サーチ & ドールズ 6.0
薬品の香りが充満している。
消毒液臭いその空間は、俺のほかにも数人の男性が療養にいそしんでいる病院の一室だった。友人の父親が経営しているこの病院らしいことに気づいたのは、清涼飲料水を土産に訪れた友人が訪ねてきたその時になる。左腕を動かすと、感覚はあるモノの、厳重に包帯がされていることが分かった。…何があったっけ?記憶が朧気で、昨日の事か今日の事かさえ分からない。……自分の身に何が起こったか分からない程度には混乱している事は分かっている。とりあえず日付の確認。確か記憶が失う前は日曜日だった。そして今は、……月曜日か。
「…?ここはどこ?私は誰?」
「明石病院の一室。お前は、裏月ウルイ。急斜面をロンリーボーイしたくせに、腕の骨折だけで済んだラッキーボーイだ。……何か思いだしたか?」
「……ジョークなのですが?先生。」
「……ジョークも場所と環境をわきまえろ。病院で、そのジョークは重すぎる。」
「灯だって、ジョークしてるじゃん。……ってことは、大丈夫なんでしょ?」
幸いにも、友人の事を把握できるし、自分の名前に関しても一切記憶に相違はない。自分の経歴も言えるほどには、自分としての自覚はある。自分としての自覚を再認識したところで、俺は、自分の身に起きたことを再認識することにした。彼は交通事故に見舞われたと言っているが、そこの記憶は曖昧だ。……っと、此処でようやく思い出す。
何があったのか思い出したのだから、次に必要なのは自身の状況判断だ。至る所にガーゼがあり、東部にも包帯がまかれている。左腕は骨折ナウらしく鈍い痛みがある。足は少し傷んでいるが歩けそうだ。親はこの状況を知っているのか?
そばの台に愛用のスマートフォンが置いてある。現代若者の命であるそのスマートフォンは、どうやら無事そうであった。その隣に、これまたいつも使っている充電池が見えた。メニュー画面を開き、動作にも支障がない事を確認すると、俺は安心してため息を吐く。……曰く。
「おお。無事でよかった。」
主にスマホが。…であるが。
「…ったく。もう無茶しても、知らんぞ。……安静にしてろ。」
病人相手に、普段通り投げた友人の清涼飲料水は、うまく取れなかった俺の左手に当たる。痛がる俺に、自業自得だと言葉を吐いた。…まあ、実際。友人の言葉の通りではある。この骨折は、俺の祖父が所有している山の中で、彼の言ったように。斜面を転がり降りた結果の産物だ。
……しかもその理由が胸を張れるものではなくて。近道をしようと崖を滑り降りようとしたところ、勢いに吞まれた結果。俺は、プロスケーターも満点を出すほどのトリプルローリングを決め、木に激突した。ここまでが事の一端だ。さらにいえば、その時、俺は彼との電話のさなかにそれをしており、会話中に祖父の山にいる事を知った友人が、警察各所に通報してくれたのだろう。…ありがたい限りである。
「まあ、そんな気は毛頭ないのだがね。」
独り言のようにそうつぶやいて。口角を上げているのだから、自分ながらに反省する気は毛頭ない。……何せあそこは。幼少のころから使っている近道だ。そう簡単に、自分の伝統を曲げるわけがない。
暇な俺は、ケータイゲームに勤しもうかとも思ったけど、折角のそれが、運営のメンテナンス作業に移行していてできないことに気づいた。……ならば何で時間をつぶそうか。折角持ってきてもらった清涼飲料水のボトルを開け、器用にのどを潤した後、俺はこの病院の屋上に広いスペースを設けてあることを思い出し、暇なので、病院内の散歩がてら目指すことを思いつくのに時間はかからなかった。…それに、今頃の時間なら。…多分。
部屋を出て、数人の患者とその家族が通行する廊下に出た。いつも通りに、中学指定のジャージと言う格好の俺は、清涼飲料水を片手に、四階のさらに上にある屋上へ、つながる階段を上がる。一日中寝ていた影響だろうか。階段を上がるにも、思ったより体力がなくなっていて、荒い息を吐く程度ではないにしろ、多少疲れが残る。……散歩をした途端に之か。
何とか。といった様子で屋上まで上り詰めた俺は、転落防止用のフェンスに体を預け、荒い息を吐いた。
疲れたとだけ言葉を吐く。
転落防止用に建てられたこのフェンスは、屋上一帯をずらりと囲んでおり、折角の町の光景も、境界線がはっきりと示されている。これは元々、精神科であったこの病院の名残であったそうだが、深い話は聞いたことがない。
それよりも重要なのが、屋上には待ち人がいなかったという事だった。いや、約束を持って、待っている訳では無いモノだから、正確には俺がひそかにいる事を期待している人。向こうにとっては迷惑なのかもしれないのは明らかだろう。
まあ、仮にこなかったとしても、この場所は気に入っている。元来、人がいる場所も好きだが、このように人気がまるでないところも好きだ。両極端な性質を好む俺は、下にある微かな喧騒を聞きながら、こうして穏やかに過ごすことも自分に合っている。
少し風が吹く程度の屋上で、階段の方から足音が聞こえた。この屋上はその囲い以外に何もなく、夏の夜間に有名な花火大会の花火を見物するくらいにしか使えない。
何より、何時ものごとくスローな足音が証明する。どうやら待ち人が来たようだ。
「また来たの。」
片腕の彼女はそこにいた。
わざわざ隣に居座った彼女は、そう吐いた。彼女が首から下げる印象的なタグには、彼女の名前と血液型が記載されているらしい。いつものようにワンピースを着こなした彼女は、何時ものようにここにいる。
エーデルと言う名前を持つ彼女は、この病院に二年ほど入院している心臓病の患者だ。普段は居室で本を読んでいるか、この場所で静かにいるのかのどちらか。…といった生活をしている。
そんなカノジョと出会ったのは、ちょうど一年前になる。その時は確か足をやらかしていた。あまりにも入院と言うのが暇なもので、こうして病室を抜け出し、屋上で風に吹かれているところをばったりと出会ったのが最初の出会いになる。
彼女は現代機器が使えないという事で、手紙を使い文通にいそしむ中でもある。俺は国語の才能はないが、それを楽しみにして入院をしている彼女に変な文章は書けないと、孤軍奮闘していることは内緒である。
「今度は骨折でね。毎度ながら怪我をする自分に飽き飽きするよ。エーデル。片腕の君とお揃いになるところだったけど、どうにかそれは免れそうだ。…惜しいことに。」
「ウルイも片腕の不自由さを知るいい機会だね。この際だから、片手でできる身体護衛術の一つでも教えようか?大男三人ぐらいはなぎ倒せるよ?あと、……惜しいなんて言わないで。大変なんだからね。…これ。」
「…まったくもって感服だ。こんな不自由に耐え続けている君は天才だ。…俺なら二秒も持たないね。」
「そうでしょう?私はすごいの。誰よりもね。何せ、私は誰よりも強かったんだから。」
彼女はいつもそう話していた。
自分は誰よりも強くて。誰よりも賢くて。だから、誰よりも生きている。それが彼女の自慢だった。確かに彼女は強い。彼女の余命はどんどん近いくせに、そんなことを平然と言いながら笑うくらいには。
「でも、だめだったね。」
「……なにが?」
「そろそろ死ぬの。」
端的に、そう言うのだ。
死と言うのは、そんなに端的に言えない言葉のはずだ。しかも、彼女は一般的じゃあない。常日頃から、死と隣り合わせだった。なのに、彼女は平然とそう言った。……だからこそ、俺はそれが何かしらのジョークだと思った。……そんなに、死が近い人間が、そんな簡単にそう吐けるものじゃないと思っていたから。自分の死を軽々しく言える人がいるとは思えなかったから。
「…へえ。死ぬんだ。」
「そう。私は動ける有機物から、動けない有機物になるんだ。」
彼女的には問題のない。と言いたげな言い方だった。
それに、それは端的すぎて、正直ジョークにしか聞こえていなかった。ずいぶんとブラックすぎるジョークだが、彼女に似合う言葉だった。……それに対しての返しは今でも覚えている。ジョークのようなその言葉だと分かっていても、本当だったら。といった思いが頭の片隅にあった俺は、ジョークにしか聞こえた癖に、それが事実であろうと前提した言葉を吐いた。
「……簡単に死ねないよ。…今までだって、何とか生きていけたんでしょ?大体、お前元気じゃん。死ぬ要素皆無じゃん。心臓病なんて、嘘なんじゃあないのだろ?…ただ、学校サボりたいだけだろ?」
「…そうだね。心臓病は嘘かもしれない。じゃあさ。」
彼女はこちらを向いていた。
その両端は笑ったままだった。
「ウルイは、私が何で死ぬと思う?」
俺には、そんな彼女が死ぬとは思えない。なのに、それが前提の言葉を吐いてしまう。それが前提であり、それを否定したいという言葉を吐いてしまう。
「お前は死なないよ。少なくとも、十年くらいは。」
「…なんで十年?」
「具体的な奴よりも、希望的観測のほうが俺は好きなのさ。」
「それ答えになっていない。…でもま。……いいか。具体的に答えらえたら、私はたぶん。この関係さえ終わらせかねない。…かもしれないからね。案外気に入っているんだよ?私は。」
そう言って彼女は背を伸ばした。
横になってばかりだから、疲れる。と彼女は言葉にする。
「私は誰よりも強くて、私には怯える家族さえもいなくなった。それでも、貴方だけは怯えてくれない。……でも、それは少しうれしいんだよ。」
それは独り言であり、どこか寂しい言葉だった。
彼女は俺に言っていない。だから、俺も、その意味を深く考える事はしなかった。
「……ああ。そうだ。」
彼女はそういうと、タグを器用に外して俺に寄越した。
それは彼女にとって大切なものらしい、俺には行動の意味が分からなかった。なぜ、それが彼女にとって大切なのか、わからなかった。
「どうしたの?」
「あげる。いらなくなったから。」
心変わりしたと彼女は言う。俺の大切にしていたものだろ?と言う質問に対して。
「後で病室に行くよ。折角入院しているんだから、花を手向けてやる。」
そう言って、屋上を去った。
それが、エーデルとの最後だった。