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邪神憑きの神殺し記

 纏わりつくような濃い闇が降りていた。深夜に魔獣の跋扈(ばっこ)する森を訪れる者などなく、最も近い人里も山か谷を越えたところ。頼みになるはずの月や星も、空を覆うほどに生い茂る木々に遮られた真の闇だ。たまに煌く赤や金の光も、油断した獲物をおびき寄せる妖花か妖虫の類か、爛爛と燃える魔獣の目か――いずれにしても、死の罠でしかない。




 そんな昏く深い深夜の森を、彼女は軽やかな足取りで進んでいた。鱗も毛皮も持たない脆弱な白い肌。細くか弱い二本の脚と二本の腕。この森では滅多に見ない、人間の女だ。少なくとも、見た目の上では。




 踵の高い華奢な造りの靴で、ごつごつとした岩場も絡み合う木の根も軽々と踏み越えながら、彼女は鼻歌さえ歌っていた。今宵のために貢がせたドレスは、都で流行りだという肩と胸元を大きく露出させたもの。光沢のある黒の絹に、星空のごとく散りばめられた宝石の数々。裾や襟や袖口を縁取る繊細なレース。いずれも彼女の美貌を引き立てるに違いない。例え誰も見る者がいなくとも、美しく装うということ自体に女は高揚するものだ。




 とうに人であることを止めた彼女(・・)でも――あるいはだからこそ、美しさには並々ならぬ執着があるのだ。




 と、闇を裂いて咆哮が響いた。同時に彼女の前に立ちはだかるのは、山が眼前に迫ったかのような黒い塊。この森に棲まう魔獣の一種――強靭な鱗で身体を鎧う、猪に似た姿の巨獣だった。彼女を無防備な獲物と見て取って現れたらしい。攻撃の意図をもって蠕動する輪郭が、周囲の闇とは一線を画してその巨体を示していた。前脚のほんの軽い一撃、あいさつ程度のひと噛みで、人の身体など瞬時にひき肉に変じるだろう。




「身の程知らずね」




 だが、敵意たっぷりの唸り声を浴びても、彼女は牙の並んだ口から漂う腐臭に眉を顰めただけ。それと、獣風情に狙われることへの不快感に。多少歳を重ねた個体なら彼女に近づかない程度の知恵はあるだろうに、まだ巣立ったばかりの幼獣なのかもしれない。無論、この無礼を許す理由にはならないけれど。




「邪魔をしないで」




 涼やかなひと声が響くや否や、獣の唸り声が悲鳴に変わった。捕食者たる巨獣の、あまりにも珍しい助けを求める甲高い声。変事を感じ取ってか、樹上で翼を休めていた鳥たちが飛び立って驟雨に似た音を立てた。




 人の目では見透かすことができない闇の中、しかし息を顰める森の住人たちはしっかりと見ていた。意思を持つ蔦のように、貪欲な蛇のように、黒い綱が魔獣の身体を締め上げるのを。どんな獣の爪も牙も通さないはずの硬い鱗が、めりめりと音を立ててひしゃげ、中の内臓や骨格までもがみるみるうちに歪み損なわれていくのを。そしてその黒い綱が、彼女の頭部に繋がっているのを。絹糸の艶やかさを持つ黒髪が長く伸びて蠢いて、魔獣の四肢を絡めとり、さらに肉を絶つ勢いで内部へと食い込んでいるのだ。


 魔獣が逃れようともがいても、彼女のしなやかな髪を引きちぎることは叶わない。むしろ足掻くほどに巨体の破壊は進んでいく。




「これからご馳走だものねえ。臭い肉なんてご免だわ」




 ついに魔獣がただの肉塊に成り果てると、彼女は笑いながら髪を払った。すると血と泥に汚れた髪は脱ぎ落されて、先と同じく輝くばかりの自慢の黒髪が現れる。


 供物が足りなくて切羽詰まった時ならまだしも、今宵に限っては魔獣などの肉を漁る必要はない。森に無数に潜む肉食の虫や獣に後は任せて、彼女はまた踊るように闇の中へ足を踏み出した。








 彼女の目的地は、白く仄かに光る石材を精緻に組み上げた古い祭壇だった。失われた文明の秘術によって、どういう訳か木や草や蔦の侵食を受け付けず、今もかつての姿を留めている。魔獣の類も近づくことができないから、彼女は贄の受け取り場所をここに指定しているのだ。滅びた国の民も、この祭壇で神々に贄を捧げたのだろう。


 彼女が仕えるのは、山あいの集落の幾つかを治める程度のごくささやかな神でしかないけど――それでも、神は神だ。人が束になっても叶わない、魔獣でさえ寄せ付けない力を誇る。古の国も神も滅びた今、遺跡を使わせてもらったところで不遜にはあたらないだろう。




 祭壇に施された術の及ぶ外縁に、意地汚く屯する魔獣や妖虫を例によってしなる髪の一閃で薙ぎ払って。月光降り注ぐ祭壇の頂点に軽やかに昇った彼女は、そこで待っていた()を見て思わず声を上げていた。




「あら? あらあらぁ?」




 石段を四角錐状に重ねた祭壇の上、精緻な彫刻に囲まれたちょっとした広場ほどの空間は、鬱蒼と茂る木々の梢を見下ろす高さにある。祭壇の、染みひとつない清らかな白さに月と星の光が映えて、森の闇に慣れた目には眩しいほど。――ただし、彼女が目を細めるのは眩しさによってだけではなかった。




「今年は、西の谷のキーラの番だと思ってたのだけど」




 彼女の独り言には、不測の事態への苛立ちがはっきりと滲んでいる。




 彼女が治める村々から順番に、年にひとり。それが、彼女と彼女の神が定めた規だった。何かしら頼まれごとをされればその都度重ねて供物を求めるものだけど、特に何も為さなくても、年ごとの犠牲は欠かせてはならない。他所から攫ってきたり買ってくるのもいけない。老人や病人などもってのほか。


 若く健康で愛される者を泣く泣く差し出す、心の痛み。贄を祭壇まで届ける道中に、犠牲が出ることもあるだろう。それだけの重い代償と引き換えにしてでも庇護を求める信仰と忠誠。そんな人の心の機微をこそ、神は尊ぶのだ。図体や力はあっても愚鈍な魔獣の類では大した食事にならないのはそういう訳だ。


 キーラは村の長の娘で、確か十六歳。働き者で気立てよく、村の者にも慕われている。顔立ちもなかなか可愛らしいから、贄には最適のはずだった。だが、今宵祭壇に繋がれているのはキーラではない。それどころか、彼女が知る村の若者や処女のいずれでもない。祭壇に腰掛けて、足をぷらぷらとさせて、足首の鎖をしゃらしゃらと奏でさせているのは、どこの誰とも知れない子供――少女だった。




「一体どこから連れて来たのかしらぁ?」




 彼女の呟きを他所に、贄の銀の髪が煌く。その色だけでも稀なのに、月の光をそのまま紡いだような、自ら光を放つかのような輝きは、この辺りの村娘ではあり得ない。陽にあたることも風に曝されることもなく、毎日のように香油で丁寧に手入れされているのでなければ。乳のように白く曇りない肌も、華奢な肩も細い指も、野良仕事など一切知らずに育てられたと教えている。それにあらゆる造形が完璧に整っている。




「えっ、と……?」




 彼女を見上げる翠の目は、最上の宝石も叶わないであろう輝きを秘めている。月の光でも濃い陰影を落とす長い睫毛に、すっと弧を描く眉。傾けた頭の完璧な丸み、指先を添えた顎の尖り方。何もかもが芸術家が丹精した彫刻ででもあるかのように美しい。見た目は十かそこらのほんの小娘なのに、軽く開いた唇にはもう色気さえ漂っている。




 噂には聞いたことがある。大国を守護するような貴神の壮麗なる神殿では、聖餐と呼ばれる贄を選りすぐって育てていると。蜜と果実と聖句だけを口にして育つ美しい少年と少女たち。生命と肉体を捧げることさえ至上の喜びと信じてその時を待つ、清らかな果実。今宵の贄の美しさは、そんな存在を思い起こさせた。




「あなたが、主様……?」


「ええ、そうよ」




 魔獣の棲む森に置き去りにされて鎖で繋がれても怯えもしない鈍感さに、彼女を見て口元を綻ばせる無邪気さも、彼女の想像を裏付ける。


 貧しい寒村に、貴神の贄を手に入れる伝手も金もあるはずがない。だから仮にこの子供が聖餐なのだとしても、貴神に捧げるには何かしらの欠陥があって捨てられたのだろう。長の娘の命惜しさにそんなもので誤魔化そうとしているなら、西の谷は厳しく罰しなければ。でも、この贄はあまりにも――




 ――クイタイ。




 美しい。眺めているだけで、胸が騒めくのを抑えるのが難しいほど。彼女の女としての嫉妬に加えて、心臓に棲む彼女の主が、彼女の神が騒ぐのだ。この贄は美味そうだ、と。




 初めての痛みを教えて泣き叫ばせるのも良い。否、快楽も知らないだろうから喜悦の涙を流させてやろうか。むしろ一切の感覚を禁じて、自身の内臓の色を見せつけてやるとか?




「良い子ね――」




 まずは、味見をしよう。ひと口だけ。どうするかはそれからじっくり考えなよう。というか、そうしなくては頭が働かない。極上の食事を前に我慢なんてできるものか。彼女の肉体は、彼女の神に捧げた最初の供物、手足も五感もとうに彼女だけのものではい。だから、主の感覚も感情も、自身のものとして感じてしまうのだ。




 ああ、早く。彼女は恍惚として贄の頬に手を伸ばした。だが、通う血の温もりを掌に感じようとした瞬間――




「若作りババア。(ヨダレ)垂れてんぞ」




 美しい贄が、ひどく邪悪な笑みを浮かべた。急な変化に呆然としつつ、それでも、彼女は後ろに跳ぶ。主のものか、彼女の弱い人間としてのものか分からないけど――本能がそう命じていた。




「さっすが雑魚(ザコ)! 逃げ足早いねぇ!」




 林立する神像に髪を絡ませて、蜘蛛のように中空に姿勢を保ちながら。彼女は贄がきゃらきゃらと笑うのを信じられない思いで聞いた。容姿に違わず、銀の鈴を振るような美声だというのに、それは紛れもない嘲笑だった。そして更に信じがたいのは彼女の目に映るもの。




 細く小さい手でどうやったのか。贄は、彼女の片腕を千切り取り、噴き出す血に美味そうに舌を這わせていた。

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