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古書店「怪奇庫」の奇怪な日常  作者: 暇崎ルア
第2章 ウイジャボードの狂宴
14/67

勉学は学生の仕事だが、過酷なものなり

第2章開始です。

第1章と比べるとカオスで騒がしいホラーになっているかと思います。

お気に召した方は評価・ブックマークなどよろしくお願いします。

 びゅうびゅう、と冷たい風が全身に吹き付けてくる。それが冬の木枯らしだと気づくのに、しばらくの時間を要した。

 見上げれば、灰色の曇り空が広がっている。

 西宮は、広い屋外に立っていた。そこがどこなのかはわからない。わかるわけがない。

 あたり一面が霧に包まれているのだ。

 ――ここはどこなんだろう。

 西宮が途方にくれたときだった。

 おーい!

 遠くで誰かが呼んでいる。自分のことを呼んでいるのだろうか?

 声のする方を向いた。霧の向こう、手をぶんぶんと振って駆けてくる人影が見えた。

「……酒井!」

 近づいてきた人物が誰かわかった瞬間、稲妻のような衝撃が西宮の脳内を駆け巡る。

 襟元までボタンを留めた学ランに、少々茶色がかったザンギリ頭。笑うと、糸のように細くなる目元。中学時代、何度も見た顔である。

「酒井、だよな? そうだよな?」

「そうだけど、どうしたんだよ急に。数年ぶりに再会した、みたいな顔してるぞ」

「いや、それぐらい会ってなかったような……」

 首を捻る西宮。

 西宮が中学を卒業してから数年が経つ。だというのに、今こうして同窓生だった酒井と顔を突き合わせているのだ。彼ともう一度会えるなどとは思っていなかったのだが。

「おいおい、何言ってんだよ。昨日学校で約束しただろ? 『明日休みだけど、朝こっそり校庭に忍びこもうぜ』ってさ」

「そうだっけ? ——じゃあ、今日は日曜日なのか」

 酒井が言うなら、その通りなのかもしれない。今日は日曜日で間違いないだろう。

「健忘のふりなんかやめろよ、西宮。面白くないぞ。お前もオレと同じ格好しておいてさ」

「え?」

 西宮は自分の服の袖、それから襟元に触れて「ああっ」と驚嘆の声を上げた。

 ——中学生のとき着ていた制服だ!

 共に黒く、かっちりと硬い生地でできている学ランの上下。上着の襟元から腹の上部には、校章のついたボタンが等間隔で並んでいる。今はないものの、学帽を被れば完全に男子中学生である。

「懐かしい!」

「懐かしいって、卒業生みたいなこと言うじゃないか」

 酒井が怪しむように、眉間を潜める。

「ははは、ごめんごめん。冗談だよ。……ん、ということは?」

 西宮はもう一度辺りを見回し、またもや驚愕で声が出た。

 少し前まで漂っていた霧はどこかへと消え、隠されていた景色が姿を現している。

 頭上高く、三角の屋根がついた洋風建築の外観には、いくつも窓が並ぶ。この部屋たち、否、教室たちで、今までどれだけの生徒が教育を受けてきたのだろうか? 校庭で体育の授業があるたび、西宮はそこを見ながらいつもそんなことを考えていた。

 西宮の前に立っていたのはかつての学び舎、築地居留地の立東中学の校舎であった。そして言わずもがな、今彼らが立っているのは校舎内の校庭である。

「逆にどこだと思ってたんだよ。今日のお前、本当に変だぞ? 大丈夫か?」

「ああ、うん。大丈夫、大丈夫」

 経緯はよくわからないが、今自分は懐かしの学び舎の校庭にいるらしい。同窓会の予定などはなかったはずなのだが。

 ――夢でも見てるんだろうな。

 夢は、自分の脳内に隠された記憶の再現なのだという説を聞いたことがある。その類なのだろうと、西宮は思うことにした。

「もしかして勉強疲れかー? まあオレもそうだからなー、気持ちはわかるぜ。今日ぐらい何もかも忘れて、楽しいことしたいよ」

 苦笑した酒井が、胸元で四角く平らなものを掲げる。『数学』という字が見て取れた。

「教科書、持ち歩いてるのか?」

 酒井が持っていたのは、授業で使う教科書であった。それも名前を見聞きしただけで虫唾が走るぐらい、西宮が最も苦手とする科目である。

「ああ。ここに来ることは言わなかったけど、家出ようとしたら父さんが『お前は数学が苦手なんだから、出かけるときも教科書を持ち歩いて読め』ってさ。この間の試験の点数良くなかったから、苛ついてんだよな」

 悲しそうに言い放った酒井の言葉を聞いて、西宮まで胃が痛み始めた。数学の中でも特に苦手な図形が出された前回の試験の結果は散々で、父親から「努力が足りん!」「こんなことではこの先どうするんだ!」と、何時間も説教を食らった。

「大変だな、酒井の家」

 西宮家では「外出先でも勉強しろ」とは言われていないので、まだマシな家庭なのだろう。

「でも、しょうがないのかもなあ。うちはオレ以外に妹しかいないし、父さんも母さんも『将来、立派になれるように今から頑張れ』ってものすごく期待してくれてるんだよな」

 酒井が一つため息を吐いた。

 それが、「期待に応えられるよう精進したい」なのか、「自分には少々荷が重すぎる」なのか、西宮にはどうしても判断がつかなかった。

「だから今日ここに来たんだけどな」

「そうなのか?」

 ああ、と頷いた酒井はどこか嬉しそうに辺りを見渡す。強い風が吹くたびに砂埃が舞う、立東中の校庭。

「今日だったら先生も生徒もここにはいないだろ? オレ、誰もいない広いところが好きなんだよ。誰にも何も言われず、好きに過ごせるからな」

「でも、僕がいるじゃないか」

「そういう細かいことはいいんだよ。お前は本当に律儀だな」

 西宮の疑問に酒井は笑い、すぐに何かを憂うような顔になった。

「それにお前はオレがここにいたって、何も言わないだろ」

「え? ……ああ、まあそうだけど」

 酒井が休日の学校の校庭にいようが西宮は何とも思わないし、口出しをする権利はない。

「変な話して悪かったな。……オレ、ちょっと勉強するよ」

「歩きながら読むのか? 危ないぞ」

「大丈夫だって。ぶつかるような通行人はいないからさ」

 くるりと西宮に背を向けると、『数学』の教科書を開く酒井。ざっざっと足音を立てながら、ゆっくりと歩き始める。その姿は「少し一人にさせてくれ」と言わんばかりに寂し気だった。

 隣の友人に歩調を合わせて、足を動かしながら思う。

 今の酒井には自由な環境が必要なのだ。何かと口を出したり、監視を続ける煩い親がいない場所が。

 きっと、酒井だけではない。今この時代、学校に通っている少年たちのほとんどが思っていることなのではないか。

 ——学校が決まるまでは、死に物狂いで勉強しなさい。

 西宮が両親、特に父親から何度も言われてきた言葉だ。それこそ、耳にタコができるほど。

 昔はどんなものだったのか知らないが、西宮や酒井のような男子たちはとにかく良い就職先に就くことを求められる。そのために必要なのは何年にも続く勉強、そして試験だ。少なくとも、高校入学までは今のように勉強を続けなければならないという。

 また軍人を父に持つ西宮は、あらゆる科目と試験が待つ陸軍士官学校に入れられ、軍務のための高等教育を受けさせられる将来が待っている。

 教育を受けられるのは全員ではない。高等教育を受けることを許されていない女学生たちに比べると、自分たちははるかに恵まれているのだろう。しかし、自分には重すぎると思うこともある。むしろそう思うことの方がほとんどかもしれない。

 ——もう逃げてしまいたいな。

 靴の裏からざらざらとした砂の感触を感じながら、ふと思う西宮。教科書を開いて読んではいるが、今ここにいる酒井も実は同じことを考えているかもしれない。

「なあ、思ったんだけどさ……」

 己の気持ちを隣の友人にも聞かせようと横を向いた。

 誰もいなかった。

「あれ、酒井?」

 とぼとぼと歩いていた道を振り返る。

 酒井は西宮の後ろにいた。砂地の上、自らの肉体からこぼれ出た血だまりの上でうつ伏せになって。

 教科書は持ち主の姿と同じように、開かれたまま地に伏せられていた。

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