秋刀魚の食べ方指南
※武頼庵(藤谷K介)様主催『秋の収穫祭・味覚祭り』参加作品です。
うちの大学の学食はなかなかのものだと思う。農学部や水産学部を抱えているので、何と言っても食材がいい。
今日、手書きのポップで『期間限定! サンマの塩焼き定食』の文字を見つけ、私は躊躇うことなく注文した。友人たちと一緒ならもっと女の子らしいメニューにするけど、今日は幸いにもひとりだ。去年も食べたけれど、ここの秋刀魚はリピートする価値が充分にある。
私にとって今年の初物だ。期待に胸を膨らませて待っているうちに、食券番号が呼ばれた。
カウンターに取りに行くと、定食のトレイの上で焼き立ての秋刀魚がじゅうじゅうと音を立てていた。
下あごの先が黄色いのは鮮度がいい証。背中のあたりが盛り上がっているのは、よく脂が乗っているということだ。
実は秋刀魚には胃も腸もなく、排泄物がほとんど溜まらないので内臓も丸ごと食べられる。内臓が付いたまま焼かれた秋刀魚に添えられているのは、大根おろしとカボス。入手しやすいスダチではなくカボスという辺りに、料理長のこだわりが感じられる。
席に座り、まずは目で楽しんだ後に箸を手にする。といっても、いきなり身をむしるようなことはしない。箸を寝かせて、えらの辺りから尻尾の根元まで、数回に分けて背骨の近くを軽く押さえる。こうすると、背骨から身が取れやすくなるのだ。
焼けた薄皮のパリパリという微かな音と、ジュワっとあふれる脂のビジュアルを楽しんだ後は、背骨に沿って箸を一気に走らせる。そして、背中側の身と腹側の身を大きな塊として取り分ける。
カボスはこの時点で身の内側にかける。皮の上からかけたのでは、果汁がはじかれてしまう気がするし。
ついでに、大根おろしに醤油をひと垂らし。身には乗せず、箸休めとして別にいただくのが私の流儀だ。
まずは身をひとくち。
うん、今年の秋刀魚もよく脂が乗ってて、実に美味しい。
カボスの香りと酸味、大根おろしの辛みのおかげで、後口もさっぱりする。
私は半身をじっくり味わい、内臓の苦みも存分に堪能してから、次の作業にとりかかった。紙ナプキンを使って秋刀魚の頭を左手で掴み、残る半身を軽く箸で押さえつつゆっくり持ち上げる。すると、頭から背骨、尻尾までが繋がったまま離れ、あとには食べられる部分だけが丸々残った。
さあ、あとは食べるだけだ。取り除いた骨を角皿の上の方に退け、残る半身に箸を伸ばした時──向い側からふいに、間抜けな声がかけられた。
「うわ! 渡辺先輩、何ですかそれ!? 骨格標本みたいじゃないですか!」
ハンバーグ定食のトレイを持って目を丸くしているのは、同じサークルの1年後輩、根岸浩太だ。
「先輩ってホント、魚キレイに食べますよねぇ。──あ、ここいいですよね?」
私の返事も待たずに向かいの席に座るあたり、かなり図々しい。
同じサークルなので同席を拒みはしないけど、本当はあまり喜ばしくない。
まあ、悪いやつではないし、その人懐っこさでサークルにもうまく馴染んでいるようだけど──私は根岸とはちょっと距離を置くようにしていた。
別に何かをされたというわけじゃない。ただ、その──私には、幼少期から祖母に植えつけられた、ある価値観があったからだ。
──今は亡き祖母は華道の家元で、とても作法に厳しい人だった。
私も物心ついた頃からかなり厳しく躾けられてきたし、特に食についてはずっと言われ続けてきたことがある。
『食べ方には人となりや育ちが表れる。食べ方の汚い人間とは親しくつき合わないように』
これが実に厄介なのだ。強迫観念のように沁みついてしまっているので、どうしても他人の食事の仕方が気になってしまう。小学校の給食でも、友だちの箸の使い方につい口を出してしまい、イヤがられたことも一度や二度ではない。
高校時代、私なんかにも好意を示してくれた奇特な男子がいたのだが、初デートでマナーにあれこれ口出しして苛立たせてしまったのか、すぐに相手にされなくなってしまった。
──この春、何人かの新入部員と食事を共にしたことが何度かあったが、その中でもこの根岸の食べ方は特に酷かった。
握り箸でハンバーグを刺し、そのまま丸ごと持ち上げて大口でかぶりつき、残りを皿に戻したのだ。
さすがにその場で指摘するのはぐっとこらえたけど、それを見た瞬間から、私の中で根岸は『一緒に食事をするべきではない存在』にカテゴライズされている。
ほら、今日も酷い箸の持ち方で────あれっ?
「ねえ、根岸くん。君、箸の使い方──」
「あ、わかります? 実は特訓したんですよ!」
確かに少しぎこちないけど、ちゃんとした持ち方になっている。
「いやぁ、苦労しましたよ! 俺、親からちゃんとした箸の使い方とか、教わって来なかったんで」
根岸は両親が仕事人間だったため、子供の頃からひとりで食事をすることが多かったのだという。おまけに両親ともに箸の使い方が下手で、まともに教わる機会もないまま育ってしまったのだとか。
「中学高校は弁当だったんですけど、作ってもらえなくて。昼はだいたい、コンビニのおにぎりとかサンドウィッチばっかでした」
やがて大学に入学して、学食で食事をとる機会が増えるにつれ、自分の箸の使い方が周囲と全然違うことに気づいたのだそうだ。
「やっぱり、このまま社会人になったらマズいじゃないですか。で、他の人の様子を観察したり、ネットで調べて練習してたんですけど──。
どうです、俺、ちゃんと出来てますか?」
「あー、うん、まあ間違ってはいないよ。もう少しスムーズに出来たら、大丈夫じゃない?」
「うわ。食べ方がキレイな渡辺先輩にそう言ってもらえたら、マジ嬉しいです!」
屈託のない笑顔に、不覚にもちょっとドキッとさせられた。うーん、これは上級生に可愛がられるわけだわ。
「それでですね、渡辺先輩。ひとつお願いがあるんですが」
え、何? 急にそんなキリっとした顔、向けないでよ。
「よかったら俺に、焼き魚のキレイな食べ方、教えてもらえませんか?」
「──は?」
「俺、焼き魚ってほとんど食べたことなかったんですよ。魚と言えばパックの寿司か缶詰、お惣菜のフライくらいで。
学食で何度かトライしてみたんですけど、どうも上手くいかなくて。
それに、周りのやつもあまり魚を選ばないから、見る機会もほとんどないんですよね」
あー、やっぱ男の子は肉が好きだもんねぇ。
「先輩くらいキレイに焼き魚を食べる人、初めて見ました! ぜひ、その秘訣を伝授してください。
あの、もし教えるのが嫌だったら、ただ横で見させてもらうだけでも全然かまわないんで!」
「あのねぇ。横でじっと見られてたら私が食べにくいじゃん。──いいよ、教えてあげる」
「ホントですか、ありがとうございます!」
「言っとくけど、私けっこうキツい言い方するよ? マナーにはうるさいし、やるからには厳しくいくから」
「望むところです! もう子どもを躾け直す感じで、ビシバシお願いします!」
──ごめん、お祖母ちゃん。言いつけには背くことになっちゃうけど。
でも、たとえ食べ方が汚くても、これだけ向上心を持った人を『つき合う価値無し』で切り捨てちゃうのって、やっぱり何だか違う気がする。
「じゃ、明日の昼からってことでいい?」
「はい、お願いします!」
「──あ、私とよくご飯食べてるとか、変に噂になったらマズいんじゃない?」
「あ、俺今、カノジョとかいないんで。先輩は?」
「私もいないけど」
「じゃ、お互い問題ないってことで。明日からよろしくお願いします、『師匠』!」
「──『師匠』は禁止ね」
何だろう、この感じ。ただ人と食事をするだけの約束にワクワクするなんて、初めてかもしれない。
私は、明日からの根岸との昼食が自分にとっても何か大きな転換期になるような、そんな不思議な予感を覚えていた。
──うん。やっぱり明日も秋刀魚かな。