美しい人はみんな死んでる
全ての始まりは、あの静かな冬の夜だった。
金を受け取らなければ、私の運命は変わっていたかもしれない。
あるいはタクシーの運転手の忠告を聞いていれば、あの家の奥深くに息をひそめてわだかまる、艶やかな闇に魅入られることもなかったかもしれない。
しかしもう、何もかもが、遅いのだ。
それに今だって、私はべつに不幸なわけではない。
美しい彼女たちと一緒に、この暗く静かな家で、争いも終わりもなく、永遠に暮らせるのだから。
「回数はどうしますか?」
「できれば毎日、土日も含めてお願いします」
香奈子さんが平然と言うものだから、私は思わず了承しそうになり、そしてまじまじと彼女を見返した。
「毎日ですか?」
「やはり、お忙しいですか」
確かに実習や、日々課されるレポートの量は他の学部に比べて段違いに多い。しかし、五限目終了後の二・三時間であれば、小学生に勉強を教えるぐらいの余裕はある。それよりも気にかかったのは、私に対して支払われるアルバイト料のことだった。一日あたり一万八千円なら、一ヶ月の収入は五十万円を超える計算になる。いかに難関の司法試験を突破した経験があるといっても、まだ二十そこらの大学生に、それは過大評価に違いと思った。
「いえ、仕事を増やしてもらえるのは大変ありがたいのですが――学生の身分でそこまでのお給料を頂くわけには」
「あらご謙遜を」
香奈子さんは微笑む口元を綺麗な手のひらで隠した。。
「啓介さん、あなた、在学中に司法試験に合格されたんでしょう? そんな方に一対一で勉強を教えて頂けるのですから、決して高い額とは思いませんわ」
香奈子さんは気軽に言うが、大卒で名の知れた企業に入り、十数年勤続してようやく額面で到達しようかという月収が五十万円だ。そんな金額に見合うだけの働きを、明日から自分が出来るとは到底思えなかった。
しかし、提示された条件は非常に魅力的だった。たかが大学生のアルバイトとしては破格の待遇に、何か裏があるのではと訝る気持ちもあったが、今はどうしてもまとまった金が要る。結局、私は四谷家の長女の家庭教師を引き受けた。
「ご期待に応えられるよう、出来る限りのことはします」
私の承諾の言葉を聞くと、香奈子さんは目尻を弓形にして小さく笑った。もともとの顔の造作が整っている人だから、笑顔も可憐でないはずがない。しかし私は、彼女の朗らかな表情の中に一瞬、金になびいた若者を揶揄するような色を見た気がした。
帰り際、私は明日から教えることになる勉強の内容を確認した。中学受験の対策だったら、こちらにもそれなりの準備が要るからだ。
「小学校五年生で教わる、ごく標準的な内容をお願いします」
「すると、学校の授業の復習を中心にやっていくということでいいですか?」
「いえ、うちの子は学校に行っていませんから」
何と言うべきか、私は迷った。
一般論として、あまりよその家の事情に首を突っ込むべきではない。しかし、これから家庭教師として毎日ここに通うことになる以上、最低限の事情は知っておくべきだろう。
「もしかして、重い病気でも?」
彼女は首を横に振る。
「あの子が、学校に行きたくないと言うものですから」
香奈子さんはすでに私の顧客である。愛想よく「なるほど」と相槌を打ったものの、内心では驚いていた。
教室というのは特殊な空間である。そこに馴染めない子供は、実際そう珍しいものではないだろう。しかし、普通は親が叱りつけるなり諭すなりして、多少無理やりにでも登校させるものだ。もちろん、すでに香奈子さんは娘を学校に行かせるためにあらゆる手を尽くしており、それでも駄目だったから仕方なく、せめて勉強で置いて行かれないようにと家庭教師を雇ったのかもしれない。それならば事情は呑み込める。しかし香奈子さんの口ぶりだと、そうではないように思えた。
「学校はどのくらいの期間、休んでいるんですか?」
「さぁ、どうでしょう」彼女は首をかしげた。「私がこの家に来た時にはもう、学校には全く行っていない様子でしたから」
先ほど香奈子さんは、今から三年前にこの家の主人である四谷秋人と再婚したと言っていた。すると娘さんは、小学校低学年の時から卒業間近の現在に至るまで不登校を続けていることになる。
そんなことを考えていると、長い廊下がようやく途切れて靴脱ぎ場が見えた。大げさかもしれないが、ここまでずいぶんと歩いた気がする。
「では、明日の夕方五時ごろに伺います」
スニーカーを履いて立ち上がると、香奈子さんも靴棚から草履を取り出した。
「外までお見送りしますわ」
玄関から外に出ると、肌を刺すようなしんとした冷気に包まれた。ダウンジャケットを着ている私でさえ寒いのだから、小紋に薄手のショールを羽織っただけの加奈子さんは堪らないだろう。しかし、彼女の顔色は涼しげだった。和装で外出をすることに慣れているのかもしれない。
すでに日は暮れており、昼間色彩豊かだった庭園は薄墨を流したような淡い闇の中にある。私はちらりと腕時計に視線を落とした。冬の五時前というのはこんなに暗いものだったかと、少し妙な感じがした。周囲を鬱蒼とした山林に囲まれていて、ビルの明かりや飲食店の電光表示が一つも無いから、そう感じるのかもしれない。あるいは、私の目が祇園の煌びやかな夜に慣れすぎたのか。
門の外に出ると、闇はいっそう厚みを増した。道の反対側で待つタクシーの赤いブレーキランプが、暗い冬の底に滲んでいる。
見送りの礼を述べて後部座席に乗り込もうとした時、「先生、これはほんのお気持ちです」と茶封筒を差し出された。
「これからよろしくお願いしますね」
「や、これはどうも」
気軽に受け取ってしまったあと、ぎょっとした。その厚みは、家庭教師に渡す心付けとして常識的な範疇では無いと思ったからだ。
「奥さん、これは」
いただけませんと言う前に、彼女の細く綺麗な指が私の両手を包み込むように茶封筒を握らせた。その指があまりに冷たくて、私はひどく驚いた。
「契約金、のようなものです」
「しかし」
別に後ろめたいことがあるわけではない。しかし私は、厚い茶封筒を受け取ることを一瞬ためらった。
加奈子さんはふっと微笑む。
「お若いのに、遠慮するものではありませんわ。先生は痩せていますから、何かおいしいものでも食べてくださいな」
そう言われたら、固辞するのは逆に失礼に思えてくる。茶封筒を受け取ってバッグに仕舞い込むと、加奈子さんは満足そうに頷いた。
タクシーに乗り込み、初老の運転手に「一乗寺まで」と行き先を告げる。黒塗りのクラウンはゆっくりと動き出した。加奈子さんが深く頭を下げたのを見て、私はあわてて彼女にならう。本当に丁寧な人だと思った。
「お兄さん」
四谷家の庭先から数メートル車を出したところで、タクシーの運転手に話しかけられた。
私は「はい」と前を向く。
「悪いことは言わんよ。この家とは、あまり関わん方がいい」
なぜです? と私は返す。
運転手は、すぐには答えなかった。無視しているというより、説得の言葉を探しているようだった。
「うしろ」
「は?」
「うしろに、あの家が見えるでしょう?」
私は窓から顔を出し、徐々に遠ざかっていく四谷家を視界に入れた。しかし何度見ても、巨大な邸宅である。今日一度訪れたぐらいでは、邸内に部屋がいくつあるのかさえ全く把握できなかった。
「家族三人と使用人が住んでいるっていうのに……なんで明かりもつけないんですかねぇ?」
言われて、はっとする。
遠ざかっていく四谷家は、なぜか窓越しに漏れる明かりの一つもなく、影絵の中に佇む巨大な城のように見えた。
その闇に塗り固められた邸宅の庭先で、加奈子さんは今も頭を下げている。冬の暗い黄昏の中、彼女の白い肩がひどく艶めかしく浮かんでいた。
そして加奈子さんはゆっくり顔をあげると、まるで私が振り返っていることが分かり切っていたかのように、こちらに向かって小さく微笑みかけた。




