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婚約破棄に至る令嬢の複雑な心境について

作者: 井伊佳奈

美男美女にも苦悩はあるもの。


 ここはサンデ王国の辺境にあるレンジ侯爵領。

 肥沃な土地の恩恵によって農作物や酪農、畜産などで栄える「王国の台所」と呼ばれる地方である。


 そこに住む侯爵家の三男、オーランジェは世間からすれば完全に「行き遅れ」と呼べる年齢に達していた。


 とはいえ領内で悪名を轟かせているわけでもなく、決して財に任せて放蕩の限りを尽くしていた訳でも無い。


 むしろ彼はこの地域のみならず王国内でも屈指の英雄候補であった。


 オーランジェは豊かな実りを狙う周辺国からの防衛戦で若い時期から戦場に駆り出されていた。

 加えて彼には剣の才能があり、指揮官としての能力も高く、回復魔法まで扱えたのだから戦場こそが彼の生きる場所と言えた。


 しかし彼が活躍すればするほどに婚期が遠のいてゆく。

 侯爵家の三男とは言え外聞がよろしくない。

 困ったことに戦場に出会いはない。

 命のやり取りはしても愛情の駆け引きは皆無だ。


 人知れず憂鬱な日々を過ごす中、突然彼に婚約の話が訪れた。

 その相手は隣国の伯爵令嬢。

 年齢は自分と一つ違い。

 美しいと評判の一人娘だったが、なぜかあちらも年齢的には行き遅れだと言う。


 不審に思った彼は密偵を使い、件の令嬢について調べ上げた。

 その結果意外なことが判明する。

 彼女も「戦場」を駆け巡っていたのだ。

 ただし、彼と違う意味で血みどろの修羅場である商売の世界で。


 伯爵令嬢は商才に長けていた。

 父の手伝いをしながら数々の新製品を考案し、そのうちの幾つかは彼の手元にも存在する生活必需品だった。

 諸国を回り営業活動を繰り返すうちに時間だけが無情に過ぎ去り現在に至る。


 釣書と調査報告書を見比べ、オーランジェは令嬢との婚約を決意した。


 自分の屋敷で束の間の休息を過ごした後に彼にまた新たな指令が下る。

 収穫時期を見計らって領内に野盗が増えていた。

 その背後に虎視眈々と自領を狙う周辺国の存在があるのが厄介だ。

 オーランジェは一旦令嬢のことは忘れ、再び戦地へと向かった。


 それから数カ月後。

 喫緊の問題を片付けた後で彼が久しぶりに帰還すると、侯爵家と伯爵家の婚約が整っていた。


 多忙な日程をやりくりして、その数日後に初めて二人は顔合わせをすることになる。

 緊張のせいなのか、令嬢は多くの言葉を発すること無くオーランジェの隣でひたすら俯いていた。


(もっと饒舌な女性だと思っていたが……)


 わずかな不安を胸に抱きつつ、ガゼボへ誘ってみると素直についてくる。

 商売の話をしてみれば緊張も解けるだろうと思って紅茶の話などを振ってみるが、恥じらうように微笑みを返してくるだけだった。


 やがて夕食も終わり、オーランジェと令嬢が二人きりになれる時が来た。


 ある意味でお似合いの二人が今宵、同じ部屋で同じ月を見上げていた。


 月明かりに照らされた令嬢は幻想的な雰囲気を醸し出しており、男であれば誰しも見惚れてしまうほどに蠱惑的。

 対するオーランジェは容姿こそ整っているものの恋愛経験は殆ど無い。

 年齢の近い美貌の令嬢を目の前にして心を乱してしまうのは無理のないことだろう。


 大きな窓の木枠にもたれかかるようにして外を見つめる令嬢に寄り添い、普段とは違う低めの声で彼女に語りかけるオーランジェ。


「キミの心は今から俺のものだ」


 完全に外した、と思った。整った顔立ちはそのままに彼は悔やむ。

 なにか気の利いた褒め言葉でも言うつもりだったのにいきなり決め台詞を口にしてしまった。


 彼の言葉に驚いたように令嬢をまばたきを繰り返した後に、ポツリと呟いた。


「えっ……嫌ですわ」


 まあそうだろうなと嘆息するオーランジェ。

 だが待てよ。自分はなにか嫌われることをしただろうか。


 彼は混乱しながらも令嬢の言葉を受け流すことにした。


「互いに親同士が決めたことだ。それはわかっているだろう」


 小さく頷く令嬢。


「そしてキミには想い人がいない。そうだろう?」


 一瞬だけ表情を硬くしてから令嬢は再び小さく頷いた。


「なら俺にしておけ」


 半ば自棄になっていると自覚しながらオーランジェは強引な手段に出る。

 令嬢がもたれかかる木枠の近くに手をつき、震えないように息を止めた状態で形の良い彼女の顎に指をかけて持ち上げる。

 これらは戦場で部下の兵士たちから教わった作法。


『司令官にこれをされたらどんなオンナもドッキドキでさぁ!』


 部隊の中でも女性の扱いが上手いと評判の副官相手に何度か練習もした。


 壁に手をついて退路を塞ぎ、強制的に自分へ向かせるテクニック。

 かなり恥ずかしい気持ちだったがオーランジェもドキドキしてしまったのは秘密だ。


 これで効き目がなかったら夜通し叱責して――、


「嫌ですわ」


 この瞬間、副官への叱責が確定した。


 それはさておき、令嬢は嫌そうな表情でプイッと横を向くわけでもなく、彼の目をじっと見つめている。


 これはどうしたことか。


 数えるほどとはいえ、爵位に釣られて自分に言い寄ってくる貴族の令嬢を袖にしてきたことはあっても拒絶されたことのない。


 オーランジェは穏やかな表情のままパニックになっていた。

 少なくとも今までにこのような経験はなかった。


 だが二度も断られた。

 これ以上は甘やかすわけにはいかない。


 相手は伯爵家の一人娘とはいえ家格が下の令嬢。

 いくら月の光よりも眩い美貌があったとしても許すべきではない。


 静かに目をつぶり、意を決したオーランジェは戦場を思い浮かべながら力強い声で言い放つ。


「トルテ伯爵令嬢! 今、この時を以てキミとの婚約を破棄する!!」


「それですわ」


 パァァッと花が開くような笑顔になる令嬢。


 しばしの静寂。そして、


「……どれ?」


 驚くほど間抜けな声でオーランジェは令嬢に問いかけた。


(婚約破棄を待っていた? どういうことだ。いや、それよりも胸が矢に貫かれたように痛いのだが!?)


 困惑する彼に向かって令嬢は微笑みかける。

 それは今まで見せたことのない自然で魅力的なものだ。


 しかし彼の胸には令嬢が放った言葉の矢が深々と突き刺さったまま。


「え……」


 不意に、呼吸を乱す彼の手を白く細長い指が優しく包みこんだ。


「レンジ侯爵子息、オーランジェ様。貴方が仰った通り、わたくしは親同士が決めた婚約に反対でしたの」


 きっぱりと口に出して婚約を拒絶する令嬢。


(こ、この人は、自分の言葉の重さがわかっているのだろうか)


 婚約は既に成った。

 その上で破棄を受け入れれば不遇な一生を過ごすことになるだろう。


 しかし、令嬢は月明かりに照らされた肌をほんのり紅くしながら


「ロマンス……」


 そう呟いた。


 口を開けたまま令嬢の整った横顔を見つめながらオーランジェが黙り込むと、


「燃えるような恋がしたいのです。憧れるのです」


 彼女は両手を胸の前で組んで、乙女が祈るような仕草をして見せる。


「は?」


「哀れな女と笑われていることでしょう。親の用意した道を歩むことしか許されないわたくしには決して……恋は手に入らぬもの。ですから最期のわがままを貫き通したく」


 手を胸においたまま令嬢がオーランジェへと向き直る。

 綺麗な曲線を描く大きな瞳に一点の曇りもなかった。


 恋に憧れる彼女を見ているうちに、オーランジェの胸の中が熱くたぎりだした。


 気づいた時には今まで彼が口にしたことのない言葉が飛び出していた。


「だったら俺とすればいい」


 先程の彼が驚きのあまり口を大きく開けたのと同じように、令嬢を絶句したまま何度か瞬きを繰り返していた。それでも彼女は美しかった。


「まあ」


「まあ、じゃない。そりゃあ僕だって反対したかったさ」


 オーランジェは傍にあった豪奢な椅子に自ら腰を下ろすと、その隣りにある同じ作りの椅子へ座るよう令嬢を促す。彼女は素直に従った。


 目線が同じになったところで少し落ち着きを取り戻した令嬢が言う。


「殿下、口調が乱れておりますわ」


「構うもんか。目の前にいるのは自ら最期を覚悟した女性なのだ」


 それまで令嬢の美貌に目を奪われていたばかりだったオーランジェは、この時初めて彼女の本質に興味を持った。

 その気持がなんとなく伝わったのか、令嬢の顔つきも微妙に穏やかになった。


「それで、キミはどんな恋がしたかったんだ」


「ええ、そうですね……特に具体的な希望もなく?」


 どうせ駄目だと思いこんでいたのだから、と彼女は言った。



「じゃあせめてそれを確定させてからでもいいではないか」


 呆れたようにオーランジェが言うと、


「執行猶予?」


 可愛らしく首を傾げて令嬢が返す。

 年齢に相応しくない少女のような仕草もまた美しかった。


「そうとも。国外追放も、離れの塔への幽閉も、毒殺も僕が絶対に許さない」


「まあ」


「だから、まあじゃない。こんな振られ方をしてなるものか!」


 断罪のフルコースを提示されても一向に揺るがない令嬢を見ながらオーランジェが大げさに両手を広げて見せると、彼女は突然口に手を当てて笑い出す。


「くくっ、旦那様はわたくしに振られたくないと? プッ」


「笑うなよ。僕は一目惚れしたんだ。気高く無表情で、何を言っても笑いそうもないキミを笑わせて見せると心に決めていたんだ」


 憮然としてオーランジェが告げると令嬢が大きく目を見開いた。


「ああっ! うっかりしてしまいましたわ。わたくし先ほど」


「ふふふ、そうだ! ようやく笑ったな。最高の笑顔だった。だからこそ最期にしたくない」


 オーランジェが静かに指先を伸ばし、先程の意趣返しとばかりに令嬢の手を優しく包み込む。



「トルテ、僕と付き合ってほしい」


「呼び捨て……」


「だめかい?」


「だめじゃないですわ」


 今度は拒絶されなかったことにオーランジェは安堵し、大きく息を吐いた。


 そして椅子ごと体を横に向け、まっすぐに令嬢を見つめ直して言う。


「キミは本当にいい顔をする。それを独り占めにしたい僕を愚か者だと笑うかい?」


 令嬢の体がビクンと小さく跳ね上がった。


 彼女もこの時初めてオーランジェという存在を受け入れ、整った容姿と無邪気な表情をまっすぐに見つめてしまったのだ。


「ずるいですわ」


「ずるくない。こっちだって命がけだ」


 即座に言い返された令嬢は笑い声の代わりにフゥッと大きく息を吸い、柔らかな笑みを浮かべて彼の手を握り返す。


「悪妻を娶る覚悟がおありなのですね」


「なぁに、たいしたことないさ。今まで僕がこの家で受けていた数々の嫌がらせに比べれば」


 若い頃からひたすら戦場へ行かされたことに恨みがないわけではない。


 敵を倒せば褒められることにいつまで経っても慣れることはない。


 彼とて生来の殺戮狂ではないのだから当然であろう。


 そんな気持ちを吐露できる相手が彼にはいなかった。


 しかしこれからは――、


「楽しそう。そのお話、一つ一つ聞かせてもらうわけには?」


 目の前に最高の話し相手がいる。


 自分の死すらいとわずに恋に焦がれた変わり者の令嬢が。


「かまわないよ。全部話そうじゃないか。でもそれまでにキミはおばあちゃんになっちゃうかも知れないぜ?」


「その時は貴方もおじいちゃんですわ」


 もはや口元にても当てず、クスクスと自分に笑いかけてくる令嬢を見てオーランジェは、この戦いに勝利したことを実感する。


「言うじゃないか。ますます気に入ったよ」


「貴方がわたくしに『真実の愛』を教えてくださるのなら、いつでもこの身を捧げてもよろしくてよ?」


「そんなもんいるか。とりあえず今夜は語り合おう。キミの話も聞かせてくれよ。たっぷり儲けてるそうじゃないか」


「まあ」


「だから、まあじゃない。話せ」


「では……」


 普段は静かなオーランジェの部屋の中で時折響く笑い声に使用人たちは首を傾げ、そして彼らも少しだけ笑う。


 お互いが「戦場」以外で見つけた遅咲きの小さな恋の花。


 二人は末永く語り合うのだった。




(了)



めでたしめでたし。


2024.05.24追記 こちらの作品はピクシブ様にも投稿しております。

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