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Sforzando

「SF」の二文字を見たとき、無意識に「スフォルツァンド」と読むようになってしまった俺は、もう末期だと思う。


 楽譜上でsfと表記される『その音を特に強く』という意味の音楽記号。


 頭の上に、今練習している曲の楽譜が浮かぶ。同時に、鬼顧問のしかめ面も。


 重い息が、口から洩れた。


「桐野君、ため息つくと幸せ逃げるわよ。ほら、手を動かす」


「すいません」


 司書の立川さんが、動きを鈍らせた俺を目ざとく見つけて、カウンターの向こうから声をかけてきた。


 それに首をすくめて、手に持っていたSF関連の本を棚に押し込む。


 図書室の空気は好きだ。せわしなく生徒が行きかう昼休みの教室とはかけ離れた、緩慢で穏やかな空気が流れている。


 この独特の空気は、人の心を穏やかな気分にさせる。荒々しい感情も、叫びだしたくなるような衝動も、こことは無縁だ。


 なんとなく特別な場所のような、侵してはならない聖域のような、そんな場所。


 ならば立川さんは、さながら聖域を守る女神ということになるのだろうか。


「書架整理、終わりましたよ」


「あら、ご苦労様」


 カウンターの席に座る立川さんに声をかければ、彼女は優雅に紅茶を飲みながら本を読んでいた。


「ここって、飲食厳禁じゃあ…」


「いいのよ、私の城だもの」


 なんとも横暴な女神様だ。


「なんだか桐野君、疲れた顔してるわね」


「…え。ああ、まあそろそろコンクールですからね」


 心配そうに見つめる彼女から目をそらして、視線を窓の外に向けた。見下ろした花壇では、すっかり色の褪せた紫陽花が葉を茂らせていた。


『梅雨はあと2,3日で明けるでしょう』


 出がけに見た天気予報の、ろくに天気図も読めなそうなお天気お姉さんのセリフを思い出す。


 その言葉が本当なら、カーテンを翻すこのうっとうしいじめじめした風との付き合いもあと少し。


 この風がどこか遠くへ去れば、じきに本格的な夏がやってくる。


 夏、なんていい思い出はあまりないけれど。少なくとも梅雨よりはましだ。楽器の状態にいちいち目くじらを立てる必要がなくなる。


「そっか、桐野君吹奏楽部だったね。今年はどう?順調?」


「どうでしょう。毎日怒鳴られっぱなしです」


 力なく微笑めば、立川さんは同情してくれたのかクッキーを一枚俺の手に握らせた。


「お疲れ様」


「…ありがとうございます」


 図書室の女神様は、気まぐれに優しい。


「で、今やってる曲はなんて曲?」


「オペラ『サロメ』の“七つのヴェールの踊り”って曲です」


 女神の眉間にわずかに皺がよる。


「サロメ…?そんな題名のオペラあったかしら」


「知らなくても無理はないですよ。上演にかなり物議を醸す作品ですから」


 立川さんの隣、カウンターの空いた席に腰かけた。静寂を旨とすべき図書室で、図書委員と司書が話し込むなんていかがなものかと思うだが。まあいいだろう、今は誰もいないようだし。


「もとはオスカー・ワイルドの戯曲です。サロメとは王女の名のことで、その美しさから義父のヘロデ王に好意の視線を向けられています。いたたまれなくなったサロメはあるパーティの日に会場を抜け出し、井戸に閉じ込められている預言者の声を聞くんです」


 俺は4月初めに見た「サロメ」のビデオを思い浮かべる。


 預言者はサロメに目もくれない。どころか、檻から解き放ち、口づけを求めるサロメを振り払って自分から檻に戻ってしまう。


「そんな折、王はサロメに踊りを踊ることを命じます。サロメは嫌がりますが『望みの物をやる』という王の言葉に踊りを踊ることを決意します」


「それで踊るのが『七つのヴェールの踊り』なのね」


 いつの間にか、立川さんの紅茶は空になっていた。窓からは相変わらず湿っぽい風が舞い込み続けている。


「ええ。裸体に薄い七枚のヴェールを纏って踊るから『七つのヴェールの踊り』。一枚一枚ヴェールを脱ぎ捨てて、最後には一糸まとわぬ姿になるそうです。そのせいで今でも物議を醸す問題作になってるんですよ」


 俺たちが見た「サロメ」では演出がうまく、演者が裸体をさらさないように工夫されていたが。それだってあの姿はあでやかで、艶めかしくて。正直見とれた。


「踊り終わったサロメが要求したのは、なんだったのかしら」


「首、ですよ」


「首?」


 図書室の女神は、そっと自らの首をさする。まるで目に見えない何かから自分を守るように。


「預言者の首です。王はおぞましいと断りますが、サロメは頑として譲らず、ついに王が折れてしまいます。銀皿に切られたばかりの預言者の首を載せて運ばれると、サロメは嬉しそうにその唇に口づけます」


 切られた首から滴る血をそのままに、愛しそうに唇を寄せるサロメ。おぞましいと同時に背徳的で、目が離せなくなる。


「狂女になったサロメを恐れたヘロデ王が、兵士にサロメを殺すように命じるところでこの舞台の幕は降ります」


「…一人の男を手に入れるためにそこまでするなんて。ああ、でも気持ちだけはわかるかもしれないわね」


 立川さんは遠くをみるように目を細めてつぶやいた。普段は穏やかな図書室の女神も、激しい恋をしたことがあったのかもしれない。今度それとなく聞いてみよう。


「でも、高校生がやるには少々荷が重いテーマじゃないかしら」


「そう、ですよね。曲自体は割と好きで、やりがいもあるんですがソロがちょっと…」


 いいかけたところを予鈴にさえぎられた。途端に立川さんははっとして立ち上がる。


「大変。桐野君授業に行かないと。遅れたら怒られるわよ、次はあの怖ーい半田先生の授業でしょう?」


「そうでした。クッキーごちそうさまです」


 図書室の女神は何でもお見通しだ。


 慌てて立ち上がり、廊下に出ると喧騒が一瞬にして戻ってくる。


 静かな図書館に若干の未練を残しつつ、俺は午後の授業へと急いだのだった。




「桃矢、おそい。早くしないとミーティング始まるよ」


「今日合奏らしいよ。災難だね、桐野のソロからだってさ」


 放課後。楽器を準備するために楽器庫へ向かうと、女子たちの厳しい言葉が待っていた。相変わらず、女子というものは容赦がない。束になられるとなおさらたちが悪い。


「わかったよ。急いで準備する」


「それから、今日幹部会だから」


 忘れてないと思うけど。


 背後からかけられた声にぎくりとする。後ろに立っていたのは、吹奏楽部のカリスマ部長、藍原百合花。


「や、やだなぁユリカサマ。幹部会なんて大事なものワスレルワケナイジャナイデスカ」


「ふーん。この前の幹部会すっぽかした副部長は誰だったかしら」


「まだ根に持ってます?そのこと」


「さぁね。私そんなに執念深いつもりじゃないんだけど」


 軽い口調とは裏腹に、藍原は吸い込まれそうな黒い瞳に険を含ませて俺をにらむ。


 どうやら美しくもおっかないこの部長サマは、この前俺が幹部会を忘れて帰ってしまったことを根に持っているらしい。


「き、今日は必ず行きますから」


「当たり前」


 藍原は言い捨てるとさっさと楽器庫を出て行ってしまった。


「きぃりぃのー!今日はあんたのソロからなんだから早く準備しなさいよ!」


「わぁかった、わかった。今行くから!」


 ほっとしたのもつかの間。今度は別な女子から怒鳴られた。


 もう何年も音楽の世界に身を置いているが、どこへ行っても女子の男子への扱いは変わらない。


 高いところにあるもの、重い楽器などを運ぶのはいつだって男子の役目。面倒くさい雑用も、係の仕事も、自分の分担じゃなかったとしても問答無用で手伝わされる。


 頼るだけ頼っておいて、あとは空気か何かのように扱われてはたまったものではない。


 一度、彼女たちが男子部員もいる部屋の中で着替え始めた時は心底驚いた。


 全裸にはならないし、タンクトップやキャミソールを着ているから気にはならない。というのが女子部員の言い分であったが、男子の側としてはそういう問題ではない。


 いろいろもめた挙句、俺が滅多に使わない副部長権限を行使して禁止した。


 その時のことを思い出すと今でもどっと疲れが襲ってくる。束になって歯向かってくる女子たちを説得するのが、どんなに大変だったことか。


 部長の藍原が話の通じる人で本当に良かった。


 …ただそのせいで、彼女には今でも頭が上がらないが。


 今日の幹部会もどうなることやら。


 愛用の楽器と楽譜を手に音楽室の扉を押し開ける。自分の口から無意識にため息が漏れていることなど、俺は気づきもなかった。




「…では、連絡は以上。10分後から合奏を始めます」


「「お願いします!」」


 部活前のミーティングを終えると、音楽室はにわかに活気づく。合奏前の過ごし方には個性が出る。


 ウォーミングアップを兼ねてひたすら音階練習をする者。音を念入りに合わせなおす者。自分の自信のない個所を練習する者。


 俺も何かせねばと楽器を持ち直す。今日は俺のソロかららしいから、音程を合わせなおしたほうがよいだろう。


 俺の担当楽器がフルートだと聞くと、大抵の男友達は笑う。曰く、似合わない。


 確かに、銀色で細身の華奢な横笛は、男が吹くような外見をした楽器ではない。銀色に光る、横笛。無骨な男子高校生よりも、深窓の令嬢あたりが窓辺で吹いていた方が様になる外見ではある。


 しかしそんな外見とは裏腹に、この楽器は尋常じゃないほどの肺活量を必要とする。


 それゆえ、肺活量の多い男性奏者は重宝がられる。現に俺もその理由でソロという大役を押し付けられた。


『私が吹くよりもホールで響くから』


 その言葉を口にした張本人である3年の先輩は、俺の隣で真剣に楽器の調子をみている。


 彼女にとっては、最後の晴れ舞台だ。

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