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恋愛  作者: 月沢あきら
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第二回

 克樹を乗せたトラックは一路徳島県を目指していた。もともと無口な二人はなお一層むっつりと黙り込んで、運転席と助手席に沈み込んでいた。黒々と続く高速道路を延々と走らせる。途中無言のまま運転を交代し、また暗い道をひた走る。いつ果てるとも知らぬ道のりにとうとう耐え切れなくなった若い男が「もう嫌だ」と声を上げたその時

「おい、見ろよ」

今は助手席にいる年嵩の男が道路標識を指差した。明石海峡大橋の表示が見える。

「やっとか」

「ああ。やっとだな」

二人の顔がやっとほころんだ。

「急がないとな。明るくなる前に片付けないと」

「そうだな」

トラックは明石海峡大橋を渡り、淡路島を抜け徳島県に入ると海岸線から山道に分け入った。山の稜線がうっすらと深い藍の中に浮かんで見える時間になった。空の星が消えていく。

「おい。そろそろいいんじゃないか?」

若い男が言った。車のライト以外何の光もない漆黒の山道である。空の色が薄くなったからといって、とてもこの深い山の木々の間を照らすほどの明かりはない。「そうだな」

 その言葉を合図に若い男はトラックを路肩に止めた。二人は両側から車を降り、後ろの荷台の戸を開けた。克樹はぐったりと横たわったままである。

「死んでるか?」年嵩の男が訊いた。若い男が克樹の肩を揺すった。克樹の顔がかすかに歪んだ。

「生きてるな。どうする?」

「殺すことはないだろう。そのまま捨てよう」

「そうか」

 二人は積んだ時と同じ要領で克樹を担ぎ上げると道の端まで運んだ。木々の茂った崖は一メートル先も見えない暗闇だ。そこに向かって路肩から下に向けて、克樹の身体を放り投げる。克樹は最初こそ勢い良く傾斜を転がり落ちていったが、木や下生えに遮られてすぐに止まった。二人はこわごわとそれを覗き込んでいたが、闇に紛れてどこに行ったのかはわからなかった。若い男が荷台に戻り克樹の眼鏡を取ってきた。それを克樹の方に放り投げると「行こうか」と年嵩の男が言い、二人はそそくさと車に乗り込みその場を走り去った。

 トラックが走り去った後、空が徐々に明るくなってきた。藍色から白へ、そしてオレンジの明るい光が木々の間を照らす頃。一人の男がその場を通りかかった。男は昨年仕事を定年退職し、この時期毎朝山にキノコ狩りに来ていた。自転車の男はすぐに下生えの様子がいつもと違うことに気がついた。

「また不心得もんがごみでも不法投棄していったか?」

 男は自転車を止め、山道の端から下を覗き込んだ。「?」ゴミにしては奇妙な形の物が木の間に引っ掛かっている。目を凝らし眺めたが、まだ光は充分ではなく何か分からない。男は足下に注意しながらゆっくりと下に降りていった。すぐに人間のようだとわかる。克樹のすぐそばまできた。「人形か?」

触ろうとした手にべったりと付いた生暖かいもの。

「ひぇー!」周り中こだまするほどの叫び声をあげた。克樹の身体は山を転がったせいであちこち擦過傷ができて血だらけになっていた。男は腰を抜かししりもちをついた。

「うわー!ひぃー!」

 だがひとしきり喚くと少し落ち着きを取り戻し「し、死体か?と、とにかく警察を…」克樹の身体を横たえさせようと手を伸ばした。「生きてる!えらいこっちゃ。救急車だ」

 男は急いで坂を駆け上がると自転車にまたがった。携帯電話は持っていない。二km程下った所にある公衆電話まで、男は死に物狂いで自転車をこいだ。



 同じ頃、克樹の家では静子が克樹がいないことを不審に思い始めていた。

 明け方、トイレに起きた静子は、玄関の明かりが付いたままなのをいぶかしく思った。克樹が戻ったら、玄関の明かりを消して部屋に戻るはずなのに。静子は克樹の部屋を見にいった。もぬけの殻だ。気付かぬうちに帰ってきて出張に行ったのかとも思ったが、部屋には荷造りの途中らしいブリーフケースが開いたまま

ベッドの上にあった。そしてデスクの上には財布が。静子は克樹の携帯に電話をかけてみた。だが呼び出し音は鳴るが出ない。静子の心に不安が広がっていった。


 その頃美沙は起きて出勤準備を整えていた。昨夜、帰ってきてから一度克樹から着信があった。が、すぐに切れてしまった。その後何度かかけ直したが繋がらなかった。ラインも既読にならない。だが朝が早いからとわざわざ早く帰ったのだから、眠ったのだろうと解釈して美沙も早く休んだ。しかし今朝になっても何の反応もない。理屈ではわかっていてもやはり寂しい。移動の電車からでもラインを打つくらいはできると思うからだ。美沙は頭を振った。嫌な考えを頭から追い出そうと努めた。


        ・


 すっかり夜が明け茜色に染まった空が一面青に変わったころ、ようやく克樹は病院に搬送された。消防隊員が何人もかかって克樹の身体を斜面から引き上げ搬送した。徳島県の南側、山際にある総合病院である。前夜、克樹が事故に遭ってから十時間以上が経っていた。救急車から処置室に移された克樹はすぐにCTやMRIなど様々な検査が行われた。結果、左上腕部の骨折と脱臼、肋骨二本の骨折、右大腿部の開放骨折、身体全体の擦過傷、そして右側頭部打撃による頭蓋内に軽微な出血が見られた。が、頭部の出血は問題ないだろうと診断された。一番深刻なのは右大腿部の開放骨折で、緊急オペが必要だった。克樹はすぐに手術室に運ばれオペが行われた。出血も多く、一時は危険な状態にもなったが、無事終了した。執刀したこの日外科の当直だった幸田守は、この病院の外科科長でもある。当直勤務があと一時間ほどで終わるという時間に運び込まれた患者のオペが二時間半。さらにその患者の他の部分の怪我の処置でさらに一時間。疲労がずっしりと両肩にきていた。処置を終えた幸田は看護師に指示を出すと走るように医局に戻った。ただでさえ当直勤務は疲れるのに緊急オペ、その上もう四時間も残業している。だが今日は本宮理恵子と同じ勤務時間だったので、精神的にはあまり疲労は感じていなかった。戻る途中で自販機で買った缶コーヒーを飲みながら着替える。一緒に上がって、何か食べに行こう。

 幸田に抗生物質や栄養剤の点滴の指示を受けた本宮理恵子は、ナースステーションの横の部材室で準備にかかった。彼女もこの日の夜勤で、幸田と同じくもうすぐ勤務時間が終わるという時に運ばれてきた患者の処置にあたった。オペにも入りその後の処置もすべてアシストしている。

 ナースステーションで幸田が出した指示通り、抗生物質の点滴が入った点滴バッグと針を持って患者の運ばれたICUに行く。患者は今のところⅠCUにいるが命にかかわる怪我ではなかった。なので午後には外科の一般病棟に移されることになるだろう。点滴を交換しバイタルをチェックする。結果をパソコンに打ち込み、一度ナースステーションに戻った。ナースステーションは夜勤と日勤のメンバーが入れ替わっている。理恵子がオペ室に入っている間に引き継ぎが終わったらしい。看護記録を見ながら薬の準備をしていた後輩の村上早苗が理恵子の顔を見て驚いたように立ち上がった。

「本宮さん、まだいらっしゃったんですか?引き継ぎますよ。上がってください」

「ありがと。でもさっきオペが終わった患者さんの事だけ終わらせるから」

「いいんですか?」

理恵子は頷くと清拭の準備をしてⅠCUに戻った。血の気のない顔に赤黒くこびりついた血が痛々しい。理恵子は克樹の身体をそっと拭きながら先ほど来ていた警察の話を思い出していた。克樹が発見された山道には警察が出動し、現場検証を行ったのだという。その後病院にやってきて克樹の衣服等を調べた。だが身元を示すものは何も持っておらず、事故、自殺、殺人未遂いずれであるかも特定できなかった。幸田からそう遠くないうちに意識は回復するだろうという説明を受けた彼らは、本人の意識が戻ってから事情聴取をするということで先ほど引きあげていった。

 理恵子は込みあげてくるあくびを噛み殺しながら右手を甲が見えるようにちょっと回し時計を見た。午前11時を過ぎている。そこに私服に着替えた幸田が顔を出した。

「お疲れ様」

「お疲れさまです」

幸田は理恵子の横に立つと

「もう引き継ぎすればいいんじゃない。残業もしてるんだし、この患者は急変の心配はないし。飯でも食いに行こうよ」

理恵子はピクリと手を震わせると顔を上げ、暗い目をして無理に笑った。

「ありがとうございます。でも今日は遠慮します。春菜ちゃん、熱出してるって仰ってたじゃないですか。早く帰ってあげないと」

幸田は嫌そうに顔をゆがめると口の中で「そうだな」と言い

「じゃあお先に失礼するよ。お疲れさま」

わざとのように大きな足音を立てて帰っていった。遠ざかっていく特徴のある足音を聞きながら理恵子はため息をついた。克樹の血のついた腕を拭き「ねえ、名無しさん。人生って思うに任せないことが多いわね。私も、そしてこんな風になってしまったあなたも」

 理恵子がこの山間の病院にきてから三年が経つ。大阪の看護学校を卒業し、そのまま学校の同列の大阪の病院に就職して四年。地元の徳島に帰ってきて三年。都会の病院とは設備もシステムも人間関係も何もかも違う不安とストレスの中で、何かと力になってくれたのは幸田守だった。幸田には妻も子供もいる。そんな幸田と未来のない恋だとわかって付き合いだしたのは二年近く前だ。やさしいと思っていた幸田の態度が、実は優柔不断なだけなのだと気づいてから、理恵子の心は少しづつしぼんでいった。理恵子は幸田に妻と別れてほしいと望んでいるわけではない。自分が誰かを不幸にするのは辛い。いや、妻を裏切っている時点ですでに不幸にしているのだ。だが別れを切り出すほどの勇気もないまま、煮詰まった状態がもう半年も続いている。幸田は気づいていないが、春から幼稚園に通いだした娘の話が出るたび理恵子の心は沈むのだった。幸田は妻の話をするのは嫌がったが、娘の話には口が軽かった。

「よくある話よね」独り言のように意識のない患者に話しかける。

「でも、なんだかちょっと疲れたなあって」

清拭が終わり点滴の状態をもう一度確認すると「さて、そろそろ帰ろうかな」

ガーゼやお湯の入ったカートを押して室を出た。

 詰め所に戻って看護記録をパソコンに打ち込んでいると、主任の平田が声をかけた。

「どう?名無しさん。まだ意識戻らない?」

「はい。でも問題なさそうなんで後は時間の経過かと」

「そう、今日も残業お疲れさま。午後一で、ⅠCUから一般病棟に移すのも決まってるし、もう上がってくれて大丈夫よ」

「はい。これ書いたら上がります」

「そう。お疲れ様」

ほどなく看護記録を書き終えた理恵子は、挨拶をして仕事を終えた。



 その頃、克樹の家、そして会社は騒動になっていた。出張先に着いていない。家にもいない。携帯も繫がらず連絡もない。

 いつものように出勤した美沙は、営業部とは階が違うので騒ぎは知らなかったが、昼前に同じ経理部の同期の酒井が美沙のデスクの所にやってきた。美沙の肩に手をかけ、顔を寄せるとささやくように

「営業部の北山さん、行方不明らしいわよ」

「え?」

酒井は高い声を出した美沙に唇に手を当てて制すと、廊下まで引っ張っていった。

「どういうこと!?」

美沙は酒井の腕をつかんで訊いた。

「北山さん、今日大阪に出張のはずだったんだけど、支社の方に行っていないらしいの。連絡も取れないんだって。家族にも連絡してみたけどわからないらしくて……」

「そんな……」

 美沙は慌ててトイレに駆け込むと克樹に電話をかけた。だが流れてきたのは電源が入っていないという告知音だった。「どうして……」

美沙の後からすぐトイレに入ってきた酒井は取り乱して泣き出した美沙にティシューを渡した。

「大丈夫?」

美沙は首を振った。「何が起きているのか……事故に遭って連絡できないのかも」

そこに同じ経理の先輩、木下が入ってきた。二人の尋常ではない様子に「どうしたの?」と声をかけた。

「実は……」話ができる状態ではない美沙に代わって酒井が説明をする。

「営業部の北山君か。私同期なんだけど、彼はまじめだし時間も守る人だから何かあったと思うしかないわね」

ようやく少し落ち着きを取り戻した美沙が

「昨日、出張だからって早く帰ったんです。なのに行ってないだなんて。絶対何かあったんです。でも、私北山さんの事何も知らなくて。まだ付き合い始めたばかりで。携帯の番号しか……」

「そう。じゃあ私が営業部に行って事情を聴いてくるから、とりあえず二人は仕事に戻りなさい。さあ」

 肩を落としている二人を無理やり化粧室から押し出すと、木下は人事部に向かった。そこで社員名簿を閲覧し、克樹の自宅と緊急連絡先を書き留める。人事部の担当者は、個人情報は社員間でも公開できないと、にべもない態度だったが、緊急だと無理を言って開示してもらった。そのままワンフロア上の営業部に向かう。ここはいつも人の出入りが多くて慌ただしい。が、今日は殺気立っている。その中で見知った顔を探し……

「黒沢さん、ちょっとすみません」

木下が呼ぶと黒沢は眉間にしわを寄せたまま来た。「何かな?」

廊下の方に行こうと促した木下だったが

「ゴメン。今ちょっと立て込んでるんだ。ここで話せない?」

「それって北山君の件ですよね?実は……」

 木下は、克樹が行方不明という噂で美沙が動揺していると告げた。暫時沈黙していた黒沢は苦々しそうに

「噂じゃないんだ。事実だよ。ご両親は捜索願を出すことにされたみたいだけど。会社としては代わりの者を大阪に行かせないといけないし、資料も準備しないといけないし、大変なんだ。だけど、この事はまだオフレコにしといてほしい。本人の自発的な失踪という可能性もあるからね。それに……」

言い淀む黒沢に「それに?」と促すと

「会社の資料が一緒に消えているということが問題なんだ。社外秘の資料を持ち出していて、それを外部に渡しているとしたら、服務規程違反の可能性がある」

木下は目を剝いた。「まさか!」

「まだ可能性の段階だけど。まあ、重要な資料は社屋から持ち出し禁止になっているから。自宅に持って帰れるような資料なら機密性は低いと思うけど。とにかく、会社としての対応はまだ隠密だ。本人と連絡が取れないことにはね。だから口外しないでくれ」

「でも、高木さんは昨日会っていたらしいんです。彼女には話しても……」

「知っている人間は少ない方がいい。高木さんにもそう口止めしておいて。じゃ」

 早急にそれだけ言うと黒沢はその場を去った。木下も足早に経理に戻ったが、今更口止めしても遅いのではないかと思った。はたして、昼前には全社で知らない者はいないという事態になっていた。 

 だが、その頃には騒ぎは沈静化しつつあった。パートを休んだ静子が、克樹の部屋に置いてあった会議資料とUSBを会社に届けに来たのだ。静子は会議室に通され、営業部長ほか、課長、何人かの社員を前に克樹の部屋の状態、玄関の明かりの事などを説明した。それらの事実は克樹が事故に巻き込まれたのだという静子の主張を積極的に支持するものではなかったが、克樹が会社の機密を盗んだという疑いは払拭された。

会社側は、今日の所はとりあえず克樹を病欠扱いにして収めてくれた。静子はホッとする反面すっきりしないものも感じながら克樹の職場を後にした。

 家に帰ってみると留守番電話に赤いランプが付いていた。見知らぬ番号から着信があったようだ。普段ならかけ直したりしないが、今日は事情が違う。すぐにかけ直した。


 夕刻、静子は最寄り駅の改札口の前にいた。六時半に博明と高木美沙という女性と待ち合わせをしている。

自宅に帰った静子が見た電話に二軒の着信履歴があり、一件目が彼女だった。留守電に残されたメッセージには美沙は克樹と同じ会社に勤めていて、克樹と付き合っていると言っていた。そして昨日も会っていたのだと語った。そこに吹き込まれた携帯の番号に折り返し連絡をし、話をした。彼女が克樹の事を心配して、一緒に警察に行きたいと言うので博明と三人で行く約束をしている。

 最寄り駅の改札口で待っている静子は、電車から降りてきた人々に目を凝らした。皆足早で脇目もふらず階段を降り、改札を出ると方々に散っていったが、一人だけキョロキョロと辺りを見回しながら降りてくる若い女性がいた。静子がじっと見ていると目が合った。頭を下げる。彼女はホッとしたように笑うと頭を下げた。ⅠCカードをかざして改札を出ると静子に近寄った。

「北山さんでしょうか?」

静子は頷き「高木さん?」と言葉を返した。

「はい。今日は、無理をお願いしてすみませんでした。あの、私は……」

美沙が話し出そうとするのを手で押しとどめて、

「お話は主人と一緒に伺います。主人ともここで待ち合わせしていますので、もう少しだけ待っていただけますか?」

 美沙は頷き、二人は改札の端まで移動し博明を待った。

 五分後、改札を駆け下りてきた博明は、二人を見るとちょっと手を挙げた。博明はスーツの内ポケットから定期を出し、改札を通り抜けた。「お待たせしました」美沙に向かって頭を下げる。

「高木美沙です。今日はすみません」

 挨拶もそこそこに三人は歩き出した。博明が先導するように先に歩く。美沙は後を追うように速足で歩きながら自己紹介と、昨日の克樹の行動と朝からの会社の様子を話した。一通り話し終えると、静子が替わって昨日の克樹の行動について話す。その話を聞いた美沙が口を開こうとした時博明が立ち止まった。美沙は危うくぶつかりそうになり、たたらを踏んだ。「ここです」

博明が示したのは三階建ての建物だった。入り口付近に垂れ幕や横断幕が下がっている。内容は『特殊詐欺に気を付けよう』『自転車事故に気を付けよう』

三人の目的地である大田区警察署だ。警察にはすでに克樹の携帯電話が拾得物として保管されている。

 携帯電話の拾得場所は克樹の家のすぐそばだった。朝、付近を通りかかった犬の散歩中の主婦が、携帯が鳴っているのに気付き、警察に届けたということだった。警察から自宅にかかってきていた電話が、静子の聞いた留守電の二件目だった。静子はすぐに事故や事件の可能性を訴えて警察に現場検証の依頼をした。

 だが、携帯電話が落ちていただけで事故や事件とは認められないと、退けられた。そこで三人は警察署まで出向いて、携帯電話の引き取りと、再度の現場検証、克樹の捜索の依頼に来たのだった。

 遺失物の受け取りの後、対応してくれた婦人警官に事情を話すと、彼女は生活安全課に案内してくれた。

 だが、そこでの対応は冷ややかなものだった。

「だから、家出じゃなくて事故か、事件だって言ってるじゃないですか」

静子がヒステリックな声を上げた。横にいる美沙も同様に詰め寄る。話を聞いていた50年配の私服の刑事は、まあまあというように、両手の平を二人に向けて振った。

「しかしね、奥さん。携帯電話が落ちていただけでしょ?事故の通報もないし、ひき逃げなどの情報も、病院から来ていない。居所がわからないように携帯電話を自分で捨てて失踪した、という可能性が一番高いんです」

「ありえません」二人が声をそろえて言った。

「おっしゃることはわかりますが」

静かな口調で博明が割って入った。

「自宅には翌日の荷造り、彼女には出張を理由に早く帰宅しているんです。自己理由で失踪という判断には納得がいきません」

「そうは言いましてもね」刑事は困惑した様子で頭を掻いた。

「事故だと言える要素は何もないですから。申し訳ないですが」

事件性がある、という証拠になるようなものが見つかれば、捜査するので提出してくれ、という事で話は終了し、克樹は失踪人として届を受理された。

 太田署から出ていく三人の足取りは一様に重いものだった。美沙は出てきたばかりの警察署を振り返った。

「始発での出張だからって、早く帰っていったのに、仕事を放って失踪なんてありえません。何か、事故か事件に巻き込まれたとしか」

「そうなのよ。一度帰ってからまた出て行ったんだけど、財布も家に置いていたの。携帯と、ポケットの小銭くらいで。だから自分の意志で帰ってこないなんて考えられないわ」

「出張用の会社の資料を持っていたって聞きましたけど……」

 興奮気味に話し合う二人の会話を聞きながら、博明はある交差点の手前で立ち止まった。つられて静子と美沙も立ち止まった。静子はちらと博明を見た。なぜこんな所で止まっているのかという問いかけだが、すぐ美沙に目を戻した。

「会社から連絡があってね。出張用に準備していた荷物から、書類とUSBが見つかったの。それで、私が克樹の会社に届けたのよ」

「じゃあ産業スパイの疑いは消えたわけですね」

美沙はつぶやくように言った。聞き取れなかった静子が「え?」と聞き返したが「いえ」と言葉を濁した。

「携帯電話はお宅からすぐの所で見つかったんですよね?」

「ええ。家から100メートルも離れていないような場所で。でも近くのコンビニとは逆方向で、そっちは駅に向かう道なんだけど。克樹は一体どこに行こうとしていたのかしら?携帯はどうしてそんなところに落ちていたのかしら」

 何度目かの青信号に静子は目を向けた。三人で信号の脇に立っている。会話が一瞬途切れた。それまで口を挟まなかった博明が美沙に向き直った。交差点から一方を指し、

「駅はあちらです。ここからまっすぐ歩いて十分ほどで着くので、迷うことはないと思います。私たちの家はこちらなので。今日はわざわざありがとうございました」

頭を下げると静子もそれに倣った。

「あの……」美沙は二つの通りを見比べると「私を携帯の見つかった場所に連れて行っていただけませんか?」

博明と静子は顔を見合わせた。

「何かが分かるとか、見つかるとか思っているわけではないんですけど。ただ、その場所を見てみたいんです」

博明は言葉を探していたが、美沙の瞳の中に燃えるような何かを見て

「こちらです。ご案内します」と道を示した。

 五、六分ほどで問題の場所に到着した。住宅街の一角に突如現れる廃墟然とした場所。

 美沙は案内された空き地と駐車場の間の路地から、携帯の落ちていた草地、歩道の路石など丹念に見て回った。携帯を取り出しあちこちに向けて写真も撮った。二人は半ばあっけにとられたように、それを遠巻きに見ていた。

 道についている大きく楕円を描く黒いタイヤの跡を写真に収めると、二人の元に歩み寄った。

「この、タイヤのスリップしたみたいな跡、事故のあった痕跡みたいに見えるんですけど、警察ではこの事何も言ってなかったんですか?」

「警察はここには来てくれてないから。事故のようにも見えるけど、急ブレーキをかけたくらいでもこれくらいのものは残るみたいで。事故なら、周りに血痕とか、ぶつかった時に車の塗料の破片とか、もっといろいろな痕跡が残るものらしいの。だから事故の可能性は低いだろうって。何より事故なら本人が何らかの形で見つかっているだろうからって。家に連絡するとか、誰かに助けを求めて、救急車で運ばれるとか。だから、本人だけがいないこの状況は……」

「でも!」

両手を組んで考えていた博明だったが

「客観的事実だけ見ると、事故や事件に巻き込まれたと思うより、自分の意志での失踪という可能性の方が高いようにみえますね」

「そんな!」

異口同音に声を上げた二人を、両手を上げて制すると

「我々は警察の見解に異を唱えられるほどのものを何も持っていないという事ですよ。だが我々はそこに至るまでの過程を知っている。だから警察の判断が間違っていると思う。しかし、それは客観的事実としては根拠が薄い。だから自分たちで見つけなければ警察は動いてくれないでしょう。克樹が事故が事件に巻き込まれたのだという証拠になるものをね」

「自分たちで……」

 美沙は口の中で博明の言葉を繰り返すと、携帯を手に、さっきまでより詳細に写真を撮った。そしてメモを取り出し、何かを書きつけ、また写真を撮る。ひとしきりそれをやって、最後に書き付けたメモを破って博明に渡した。

「私の連絡先です。何かわかったら連絡頂けますか?」

 博明と静子はやや面食らった面持ちで見ていたが、博明はメモを受け取った。

「何かあればすぐ連絡させて頂きます。高木さんも会社の方で何かわかったら、すぐ連絡頂けますか?うちの番号はもうご存じのようですが、携帯の番号もお伝えしておきます」

「はい、ありがとうございます。何かあればすぐに」

 強い意志を持った眼差しだった。博明はそのひたむきさを美しいと思った。その横顔に見惚れているうちに二人は別れの挨拶したようだった。そしてそれぞれ帰途についた。






 準夜勤の理恵子が出勤してきた時、例の身元不明の患者はまだ意識不明のままだった。念のためにと午後からもう一度CTを撮ったが朝と変化なしとの申し送りだった。右側頭部の出血はもう止まっていて、そのままにしておいてもやがて吸収されるので問題ないという診断だった。理恵子は看護師詰め所で看護記録に目を通し、点滴の準備や薬の用意といったいつもの仕事に取りかかった。院内は夕食後という事もあり、ゆるやかな空気が流れていた。

 理恵子は点滴などとパソコンを乗せたカートを押し、ナースステーションを出た。一人づつ病室内の患者を回り、薬を渡したり、点滴を回収したりまた新たに付けたり、バイタルをチェックしてパソコンに打ち込んでいく。一度ナースステーションに戻って、また新しい点滴と薬を準備して……。出勤して一時間ほどが過ぎ、一番最後の身元不明の患者の病室にたどり着いた。そっと引き戸を開ける。彼の病室は個室があてられている。理恵子は慣れた手つきでバイタルをチェックしていった。検温血圧、その後脈をとり、聴診器を胸に当て心音を聞く。それをパソコンに打ち込むとそっと彼の頭を撫でた。「早く目が覚めるといいですね」つぶやく様に言うと姿勢を変えようと、身体の右側を持ち上げ背中に枕を入れた。彼は右大腿部の骨折で足を吊られている。あまり大きく身体を動かすことができない。

 通常ならもうとっくに目覚めてもいい頃なのだが、と言っていた主任の言葉が頭をよぎる。理恵子も出勤してきたら、意識の戻った彼と対面できると思っていた。失踪人の問い合わせもないというし、このまま身元もわからず、昏睡状態が続けばどうなるのだろうと思いながら足元に回り、そっと腰の位置を動かしたときだった。

「うーん」患者が小さく呻いた。理恵子は急いで顔を覗き込んだ。患者は痛みに耐えるように顔をゆがめ、身体を動かそうとした。だが、足は吊られていて左腕も折れて固定されている。彼はさらに顔をゆがめるとゆっくり目を開けた。

 焦点の合っていないその視線を、何度も瞬きして合わせようとする。そして大きく息を吐き出した。

「気分はどうですか?」

意識が回復してきたころを見計らって理恵子は声をかけた。患者は顔をしかめ「身体中が痛い。頭が割れそう」と絞り出すように言った。理恵子は書き込んだバイタルを確認した。熱が少し高い。

「氷枕用意してきますから少し待っていてくださいね。それから、意識が戻られたこと、先生に報告してきます。病状について先生からご説明して頂きますから」

 理恵子は急いでナースステーションに戻ると、医局に内線をかけた。出たのは幸田だった。理恵子は患者の意識が戻ったことを伝えると氷枕を作りに行った。理恵子が氷枕を手に病室に戻ると、幸田が室に入って行く所だった。怪我人はベッドに横ななったままぼんやりして、目は開いているのだが焦点は合っていないようだ。幸田は椅子を引きベッドの手前に腰かけた。理恵子はベッドの奥に回り声をかけた。

「大丈夫ですか?今氷枕しますね。頭失礼します」

頭をそっと持ち上げ氷枕を入れる。

「頭高すぎないですか?大丈夫ですか?」

患者は曖昧に頷いた。幸田は彼の顔を少し覗き込むように前かがみになった。

「外科医師の幸田と言います。ちょっと胸の音聞かせてくださいね。服、捲りますがいいですか?」

理恵子は布団と患者が着ている病院着をまくった。幸田は聴診器を胸に当てた。そして理恵子の取ったバイタルをチェックすると、下瞼を下ろしたり脈を取ったり、一通りの事をした。それをパソコンに打ち込むと聴診器を白衣の左ポケットにしまい、パイプ椅子を引き寄せて座り直した。

「特に異常はなさそうです。あちこち骨折や打撲がありますので、何日かは熱や嘔吐感といった症状が出ると思いますが、それは日にち薬ですので。じきおさまってくると思います。頭も打っているようですが、CT、MRIの検査で問題はありませんでした。左足の骨折はけっこう重症ですので、抗生物質を処方します。痛みが強いなら痛み止めも投与しますが。まあ最低でも一週間ほどは入院が必要かと思いますが、心配はいりません」

 患者はほとんど無反応だった。幸田はちゃんと聞いているのか不安になりながら言葉を続けた。

「さて、そこで、なんですが……」

 言い淀む幸田にやっと反応を見せた。と言っても幸田の顔を見た、という程度であるが。

「実はあなたのご家族にまだ連絡が取れていないんです。あなたご自身は何も所持品がなかったので。ポケットに小銭が少しあっただけで。携帯や財布など身に着けておられなかったんです。あなたのお名前とご連絡先を教えていただけますか?」

「名前……?」

 理解不能な暗号を聞いたように彼は何度かその言葉を繰り返した。だがその顔は徐々に歪んできた。そして目が大きく見開かれた。彼は驚愕と苦悶の表情を浮かべゆっくりと身体を起こした。慌てて理恵子が患者の肩に手を添える。「僕は……」顔を覆うように手を持ってくる。かきむしるようにぐしゃぐしゃと頭をかき回した。

「止めなさい!」

「やめてください」

二人は慌てて両側から手を抑えつけた。彼はその二人を苦悩と不安、不審の入り混じった顔で見上げた。

「僕は……僕は誰だ?」

「ええ!」今度は二人が驚愕する番だった。

「まさか」

「そんな……」

だが幸田はすぐ冷静さを取り戻した。

「落ち着いて下さい。大丈夫ですよ。ちょっと頭を打っておられるんです。ショックで一時的に記憶が混乱したり、曖昧になったりすることはよくあるんです。心配いりません。すぐ思い出せますよ。さあまず怪我を治すことを考えなくちゃ」

幸田は患者の頭のネットを直し、左側頭部に貼られた大きな絆創膏を見た。大丈夫というように小さく頷き

「さあ休んでください」と無理やり横にならせた。

「本宮さん、アシクロビル、2mm静注で。すぐお願いします」

鎮静剤だ。理恵子はそっと、だが急いで詰め所に戻った。詰め所に一人でいた主任の平田が声をかける。

「例の患者さん、意識戻ったんだって?……どうしたの?」

「それが……」理恵子は青い顔で平田を見た。

「すみません、先にこれ、持っていきます」

理恵子の手を見て、「鎮静剤?鎮痛剤じゃないの?」

「いえ、これで。行ってきます」

 幸田のなだめと鎮静剤の効果で患者はもう一度眠った。詰所に戻った幸田が平田に事情を説明した。

「まさか」平田は信じられないという顔をした。

「私も驚きました。まさか自分の名前も思い出せないほど重度の記憶障害とは」

「でもさっき先生がおっしゃっていたように一時的なものなのでは?」

幸田と平田は暗い顔で理恵子を見た。

「記憶障害もいろいろある。最も多いのが事故の衝撃で前後の記憶が飛んでしまうというものだ。これは戻らないものも多い。というのは、記憶にも色々あって日常起こる様々な出来事は脳の一箇所で記憶されているからで、何らかの理由で取り出せなくなることはよくある。脳の状態としては、シナプスの結合が途切れてしまうという事なんだが。

だが、自分の名前や家族、そういった大事な情報は脳のあちこちにバックアップが取られていて、一部分が欠損してその部分の記憶が失われても、別の個所のバックアップで覚えているものなんだ」

「だから自分の名前も思い出せないような記憶障害というのはなかなかないのよ」

「だがなぜだ。CTにはさしたる異常はなかったのに」幸田は額に手を当てた。

「困ったことになりましたね」平田はこめかみを両手で回しながら言った。

「本当に」

「いえ。先生のおっしゃってる意味とは違います」

「え?」幸田は主任の顔を見返した。

「実はさっき、会計課の吉川さんが来られたんです。その患者さんの入院、治療費についてで……事務の方で警察に問い合わせしたみたいなんですけど。失踪などで該当する人物はいないみたいで」

 理恵子は、二人の会話を聞きながら詰所の裏の給湯室で三人分のコーヒーを入れた。それぞれの前に置く。理恵子と平田は砂糖ミルク入り、幸田はブラックだ。幸田は眉根を寄せながら一口コーヒーをすすった。

「一人暮らしの自殺未遂といったところか。だったら身元の分かるものを一切身に着けずというのも納得できるな。しかし……困った」

「まあ唯一の救いは、記憶障害なら自殺を図った理由も忘れているでしょうから、また同じことをする可能性は低いという事でしょうか」

平田の言葉に幸田は苦々しく笑った。

「皮肉、ですね。だが、自殺の理由が記憶障害の原因かもしれません」

「思い出してほしいけど、思い出してほしくない。ジレンマですね」

「あの」理恵子が口を挟んだ。

「自殺とは限らないと思いますけど」

「ああ、もちろん。ただの可能性の話だよ」

 幸田の口ぶりに理恵子はまだ抗議をしたい気にかられたが、口にしたのは別の事だった。

「記憶は戻らないんでしょうか」

平田と幸田は顔を見合わせた。

「正直言ってわからない。今は経過を見守るしかないな。一過性のものであってくれればいいんだが。とりあえず、明日もう一度CTを撮ろう」

 重苦しい空気が流れた。その時ナースコールが鳴った。平田はさっと動きボタンを押した。

「はい、どうされました?」短い会話の後振り返る。

「502号室の寺田さんがトイレに行きたいって」

ナースステーションから半分身体を出していた理恵子は「いってきます」と足早に病室に向かった。


 翌早朝。理恵子は病室を巡回していた。まだ夜は明けていない。東の山の端が黒から藍色に変わったかという時刻。

 理恵子は彼の病室の前に立った。ナースステーションでの幸田と平田の会話を思い出す。暗くなりかけた思考を振り払うように頭を振ると、そっとスライドドアを引いた。

 彼のベッドに近づいた理恵子はぎょっとして持っていた懐中電灯を落としそうになった。横たわった患者の目は焦点が合っていないまま見開かれていた。

「起きてらしたんですか?」

 声をひそめて理恵子は聞いた。その言葉に魂が戻ってきたように理恵子を見る。

「多分眠りすぎたんですよ。眠れないんです。でも、目を開けていてもよく見えないんです」

「え?」理恵子の顔がこわばった。

「目、悪いんですかね?僕、眼鏡とかしてなかったですか?」

「ああ。そういうことですか」理恵子は胸をなでおろした。

「眼鏡は、ここに運び込まれたときはしてらっしゃらなかったですけど」

「そうですか。じゃあ暗いから見えないだけなのかな。それより」

彼はいったん言葉を切って理恵子を見た。だがその視線は焦点が合っていないようだった。

「いったいなぜ、僕はここにいるんでしょうか?事故に遭ったんだろうっていうくらいはわかりますが、どういう状況だったんでしょう?」

「それは……」なんと説明すべきか考える。

「明日、先生から説明があると思います」

彼は横に向けた顔を理恵子に向けた。

「今は教えてもらえないんですね」

「看護師ではなく、医師からの説明でないといけないんです。すみません。もう明け方ですから、あと何時間か待っていただけますか?」

「分かりました」

ため息をつくように呟いた。

「眠ってください。まず身体を治さなきゃ」

「眠れません。こんなに暗くて静かだとかえって眠れないです」

 理恵子は曖昧に頷いて彼の布団をかけ直した。彼は懐中電灯のかすかな光を透かすように理恵子を見た。

「いくら夜だからって、本当に真っ暗じゃないですか。目を開けているのか閉じているのかもわからない。

窓から入ってくる光が全然ないなんて。それに。車の音も全然聞こえてこないし。病院ってこんなものですか?」

 最後は幾分笑いの混じった言い方になった。だがそれとは逆に理恵子の顔は引き締まっていた。

「この辺りはどこでもそうですよ。山に近くて人家もまばらですから。少し山を下りて、街中に行けばもちろん外灯や人家もありますけど。車の音も。でも街中でもこんな時間に車なんてそう走ってないと思いますけど。あなたは夜でも明るい都会で暮らしていたんですか?」

「え?」彼の緊張した表情に理恵子は慌てて

「すみません。無理に思い出そうとしなくて大丈夫です。ダメですね、私。身体を治すのが先だって言っといて私の方が焦っているみたい」

彼は困ったように首を振った。「すみません」

「いえ。こちらこそ、無神経でした。すみません」

彼は低く笑った。「二人で謝ってるなんて変ですね」

理恵子も笑った。点滴を確認する。

「まだ夜明け前ですから。もう少し眠ってください」

静かに部屋を出ると大急ぎでナースステーションに戻った。看護記録を書いていた平田に今の出来事を話す。

「へえ。都会の人ねえ」

「それから、あの人の喋り方なんですけど、この辺の人じゃない感じがするんです。記憶障害になると訛りもなくなりますか?彼の遣っている言葉は標準語というか関東方面の人みたいな気がするんですけど」

「訛りとイントネーションか」平田は肘を付きその上に顔を乗せる。唇の上にボールペンを乗せて変顔をしながら考え込む。理恵子は笑いをこらえられず横を向いた。頓狂なことをしているようだが本人は真剣なのだ。

「じゃあなんでこんな辺鄙なところで着のみ着のままでいたんだろう?」

「それは」彼女には答えがなかった。

「でもまあ情報が増えるのはいい事だよ。本人の意識が清明だっていうのもありがたいことだしね。この調子だと遠からず思い出してくれるかもね」

「だといいんですけど」

「さて、私は少し仮眠をとるから、後お願いね」

「了解です」


 夜が明け、日勤の看護師たちが出勤してきた。引継ぎをして退勤した理恵子はそのまま彼の顔を見ないまま帰ってきた。帰宅した理恵子はアパートで洗濯をした。父とは死別。母は理恵子が大阪の看護学生だった時に再婚した。理恵子は学校の母体である大阪の病院に就職し、そこで四年間務めた。三年前に徳島に帰ってきてからも一人で暮らしている。母の住むマンションからは徒歩で20分くらいの距離だが、正月くらいしか行き来がない。

 洗濯物を干し、部屋を片付けて昼食を食べるころには眠気がさしてきた。昼のバラエティ番組を見ながらの食事の最中にも瞼が下がってくる。夢うつつの中で名前もわからぬ彼の事を考えていた。事件性は乏しく、おそらく自殺だろうという警察の見解。病院の見方も大半がそうだった。だが理恵子にはとても自殺だとは思えない。彼の話し方は彼が近郊の人間ではないことを示唆している。それがどう関係しているかはわからないが、自殺ではなく別の可能性があると思えるのだ。

 電話が鳴り、はっと目が覚めた。食べかけのうどんがすっかり冷たくなり、テレビも番組が変わっている。

「はい。もしもし」幸田からだ。

「おはよう。もう起きた?俺今日も当直なんだ。出勤前に今から少し出かけないか?」

屈託のない調子で言われて逆に理恵子の心は沈んだ。

「ごめんなさい。家のことしてて。今から寝るところで。今日は無理」

とたんに電話口から不機嫌な声が返ってきた。

「なんだよ。最近付き合い悪いじゃないか。別に用事があるんじゃないんだろ?」

 お互いの時間の合わない事が多い病院勤務だ。歩み寄らなければ時間など作れない。だが合わせるのはいつも理恵子なのだ。以前はその強引さも嬉しかった。大阪から戻ってまだ間がなく一人でいることが多かった頃、外に連れ出してくれる幸田はヒーローのようだった。だが病院での責任も増え、友達もできた今では負担に思うようになってきた。

「わかった。何時にどこ?」

 理恵子は冷たくなって固まったうどんを大急ぎでたいらげ、出かける支度をした。今日も夜勤だ。そのまま仕事に行くために着替えも鞄に詰めた。


 夜、理恵子は出勤時間よりかなり早く病院についた。更衣室で一時間でも眠ることも考えたが結局そのまま着替えて出勤した。名無しの彼の事が気になったのだ。

「おはようございます」

 ナースステーションに入ると看護記録を打ち込んでいた後輩の村上が驚いて顔を上げた。

「本宮さん!どうしたんですか?こんなに早く」

「例の名無しさんが気になっちゃって」

「相変わらず仕事熱心ですねえ。あの人なら今日は何もなかったです。身体は順調に回復してきてます。今日一日色々脳の検査をしたみたいですけど、異常は認められなかったって。でも……」

「記憶障害は変わらず?」

「ええ。もう少し回復したら脳外科のある市内の病院に転院してもらおうって話になったみたいです。それと、名前がないと呼びにくいんで、山田太郎さんって仮の名前つけたって……」

言いながら村上は首をすくめた。

「山田太郎って……」理恵子が苦笑すると

「ねえ!センスないにも程がありますよねぇ」村上も笑った。

「師長は変に現実的な名前じゃない方がいいからって。あえてそういう名前にしたんですって。にしてもねえ」

「ご本人は了承されてるの?」

「ええ。でも、その名前が違うことだけは確実だと思いますって」

 二人は一緒に笑った。意識が回復したばかりの時のパニック状態の印象が強かったが、思っていたよりも冷静なようで少し安心した。仕事の前に様子を見に行こうかと思っていたが、それは後にして仕事にかかる。

 病院では常に仕事は山積で、人手は足りていない。目の前の作業に没頭しているうちに時間はあっという間に過ぎていく。気になりながらも理恵子が山田氏の病室に行けたのは消灯時のラウンドの時だった。彼はまだ個室に入っている。スライドドアを開けて入ると、彼は半分起こしたベッドに横たわり部屋の奥の窓の方に顔を向けていた。右足はまだ吊られている。

「こんばんは」

 声をかけると顔をこちらに向けた。微かな笑みを浮かべ頭を下げる。理恵子はベッドの脇までワゴンを押してストッパーを引いた。

「具合はどうですか?」

「体は大分いいです。痛みもましになってきました。足はまだ痛いですけど」

「開放骨折でしたからね。バイタル取らせてくださいね。腕、服捲らせてくださいね」

理恵子は手早く体温、血圧などをチェックしてパソコンに打ち込んでいく。

「何をご覧になっていたんですか?」

彼は首をかしげた。

「窓から何を見ていたんですか?何か面白いものでもありました?」

彼は首を横に振った。その時かすかに顔を歪めた。それを見止めた理恵子は

「ベッド倒しますね。体の向き変えますね」

 彼は人形のようにされるままに体の向きを変えた。その無反応さに不安になった理恵子は彼の顔を覗き込んだ。

「大丈夫ですか?どこか痛むところはありますか?頭は痛みますか?」

彼はフフと笑った。

「何かおかしいこと言いました?」

「いや。すみません。質問多いなあと思って。どれから答えればいいのかわからない」

「そうですね。ごめんなさい」

 記憶障害の患者への質問は負担になるから、気持ちがゆったりするように過ごしてもらうようにと言っていた師長の言葉を思い出した。ダメだな。何をこんなに焦っているのだろう。

「冗談ですよ。そんなに真剣に謝らないでください。どこか痛いところって、身体中痛いんでどこがって言われてもって思っただけです。あ、でも頭は痛くないです。普通で言う大丈夫とは違うと思うんですけど、とりあえず大丈夫です。えーと。後なんでしたっけ?外の何を見ていたか、でしたっけ?別に何かを見ていたわけじゃないです。ぼんやりしていただけで……ただ」

「ただ?」

「まったく見覚えのない場所だなあって。まあどこの景色を見てもそう思うのかもしれないですけど」

やや自嘲気味に笑った。

「そんな」窓の外を見やる。だが山側に面したこの窓からは外灯もなく、影がそびえるような山の姿とその向こうに幾つか星が浮かぶ空があるだけだった。

「カーテン閉めますね」

奥に回りカーテンを閉めると、見るものがなくなったのか山田氏は虚ろな目を彷徨わせた。

「山田さん」

声をかけると彼は理恵子を見て笑った。

「なんだかなあ。暫定的な名前ならもうちょっとカッコいいのがいいな」

「例えば?トム・クルーズとか、豊臣秀吉とか?」

理恵子も笑いながら言った。

「うわ!それは……自分がそう呼ばれるのはめちゃくちゃ恥ずかしい!やっぱり山田太郎でいいです。でもそれだけは違うと思います」

二人で声を上げて笑った。おかげでかなり場の空気がほぐれた。

「何かあったらすぐ声かけてくださいね。ナースコールここに置いておきます。また後で体位変換にきますので。今はゆっくり休んでください」

 布団をかけ直し点滴を確認すると彼は「おやすみなさい」と目を閉じた。理恵子は明かりを消して部屋を出ようとドアを開けた。「看護師さん」理恵子は振り返ると「はい」とまたベッドに近寄り枕元の照明をつけた。

「名前、教えてもらっていいですか?」

しまった。患者に対する時はいつも最初に名乗るのに。意識のない状態からずっと見てきていたから名前を言うのを忘れていた。

「ひょっとして、山田花子さん?」

「違います!」

大きな声を出してしまった。山田氏はおかしそうに笑いながら口に人差し指を当てた。理恵子も笑いながら口元を押さえる。

「大きな声を出してすみません。私は看護師の本宮理恵子と言います」首から下げたネックストラップを山田氏に見せながらゆっくりと言った。山田氏は口の中で何度か理恵子の名前を繰り返した。

「本宮理恵子さん。わかりました。呼び止めてすみません」

「いえ。じゃあ休んでください」

後ろ髪惹かれる思いを胸に、理恵子は扉を閉めた。



















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