赤いワンピースの少女と一月の海 〜 ずっと君と笑いたくて 〜
『あ……』
サトルは出しかけた声を止めた。
もう慣れている。
小学校五年生にもなれば、処世の述も身につくというものだ。
冬の空気は乾いていたが、街を吹き抜ける風は柔らかだった。
母とその友達が談笑しているそのあいだを、ユラリと黒い影が通っていくのを見送りながら、サトルは声に出さなかった。
幼い頃は不思議なものを目にしたり、その声を聞いたりするたびに、周りの人に知らせていた。
「ねえ、このおじちゃん、誰?」
「なんでさっきから女の人が天井裏でずっとブツブツ言ってるの?」
「目玉の両方ない人が片足だけで歩いてる」
──気味の悪い子だというレッテルを貼られた。
学校でも差別され、いつの間にか友達のいない子になっていた。
だから慣れている。もう、不思議なものを見ても誰かに知らせるなんてことはしない。
路上での談笑があまりに長いので、退屈したサトルは母親に言った。
「ぼく、ちょっとあっちで遊んでくる」
黒い影が通っていった方向とは、逆の方向に歩いた。
慣れているとはいえ、やはりそういうものに近寄るのは怖い。逃げるように逆方向へ行った。それにその方向にはサトルの興味を引くものがある。
サトルは楽器が好きだった。
ショーウィンドウの中に置かれたおおきなウッドベースを眺めているだけで幸せになれた。
自分の部屋にはリコーダーとピアニカ、それと玩具のエレキギターぐらいしかない。気味の悪い子に両親は、部屋に引きこもるような玩具はあまり買い与えず、何かといえば外で遊べと言った。
しかしサトルは楽器が好きだった。
いつかこんな立派な楽器を弾きこなし、有名な音楽家になることが夢だった。
1月とはいえ、なんだか体の奥から熱くなってきたのでジャンパーの前を全部開けた。ガラスに触れないよう、両手はポケットに突っ込みながら、ボディーに開けられたfホールからウッドベースの中を覗き込んだ。そこに貼られたシールに書いてある文字を読もうとしたが、英語が難しくて読めなかった。
『いいなぁ……。凄いなぁ……』
サトルは心で呟く。
『かっこいいなぁ……。こんなのがもし上手に弾けたら、みんな僕を見てくれるかな』
ふいに、すぐ耳元で歌が聞こえた。
とても楽しげな、女の子の歌声だった。
振り向いてみると、いつの間にか隣に女の子が立っている。サトルと同じ方向をむいて、ショーウィンドウの中を覗き込んでいる。
サトルは思わずドキッとした。急に女の子が隣に現れたからでもあったが、何より女の子の横顔が、自分の理想の形に似ていたのだった。
女の子は赤いワンピースに身を包み、不思議な歌を口ずさんでいた。ふわふわして、どこか懐かしくて、しかし一度も聴いたことがないような歌だ。それをまるでバイオリンのような透き通る音色で歌っている。
人に話しかけるのが苦手なサトルが、思わず聞いていた。
「それ、なんて歌?」
女の子が笑顔でこちらを向いた。
正面から見ても、輝くぐらいにかわいい子だった。年頃も自分と同じぐらいに見えた。
「これはあたしが作った歌よ」
女の子は話しかけられたことがものすごく嬉しそうに、教えてくれた。
「だから誰も知らないの」
「いい歌だね」
心からサトルは言った。
「それに声もすごく綺麗」
「ありがとう」
女の子はかわいく上半身を傾けた。
「嬉しいな。見えるひとに出会ったのも初めて」
「……え?」
サトルはショーウィンドウのガラスを見た。そこに映っているのは自分だけだ。すぐ隣にいるのに、彼女はサトルの横に映っていなかった。そしてよく見るまでもなく、一月の街に夏の装いだ。
「……そっか」
驚いたけれど、怖いとは感じなかった。
「音楽……やってたの?」
「うん。バイオリンをね。将来は音楽家になるのが夢だったよ」
女の子はあかるい表情を崩さずに、言った。
「病気だったんだ。周りのみんなはどうしようもなかったの」
「そっか……」
再びショーウィンドウの中に目を移した少女の横顔を、サトルはじっと見つめる。生きている女の子の顔をこんなふうに凝視すれば即文句を言われるぐらいに。でも少女は何も言わない。視線を感じてこちらを振り向いたが、まるでガールフレンドのように嬉しそうに笑うと、楽しそうにまたショーウィンドウの中に笑顔を戻す。
サトルは珍しく積極的に、話しかけた。
「名前……聞いてもいい?」
「忘れちゃった」
「じゃあ、僕がつけてもいい?」
「いいわよ」
彼女のイメージにぴったりな名前を、サトルはもう用意していた。それはずっと前から頭の中に住んでいるイマジナリーフレンドの名前だ。
「エミ」
「わ……! いい名前」
エミはまたこちらを振り向くと、感謝するように頭を少し傾け、笑った。肩までの髪が揺れ、サトルはその柔らかさに心奪われた。
✰ ✰ ✰ ✰
彼女はいつでもその楽器店の前にいた。
サトルがやって来た時にはいないが、ショーウィンドウの中を覗き込んでいると、隣に現れる。
「こんにちは」
「こんにちは」
エミはいつも赤いワンピース姿で、いつも輝くような笑顔だった。サトルはいつも照れ笑いをして頭を掻いた。
「サトルくんも音楽家になりたいの?」
「うん。こんなおおきな楽器を自由自在に弾きこなして、みんなをびっくりさせたいんだ」
「いいな。あたしも一緒にバイオリンで共演したいな」
「したいね。実現できればだけどね」
夢だった。
エミはこの世の人ではなく、サトルは楽器を持っていなかった。
二人の共演は夢の中でしか実現できないものだと、サトルは知っていた。
それでも触れ合うことができない相手だからこそ、おおきな夢を実現できるもののように語ることができた。
エミと並んでショーウィンドウの中の楽器を眺め、会話をしている時が一番楽しかった。
家でも学校でも気味の悪い子として認識されているサトルには、今までの人生でこれほど楽しかったことが果たしてあっただろうかと思える。この時が永遠に続けばいいのにとさえ思った。
楽器店の扉が開き、黒ぶちメガネに頭の薄いおじさんが出てきた。
「ねえ、君」
話しかけられるとは思わず、サトルは挙動不審になる。
「ひゃ……、ひゃい?」
「君……、ここんところ毎日熱心にうちの楽器を見てるよね? なんか独り言、呟きながらさ」
「す……、すいません」
「お客さんから苦情入っちゃってるんだよね〜。店の前に一人で楽しそうに会話してる気持ち悪い子どもがいるって。……あ、いや、僕じゃなくてお客さんたちが言ってるんだけどね、気持ち悪いってのは」
「サトルくん、行こ」
そう言ってエミが小走りになる。
「あっ」
急いでサトルはその背中を追いかけた。
「待ってよ! エミちゃん!」
「エミちゃん……?」
おじさんは首を傾げた。
「……やっぱりおかしな子だったのかな? もう、来ないでくれよな」
「待ってよ! 待ってよー!」
エミの足は速かった。まるで夢の中を走るように、音もなく駆けていく。たまに振り向き、からかうように笑う。水の中でなびくような動きで揺れる赤いワンピースと後ろ髪が、どこまでもサトルを誘った。
エミがようやく止まってくれたので、サトルも膝に手をついて立ち止まった。結構遠くまで来ていた。地縛霊かと思っていたらそうではないらしいことに、サトルはちょっと嬉しくなった。
少し遠くに海が見渡せる公園だった。エミは海のほうをむいて立つと、サトルに聞いた。
「海……、見える?」
「え……? うん、見えるけど?」
「やっぱりね。ここから海、見えるんだ?」
「エミには見えないの?」
「なんでだろ。あたしの目には、あそこがただの白くてなんにもないところにしか見えないの」
サトルは海を見た。確かに海はあそこにある。凪いだ冬色の海が、丘で切り取られたむこうに広がっていた。エミには陸地はまるで断崖絶壁のように見えており、その先には果てしなく広がる空虚が見えているというのだろうか。
「だから……ね、目を見せて?」
そう言うとエミは振り返り、サトルに近づいてきた。
「サトルくんの目に映ってたら、あたしにも海が見えるかも」
「そ……、そうか!」
サトルは自分の顔をエミにむかって差し出した。
「僕、海を見てるから。見て? 僕の目に映る海を、見てよ。見えるかな?」
鼻の頭が触れ合いそうなほどにエミが近づいてきた。
透き通るような、少し青みのかかった彼女の瞳が、サトルの目を覗き込む。ドキドキしながら、サトルは彼女の反応を待った。
「見える……!」
エミのあかるい声が、サトルの頭の中で響いた。
「見えたわ! 海だ! 海が見えた!」
「本当? やった!」
サトルは思わず両手を前に出した。
「やった! エミに海を見せられた!」
二人は手を繋いで喜び合おうとしたが、触れ合うことができない。それでもぴょんぴょんと飛び跳ねて回りながら、エミが海を見たことを喜んだ。公園には他にもちらほらと人がいて、誰もがサトルのことを不思議そうな顔で眺めていた。
冬の海は穏やかに鉛色の空を映し、濃い色を浮かべていた。
✰ ✰ ✰ ✰
サトルはノートパソコンに文字を打ち込んだ。
『あやべえさん、こんばんは』
もじもじという名前の後に、その文字が表示される。
『こんばんは、もじもじさん』
あやべえという名前の後に、挨拶文が表示され、チャットがはじまった。
『最近、どう? 霊、見てる?』
もじもじ『相変わらずだよ。もちろん誰にも言ってないけど』
あやべえ『凄いの、見た?』
もじもじ『黒い影ぐらい。お母さんの前をすうっと通っていったけど、無害』
あやべえ『おお! 怖い! いいね、怖い!』
幽霊が見えることをリアルでは誰にも言わない代わりに、サトルはネットで心霊話を聞くのを好む人を見つけ、彼だか彼女だかはわからないが、特にあやべえという人に話をよく聞いてもらっていた。
あやべえ『しかし確かに無害だね、それは。霊障とは怖いものでござる。でも、触れ合ってこようともしない霊は無害だね。大丈夫、大丈夫』
あやべえさんはアドバイスもよくしてくれる。とはいえ今まで『それは危険だ』などと言われたことは一度もないが。
サトルはあやべえに、エミのことを言おうかどうか、迷った。
彼女とのことだけは、自分と彼女のあいだだけの秘密にしたいという気持ちがあった。
それとは別に、自慢したいような、他人に聞いてもらいたい気持ちもあって、つい、そちらの気持ちのほうが勝り、黒い影の次にその話をして聞かせたくなった。
もじもじ『あとね、かわいい女の子と友達になったよ』
あやべえ『おおっ!? 自慢だね? のろけだね? どーでもええわっ! リア充だったんだね、キミ。爆発しろ!』
もじもじ『違う、違う。かわいい女の子の霊とね、お友達になっちゃったんだ』
あやべえ『……え』
もじもじ『ふふ……。うらやましい?』
あやべえ『それは危険でござるよ』
もじもじ『えっ?』
あやべえ『この世のものならざるものとは仲良くなどしてはいけないでござる。その女子、たぶん寂しがってるよ。もじもじ殿、あんまり深く関わると、その子に連れて行かれちゃうでござるよ?』
モニターの文字がぼやけた。
確かにそんな話を聞いた覚えはあった。
霊界のものに情けをかけてはいけない──と。
寂しがっているそいつに、連れて行かれてしまう──と。
あやべえ『……ま、拙者も話に聞いただけでござるが。とにかく、触らぬ神に祟りなし。あまり深く関わらないほうがいいと思うでござるよ?』
もじもじ『あ……、ありがとう。あやべえさん』
チャット画面を閉じると、サトルは考え込んだ。
エミは自分を、あの世へ連れて行きたがっているのだろうか。
もしそうだとしても、それはエミの悪意ではないという気がした。霊界のものが現世のものと触れ合えば、どうしてもそうなってしまうという、宿命のようなものだと思えた。
エミが寂しいのなら、寂しがってほしくないとも思った。
そう思うと無性に会いたくなった。
カーテンを開けると夜の住宅街が広がっていた。
サトルは窓を開け、小声で呼んでみる。
「……エミちゃん?」
返事はなく、気配もなかった。それでもしばらく窓を開けたままにし、あのかわいい笑顔が、赤いワンピースの裾を揺らして現れてくれるのを待った。
一月の風が吹き込み、体の芯が震えだしたので、仕方なく窓を閉めた。
明日は自分の家の場所を彼女に教えようと、そう思った。
✰ ✰ ✰ ✰
いつもの楽器店の前に行き、中からおじさんに見つからないように、なるべく店の中からは死角になる位置に立った。
おおきなウッドベースを急いで眺め、目の端で隣を確認し、気配はなかったけれど、逸る気持ちを抑えられずに横を振り向いた。
「こんにちは」
エミがそこにいた。
眩しすぎて逆光になっているのかと思った。
「あれ?」
サトルは思わず声を漏らした。
「エミの顔……、よく見えないよ?」
その場にいたらまたおじさんが出てくるだろうので、すぐに並んで歩きはじめた。
並んで歩くエミが、いつもの笑顔を浮かべているのかどうか、サトルには見えなかった。彼女の顔は白くぼやけていて、表情すらまったくわからない。
「どうしたんだろう……僕。エミの顔がよく見えなくなってる」
「ああ……」
エミはくすっと笑ったようだった。
しかしその声にはどこか寂しさのようなものが感じられた。
「なんでか、わかるの?」
サトルが聞くと、エミはしばらく黙っていたが、ようやくいつものあかるい声で、言った。
「生きてる人はね、大人になるとあたしみたいな存在とは、お話できなくなるんだって」
「そうなの? でも僕、まだ11歳だよ?」
「一番霊が見えるのは3歳ぐらいまでだって聞いたことあるよ。それより歳をとっても見える人は滅多にいないんだって」
「じゃ……、僕は、その滅多にいない人なのか」
「寂しいな……。サトルくん、そのうちあたしのこと、見えなくなっちゃう」
「ならないよ! しっかりエミのこと見てるよ!」
そう言いながらも、確かにエミの顔は光にぼやけたように、判然としなくなっていた。
なんで……、急に……?
悔しがるサトルを気遣うように、エミがくすっと笑い、横から言った。
「見えなくなったほうがいいのかもね。住む世界が違ってるんだから、あたしたち。あんまり触れ合わないほうがいいのかも」
「いやだよ!」
サトルはつい大声をだした。
通行人が不思議そうにサトルを見て通り過ぎていく。
「いやだよ……。せっかく仲良くなったのに」
サトルは声のトーンを落とし、エミに言う。
「友達になったのに……」
「ありがとう、サトルくん」
エミの声は微笑みを感じさせた。
「でも、短いあいだでも、あたし、楽しかったよ? この世に戻ってこれたみたいな気持ちがした」
「エミはこの世にいるじゃん!」
サトルはまたおおきな声をだしてしまう。
「こうやってお話できてるじゃん! この世の存在だよ!」
エミはただ黙っているだけだったが、寂しそうな微笑みを浮かべているのがサトルにはわかった。
✰ ✰ ✰ ✰
もじもじ『あやべえさん……』
あやべえ『どうしたでござる? もじもじ殿』
もじもじ『ぼく……霊感がどんどん弱まってる』
あやべえ『まじで!? 拙者、もじもじ殿から霊見た話を聞くのが生き甲斐でござったのに!』
もじもじ『なくしたくないよ……。どうすればいいんだろう?』
あやべえ『あれ? 少し前までは「こんな力、いらない」とか言ってなかったでござるか?』
もじもじ『彼女とずっと笑っていたいんだ』
あやべえ『彼女というと……仲良くなったという、例の霊の少女でござるか』
もじもじ『好きになっちゃったんだ。彼女を寂しくさせたくない』
あやべえ『覚悟を決めたんでやんすね? 人としてご立派!』
もじもじ『どうしたらいいんだろう? ねえ、あやべえさん、どうしたらいい?』
サトルの話を一通り聞くと、あやべえは文章を書き込んできた。
あやべえ『ふーむ。きっと恋をしたから急速に大人になりはじめてしまったんでござるな』
もじもじ『大人になったら、彼女がまったく見えなくなっちゃうの?』
あやべえ『そうでござろうなぁ……』
もじもじ『いやだ! そんなの……』
あやべえ『拙者にとっても嫌でござる。もじもじ氏がオトナになるなら、拙者がオトナにしてあげたいでござる』
もじもじ『どういう意味?』
あやべえ『あ……、いや、オトナの話でござる』
もじもじ『どうすればいいんだろう……ぼく』
あやべえ『キラリーン! 拙者に名案があるでござる』
もじもじ『本当?』
あやべえ『はい。拙者、実は自分に霊能力はないが、霊能力を回復させるスベは知っているのでござる』
もじもじ『本当に?』
あやべえ『ああ。もしよければ明日にでも、会わないでござるか?』
もじもじ『え……。あやべえさんと?』
あやべえ『うむうむ』
サトルは少しだけ躊躇したが、藁にすがる思いで、答えた。
もじもじ『わかった! ぼくの霊感を回復させてよ、あやべえさん!』
✰ ✰ ✰ ✰
あやべえが待ち合わせに指定してきたのは川岸にある粗末な小屋だった。
サトルにとっては有り難かった。人目の多い街中のカフェとかよりは、人気のないこんな場所のほうがよかった。
誰にも言わずにここへ来た。サトルが小屋に近づくと、木の扉が開き、中から四十歳ぐらいの太った男性が顔を出した。
「あやべえさん?」
「ぐふふ」
サトルの姿を見ると、あやべえは露骨に嬉しそうに笑った。
「もじもじくん、11歳の小学生だってのは本当だったんでござるなあ。か、かわいいよ」
小屋の中は、あやべえがいつも使っているようで、簡易発電機があり、小さな電球が上から照らしており、電気ストーブが狭い空間を暖めていた。
「会えて嬉しいよ、サトルくん」
あやべえは本名で彼を呼んだ。
「かわいい。かわいいなあ、かわいい男子小学生の中でも、キミは特別かわいいでござるなあ」
「あやべえさん。僕の霊感を回復させてくれるんでしょ?」
「うむうむ」
あやべえはうなずき、黒ぶちのメガネをくいっと指で押し上げる。電球の灯りで目の表情が見えなくなった。
「しかし……、前にも言った通り、彼女は危険でござるよ? キミをあちら側に連れて行きたがっているのかもしれぬ」
「構わないよ」
サトルは心から言った。
「僕、エミとだったらどこへでも行きたい! だって現世はみんな僕のことを気味悪がってて、僕の居場所なんてないんだもん!」
「ほうほう」
あやべえのメガネがきらーんと光り、口からはよだれが一筋垂れた。
「未練はないのでござるな?」
「うん!」
サトルは強くうなずいた。
「早く! 僕の霊感を戻してよ」
「わかったでござる」
あやべえは汚れた敷布団を指さした。
「では……、そこに横になるでござる」
サトルが素直に横になると、あやべえが上にのしかかってきた。
「これで……霊感が戻るんだね?」
「そうでござる。大人しくしてるでござるよ?」
「大人しくしてたらオトナになって、霊感失っちゃったりして」
サトルが自分の言葉にくすっと笑う。
「オトナの階段を昇っても、体も心も永遠にキミは子どものままとなる」
あやべえの息が、荒くなった。
「いいかい? 拙者に何をされても、決して抵抗してはならぬ。決して叫び声などあげてはならぬでござるよ?」
電気ストーブの火が、赤々と燃えていた。
✰ ✰ ✰ ✰
「エミ!」
いつもの楽器店の前で、サトルはまっすぐ彼女に駆け寄った。
赤いワンピースの少女が振り返る。その顔にはあかるい微笑みが、はっきりとサトルの目にも見えていた。
「サトルくん!」
サトルは彼女の手を繋ぐと、駆けだした。
「あの公園にまた行こうよ! 海の見える公園に!」
「でも……海、見えるかな?」
「見えなくてもいいよ。あそこで一緒に歌を歌おうよ」
「あの歌を?」
「うん! あの歌を! 僕が低音パートを歌うから、エミはソプラノで歌ってよ。共演するんだ!」
「いいね!」
二人は手を取り合って、楽しそうに駆けていく。
どこまでも、どこまでも、白い花の咲く道を、一緒に駆けていった。
電器店のテレビ画面にはニュースが流れていた。
四十歳ぐらいの黒ぶちメガネをかけた太った男が、川岸にある粗末な小屋から出ていくところが映しだされていた。刑事が上着をかぶせて隠しているが、その手には手錠がかけられている。彼を連行する刑事がテレビカメラに向かって『撮るな』と手をかざしていた。
それと同時に、小屋の中から青いビニールシートをかぶせた少年ぐらいの大きさのものが運びだされていた。
ユーチューバーの五分目悟様の動画から多大なインスピレーションを受けました