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女王陛下と眠り猫

 ステラは押し殺した息を、ゆっくりと吐き出した。


 部屋は完全な暗闇だ。


 だが、足は淀みなく動く。間取りは頭に叩き込んである。ソファや棚を避けて、目的の場所までたどり着くのは造作もないことだった。


 ふと感じた風に、顔をしかめる。どうやらどこかの小窓が、開けっ放しになっているらしい。




 ――そんなことだから。




 猫が遊びに来てしまう。


 思いながら、手を伸ばす。手袋の布越しに感じたのは、金属の冷たさ。


 金庫だ。


 口が三日月形に広がる。


 触れた瞬間、彼女の脳裏には叩き込んでおいた金庫のイメージが想起されていた。色は白、重さはおよそ八百キロ。冷蔵庫のような、巨大な鉄の塊だ。


 レバー・タンブラー式。無理矢理に錠を破壊すると、内部で糸が切れて金庫をロックする仕組みだった。


 表面をなぞると、国章を彫ったラベルがある。重要な施設にのみ配される、特製の耐火金庫だった。


 さらに指を滑らせる。ダイヤルは、ぴったりと彼女の手に収まるサイズだった。


 どんな重厚な仕組みも、内通者が鍵を明かせば意味がない。


 きりきり、きりきりとダイヤルが回っていく。彼女の手つきに屈するように、重たいドアが開いた。


 彼女は周囲に耳を澄ます。万が一の可能性として、警備の人間が起き出す可能性がある。異常がないことを確認すると、ようやくステラは呟いた。




「トーチ」




 ぽうっと、灯りが生まれる。弱弱しい灯りは、辛うじて金庫の中だけを照らしていた。これ以上の光量だと、窓から外に漏れてしまう。


 金庫の中には、木製の引き出しが入っていた。


 ステラは一つ一つの引き出しを、慎重に確認する。


 現金。手形。日報に、重要書類に押す印鑑。


 目的はそれではない。


 彼女は金庫の中を選り分け、一冊の本を暴き出す。『外交綱領』。教本の類だ。本自体は不自然ではない。どこにでもある本を、わざわざ金庫に入れることこそ不自然だった。




 ――情報通り。




 彼女が注目したのは、本の背表紙だ。微かに糊付けが甘く、めくれあがっている。慎重な手つきで背表紙を剥がすと、二つに折りたたまれた紙が顔を出した。




「よし」




 小さく声を出す。ステラは紙を凝視した。全て暗記した後に、紙と本は完全な形で元に戻す。後は金庫を閉じれば、何の痕跡も残らないというわけだった。


 そうして安堵したのも、束の間のことだ。




「誰かいるのか?」




 部屋の入り口から、声がした。鈴が鳴り、扉が開く。


 ステラはすばやく口を動かした。




「にゃおん」




 入り口からの懐中電灯。光の輪に照らされたのは、一匹の猫だった。




「……猫?」




 守衛らしき男は、奇妙な顔をする。奥の小さな窓が開いているのを見つけて、不機嫌そうに鼻を鳴らした。


 大使め、また閉め忘れか。




「にー?」




 猫は愛くるしい鳴き声をあげると、扉をすり抜けて、廊下へ出た。そうして、別の窓から夜の町へ逃げ去った。


 屋敷の前には、一台の車が待っていた。百万台を売り上げたベストセラー車は、溶け込むという意味ではうってつけだった。




「遅かったね」




 猫が車内に滑り込むと、運転手がそう声をかけた。


 年齢不詳。無精ひげと、下がった目じりが気だるげな雰囲気である。


 エンジンがかかる。方向指示器が出されて、車が発進する。車はまばらな交通量の中を、緩やかに現場から離れていった。




「あったの?」


「あった」




 後部座席には、いつの間にか女性が座っていた。フードで顔を隠している。口元を布が覆う。目元にかかる茶髪が、さらに印象をあいまいにしていた。




「コード表だった。新しいやつ。後で転写して、おじいさんに渡すよ」




 ステラは流れる夜景を見つめた。産業の灯りが、今日も港まで続いていた。




「また暗号が変わったのか」




 運転手が呟く。


 コード表とは、いわば暗号通信のための辞書を指す。例えば、『奇襲』、『軍艦』といった単語を、暗号上はまったく別の単語や数列に置き換えておく。コード表を見れば、どの文字が何を意味するか判明するため、コード表を暴かれた暗号は意味をなさなくなる。




「最近はずいぶんと頻繁だね」


「それだけ、警戒されてる」


「ふぅん。何か大きな動きがあるのかな?」




 頻繁に暗号が変わることは、警戒心の表れといえる。


 ステラは興味がなさそうにしていた。




「あと、お代は」


「謝礼はいつもの方法で」




 ぎろ、と冷たい視線が運転席に突き刺さる。


 げんなりと、運転手はハンドルにもたれた。




「抜かないよ……。その辺まで送ろうか?」


「要らない」




 ステラは覆面を外した。すると、童顔と言っていい――というよりも、少女そのものの顔が露わになった。ツンと鼻が高い、少し生意気そうな顔立ちだ。




「明日は期末テストに行かないと」




 ここでいい、とステラは短く告げた。運転手が車を止めると、猫の鳴き声がした。猫はするりと後部座席から降りると、裏路地へ消えていく。




「魔女が、スパイかぁ……」




 揺れる尻尾を見送り、運転手は車を発進させた。






     ◆






 この世界では、魔法は遅かった。


 爆発魔法は火薬より発見が遅く、電撃魔法は電気それ自体の発見よりも遅かった。


 近代になり、産業革命の時代になると、魔法の斜陽は決定的になっていた。


 電話線が引かれ、汽車や自動車が走り、紡績機械が膨大な職工の仕事を代行する。


 こんな時代に魔法の力でやれることは、もっと安く、もっと大量に、機械がやってくれるから。


 だが――少し事情が違う職業もある。




「ステラ、またやったね」




 ステラがもう一度呼び出されたのは、領事館に潜入してから三日後のことだった。


 彼女の上役は、『おじいさん』と呼ばれていた。やせ形で、背筋はぴんと伸びている。軍に属しているはずだったが、ステラの前に軍服で現れることはない。


 ステラが呼び出された建物自体、『王国歴史同好会』という看板が立っていた。本物の図書室まで備え、おじいさんは偽装に手を抜かない。




「あの時拾った子供が、まさかこんな優秀な部下になるなんて思わなかったよ」




 ステラは茶髪を後ろで編み上げていた。飾り気のないパンツスタイルで、化粧も薄い。いかにもちょっとした買い物か、あまり人前に出ないアルバイトにやってきた娘だった。




「ひとつ」


「何だい?」


「部下じゃない」




 諜報員は協力者を使う。ステラは『おじいさん』の組織に属しているわけではない。おじいさんが、ステラと直接に協力関係を結んでいた。


 何か面倒な仕事があると、おじいさんはステラを呼んで、こき使う。


 そうでない時は、ステラはごく普通の娘として暮らしている。寮のある高校に通い、部活動をこなし、進学に備えて勉強する。


 便利なパートタイマーというわけだった。


 普段は潜伏していて、特別な時だけ活動する。そういう立場の人間は、スリーパー(眠る者)ともいうらしい。




「用は何?」


「まぁ、そう話を急かさないで」




 ステラは舌打ちをこらえた。でも思い直して、やっぱり舌打ちした。




「また面倒な話が始まる」


「君はすぐに表情に出る」




 おじいさんは笑った。




「それではこの仕事は務まらないよ」


「私の進路を勝手に決めないでほしい」




 ステラは心底嫌そうな顔をした。




「そう言うな。たんと君には金を出している。君は十七歳にしては非常に金持ちだ」




 おじいさんは一しきり笑った。その後、目を細めた。




「いい仕事がある」


「何をする仕事」


「護衛だ。君向けだ」




 ステラは、今度は顔をしかめなかった。おじいさんは続けた。




「君の魔法で、要人を護衛してもらいたい」


「私の魔法は」




 ステラは言いよどんだ。




「戦い向きじゃないよ」


「知ってる。なんといっても、銃も爆弾もある今、戦いに向いている魔法使いなんて見たことがないよ」




 おじいさんはまた笑った。




「君は姿を隠して、さる要人を護衛する」


「その人は?」




 ステラが尋ねると、おじいさんは沈黙で応えた。ステラは察する。対象の情報は、さらに踏み込んだものになる。つまり、知ったらもう断れないということ。


 おじいさんは無言で、ステラに小切手を差し出した。目を見開いて、何度も金額を確認した。




「うちの機密費と、その要人からのささやかなチップだ」


「チップ? 桁が違くない?」


「そういうお方なのだ。さて、これで万年金欠の君の興味は、十分に惹かれたことと思う」




 ステラはしぶしぶ覚悟を決めた。




「……女王陛下だ」




 おじいさんは応じた。


 ステラは驚く。言わずもがな、この国のトップだ。




「じょお……?」


「御年は、もう七二になられる。ご所望は、『見えない』護衛。陛下が護衛されていると、周囲に気づかれない護衛とのことだ」




 ステラは首を傾げた。




「護衛に見えない、護衛?」


「特別なお考えがある。そして、大の猫好きでいらっしゃる。君の魔法は、陛下のさまざまな期待にきっと応えてくれるだろう」




 ステラは展開を悟った。後悔がじんわりと這い上がってきた。




「まさか」


「期限は一月。学校も夏休みに入る。ここによく来る君が、長い手伝いに駆り出されたとしても、不思議なことではない」




 おじいさんは言った。




「……作戦名は、そうだな」




 首輪を寄越される。どうやら本気らしい。夏休みを猫で過ごせと、本気で言っている。


 ステラは、魔法で猫に姿を変えることができた。姿を変える魔法は、非常に珍しい。


 発動条件は、鳴きまね。


 本人の技能と合わされば、便利で、強力、そして少し恥ずかしい魔法だった。




「『眠り猫』としよう」

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