が二周した。しかし、数学担当の教師は教室に入ってくることはなかった。

 ——教員室で何かあったのだろうか?

 不安になった西宮は、教室の戸を開け、廊下を覗く。人っ子一人いない。

 廊下に出てから気づいたことだが、隣の教室には人っ子ひとりいなかった。西宮がいる教室に、生徒たちがいるだけなのだ。廊下とつながる階段から生徒や教師がやってくる気配もない。明らかに異常事態だ。

 西宮は廊下に一歩出た。途中で他の教師に見つかって怒られるかもしれないと思ったが、そんなことを言っていられる余裕はないような気がした。

 右隣の教室の様子を覗こうと動いたとき、左腕を強くつかむ者があった。

「待てよ西宮、教室を出るなって」

 酒井だった。左腕に込められた力は、万力のように強かった。

「だけど、先生が誰も来ないじゃないか。先生どころか、他の生徒だって……」

「大丈夫だよ、誰も来なくたって。何も問題ないさ」

 酒井の口元がにやりと引きあげられる。

 笑っている。しかし、少し前に談笑をしていたときと同じものではない。嘲笑だ。

「なんだよ、急にどうしたんだよ、酒井……」

 酒井の向こうの光景に目が行き、戦慄が走った。

「……みんな、みんなは」

 西宮が教室の戸を音を立てて開けようとも、振り向く者は室内にいない。

 教室にいたはずの、生徒たちは誰もいなくなっていた。教室の戸から出ようとしたのは、西宮だけだったのに。

「みんな帰った。それだけだよ」

 落ち着き払った酒井の声は、この状況で聞くには違和感があった。

「そんなことあるわけないだろ、まだ授業があるのに」

「ないよ。今日はもう全部終わったんだ」

「何言ってんだよ、酒井。君、おかしいぞ!」

 友人にそんな言葉など、本当はかけたくなかった。

「……何か知ってるんだろ」

 腕を掴んでいる手を振り払い、酒井の両肩を揺さぶる。

「なあ、酒井。そうなんだろ? 何とか言ってくれよ」

 この校舎も、酒井も、何かがおかしい。大切なものがずれ始めている。

 強い言葉をかけられようとも、いくら身体を揺さぶられようとも、酒井は不思議でたまらないという顔で首を傾げるだけだった。

「オレはちっとも、おかしくないよ。おかしいのはこの世界さ。成功するって決まったわけじゃないのに、親の都合だけで勉強なんかさせられて」

 くだらねえ。

 まずいものを食べたかのように、吐き捨てた。

「だからさ、西宮」

 己の右肩に載った西宮の腕を、酒井が掴む。

 その手は氷のように冷たく、西宮の肌が粟立った。

「オレとずっと、この教室にいようぜ。二人だけでさ。その方がずっと楽しいだろ?」

 そうだろ?

 酒井の異様に見開ききった目が近づく前に、西宮は勢いよく背を向けた。

 そのまま、廊下を走り抜ける。

 ——あいつは、酒井じゃない!

 酒井のふりをした何者かだ。それも、ものすごく悪意のあるやつに違いない。

 足は今にももつれそうだったが、何とか走った。あと少し行けば、三階へと続く階段があるはずだ。

 しかし、どれだけ走っても階段は現れやしなかった。

 どこまでも長い廊下が真っすぐ続き、左右を見ても誰もいない教室や窓が続くばかり。

 廊下が延々と続いているような感覚に見舞われ、視界がぐらりと揺れた。

「……はあっ」

 校庭を十周ほど走った後と同じ疲労が西宮を襲い、膝から崩れ落ちる。息が荒くなるばかりの喉は酸素を求めて咳を出させた。

 それでも立ち止まったのは誤りだった。

 背後から声がした。


「待ってくれよ、西宮」


 床に腹ばいになった酒井が、西宮の足を掴んでいた。さっき腕を掴まれたときよりも、ずっと強い力で。

「オレを置いていかないでくれ」

 西宮を見上げる酒井は、涙を流し続けていた。

「……酒井」

「頼むよ、オレを一人にしないでくれよ」

「どうして、そんなに」

 ——血まみれなんだ?

 酒井の足の先の向こうを見る。西宮たちがいた教室からここまで、鮮血が続いている。

 全て、酒井の喉元から出続けているのだった。


「……はっ」

 息を吸い込む音で目が覚めた。そのうち、夢を見ていたのだと気づく。

 今度こそ、現実だとわかる。

「……はあっ」

 布団の中でゆっくりと身を起こし、西宮はため息をつく。生々しい夢を見たせいか、胸やけもする。

 暗い中流しまで行き、コップに水を汲む。一気に飲み干して、気分が少しばかりよくなると同時に記憶がよみがえり始める。

 以前にも似たような悪夢を見た。そのときも、酒井は血に塗れていた。

 ——考えるな、もうそんなこと。

 嫌な記憶を振り払おうと、かぶりを振る。

 ——何時だろう、今。

時間が気になったのは、布団に入ったときだ。

 天井の豆電球をつけ、うすぼんやりとした明かりで見た枕元の懐中時計は午前の二時を指していた。何とも中途半端な時間に起きたものだ。

 再び布団の中に身体を横たえる。

 眠ろうと努めたが、頭の中は夢から切り取った酒井の変わり果てた姿を映し続けるのだった。

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