雨の降る町
本を読み終えた俺の耳に入ってきたのは、ちょうどバスが止まる音だった。
窓の外を見てみるが、どうやら信号で止まっただけで目的地に着いたわけではないらしい。
バスの一席で精一杯伸びをする。色あせた座席は、ギシリと軋みを上げた。
周囲を見回してみれば、乗ったときには半分ほど埋まっていた客席も、いつの間にか俺ひとりしか座っていない。バスの中の大きな電光掲示板が空しく切り替わる。
寂しいものだ、なんて思いつつも当然かと納得する。かつてはともかく、今はもうあんなへんぴなところに来るなんてよっぽどの物好きしかいないだろう。一部界隈の間ではオカルトチックな噂も流れているようだし。かくいう出身者でさえ、何故そこへ行くのかと問われれば『帰省』以外の言葉は思いつかない。
「ふわぁ……」
暇を潰すものが一つ消え、さて次はどうしたものかと空き時間をもてあましていると、バスの心地良い揺れのせいか眠気が襲ってくる。
別にここで寝てもあらかじめ目的地は登録してあるから、寝過ごすことはない。
ただ、どうせ寝るなら実家についてからぐっすり眠りたい。
「……んぁ?」
うつらうつら眠気と戦っていると、不意に腕時計型デバイスが振動する。
手を当てれば、かけていたメガネに仮想ディスプレイが表示される。
通販サービスから荷物が出たという通知だった。
あぁ、そういえば頼んでたな。すっかり忘れていた。
どうせ帰省するならと頼んでおいたサプライズプレゼントの到着予定は明日の十三時らしい。その時は何としても家にいないと。
せっかく自分がしかけたサプライズ、仕掛け人としては一番近くで反応を見たい。
驚いてくれるかな、喜んでくれるかな、それとも呆れられるかな。
ほくそ笑んでいると、ふたたびバスが停まる気配がした。視線を上げれば、窓から見えるのは古くさい丸標識には『龍宮町』の文字。
出る準備は一切していなかった。
慌てて荷物をまとめて席を立つ。
「おっとと」
慌てていたせいで、ボストンバックが前の座席にぶつかってしまう。
何かが落ちたその音に、俺が気づくことはなかった。
↓↓↓
折りたたみ傘を射しながらバスを出る。
降りた桟橋はもう随分古くなっているのか、ギシリと大きな音を立てる。
もう古い桟橋は至るところが水没しており、下ろした足の先はぴしゃりと水を踏む。少し勢いよく降りすぎたのか、ズボンがちょっと濡れてしまった。
それさえも俺には懐かしい。
初めて外の世界に触れたのは小学校に上がる前のこと。通学用カバンを買うために町を出たときの感動は今でも忘れない。
感慨にふける俺を尻目にバスが発信していく。最初はゆっくりスピードをかけずに、タイヤが水を弾かないように。
あれ、結構難しいんだよな。
仕事の都合で免許を取りに行ったとき、何度失敗したことか。
どうせ車なんて今のご時世、ほとんど使わないだろうに。
うちの会社の人たちは気前はいいけど、こういう時に古くさいのがなぁ。
あっても今日乗ったバスぐらい……って、使ってる身で余り言えたことじゃないか。
そんなことを思っても、こんなところじゃ愚痴る相手ひとりいない。
バス停の付近には浸かった木々の頭だけがひょっこりと見えている。
自分と同じ高さにあるものはそれくらい。
落ちた雫で揺れる水面の下には幹と黄土色の大地が覗いている。
その脇にはところどころ白線が引かれた灰色の大地が見て取れる。かつて高速道路、もしくはハイウェイと呼ばれていた道の残骸は、当時のまま残されていた。
……あ。
「お土産買わなきゃな」
来るときに頼まれてたんだった。
お土産、お土産……何かあったっけ。ありきたりなものしか思いつかないな。
こっちまで来てもらえればうまい魚食べさせてあげられたんだけどなぁ。
お土産として持って帰るとなると難しい。
そういえばこないだ町おこし的な企画を作ったって言ってたっけ。
実家ついたら親父に聞いてみるか。
考えを巡らせながらバス停から離れようとしたときだった。
――おかえりなさい。
ひどく懐かしい声が聞こえた気がした。
男か? いや、女かもしれない。老人の可能性もあるし、幼い子どもでもありえるだろう。
けれど、そんなことは正直どうでもよかった。
不思議なのは心に沸き上がる安心感と焦燥感。
どうしてこんなにも胸をなで下ろしているのか。
どうしてこんなにも焦りを燻らせているのか。
自分のどこに問いかけても、その答えが返ってくることはない。
「……っ!」
右腕から伝わるデバイスの振動が、俺を現実に引きずり下ろす。
その瞬間、地べたに叩きつけられたようなめまいに襲われた。
服が濡れるのも、荷物が濡れるのも構わずに桟橋に手をつく。
いや、もうそんなことを気にしている余裕はなかった。
視界が歪み、自分がどこにいるのかも分からなくなる。
このままじゃダメだ。
何とかしないと。
俺が、何とかしないと。
――君が、何とかしないと。
心を黒いものが覆っていく。
自分という存在も、戸惑いの感情さえ塗りつぶすほど貪欲に。
救いを求めてどうにか震える手でデバイスを触れば、目の前に出てきたのはお袋の名前だった。
何時頃になったらつくのか、やら、こっちについたらお隣に挨拶に行きなさい、やら。
ついでに家族全員でリビングに集まっている写真まで送られてきていた。
だいたい笑顔だけど、ジュニアスクールの妹がつっけんどんなのはいつものこと。
いたって普通のメッセージだが、その「普通」は俺を正気に戻すには十分すぎた。
すぅっと波が引くようにめまいが消える。
気がつけば俺の身体に残ったのは、身体に当たる雨粒と濡れた服の感触だけ、桟橋のざらりとしたさわり心地だけ。
靴下まで濡れているせいで、身じろぎするたびに不快な冷たさが襲いかかってくる。
顔をしかめる。
こりゃ、着いたらまずは洗濯してもらわないとな。
後、カバンの中はきっと天変地異もかくやになっているだろう。本なんかは特にダメになってるかもしれない。
ため息ひとつ。
傘を差し、荷物を拾ってまた歩き出した。
それにしても、さっきのは一体なんだったんだろうか。
幻聴、めまい、脱力。
あぁ、そうだ。病気かもしれない。
背筋を巡る寒さを無視して、デバイスから健康アプリを起動する。
身体には一切異常は見られない。
少しだけ、動かす足が速くなった。
↓↓↓
古びた桟橋が鳴る音を聞きながらようやく目的地近くまでたどり着く。
桟橋の端に出た俺を出迎えてくれたのは、何もない水面だった。
いや、何もないというのは語弊がある。
確かにそこには先ほどまで見えていた木々の頭さえも見えなくなっている。
だが、その下……水中に広がるそれは、はっきりと俺を出迎えてくれていた。
白。
一面の白い壁。
なめらかな曲線を描いて水中を覆うその建物は、俗に言うところのシェルターと呼ばれるものだった。
硬質なはずなのに、雨粒に打たれる水のせいかどこか柔らかそうにも見える。
揺らぎの合間から壁を辿って水底に行けば、灰色の点。
あまりに小さくて、あれが本来なら身長の倍ほどある高さの重厚な扉だということを忘れてしまいそうになる。
そこから出てくる小さな青い球体に目が向く。
遠目からだと分かりづらいが、見覚えのある潜水艇だった。
――あぁ、本当に。本当に帰ってきたんだ。
ここが俺の故郷。俺が生まれ育った町。
天を見上げる。
細い雨をとめどなく落とす空は、切り抜かれたような丸い暗い曇天を湛えている。
俺が生まれたときも、この町を出たときも、そして今も。
空は、表情を変えずにただそこにあるだけだった。
止まない雨はない。
誰かは昔そう言ったそうだけれど。
でも、だとすれば……なぜこの土地は沈むほどに、雨が降り続けているのだろうか。
ここは、雨が止まない町。




