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Horowitz Live in Vienna (1987)を、ぼんやり聴きながら、あまりの繊細さと軽やかさにぼんやりと沈む。……物語を書くことは、……他のどの創作よりも、心が置いて行かれて、心が沈み、自分とは違う世界へ入った感覚になりやすく、まるで浮揚するようだ。……だから、正直、戻ってこれなさそうで、……私は、長時間物語の世界に沈み込めない。……怖いから、一作には絞れない。同時に連載をいくつも続けてしまいがちなのは、……一作に沈んでしまって、いつか私自身が帰れなくなってしまうかのような予感と怖さがあるからだ。
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書くことなら沢山続けてきた。息をしたくて、自分の中の事柄を整理したくて、あらゆる自分を知る為の道具として、感情をぶつけ、思考をぶつけ、時には、自らが気づけなかった無意識まで抉りのぞき込むような道具として、書くことを使い、創作を使い、息をする為に自分を開く為に使ってきたそれ。
詩や、雑文や、短編もどきは、……それこそいくらでも。エッセイもどきや、日記もどきも、いくらでも。その都度、入れ替わり立ち代わり、少し違う自分を引き出されるようなそんな創作。汚い自分も狡い自分も少し怖い自分も気味の悪い自分も少し卑怯な自分も矮小で弱い自分も。口調や言葉のテンポのはやさや、性質すら時には入れ替えて。沢山の遊び。そこで自由に引き出された自分は全て自分の一部。だからどんなに違っていても自分で、自分からは逸脱しない、それ。
……そういった創作の……私の中の固定化されていた常識は、こちらの場所に来て、
……一度、驚いたことがあるんだ。ここの場所では、短編だろうが、詩だろうが、長編の小説だろうが、フィクションとして扱うという感想を書いて下さる方の対応に私は初めの頃戸惑った。
事実として書いていたものを丸ごとフィクションとして否定された時、私とそのご感想を書いて下さった方との話が噛み合わなくて物凄く戸惑い悩んだことがある。お気に入りの方に相談をして、やっと理解出来るようになるまでそういった解釈があるとは全く理解出来ていなかったそれ。
その時に、……強烈に意識した。小説、物語を書くという世界は、私が取り組んできた創作とは根本的に肌触りが違うということに。
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……そんな、物語を書く、という状態に、私は未だに慣れることが出来なくて、……つい、のめり込む前に浮き上がろうとしてしまう。水面から顔を出そうとしてしまう。物語に沈み込む為には、ずっとずっと底まで、沈み込まなければならないのに。
……時々、初めての創作からこちらで、ずっとこちらで物語を書いてきた方が羨ましくなる。……私とは違う価値観にずっとあった方々。
……私は、まだ慣れないのです。……いつになったら、物語に沈み込むことが怖くなくなるのだろう、って、そう、苦しくなるのです。