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ロナルドの言わんとするところはわかった。そして、アレハンドロの連れである男がどうして血相を変えて飛び出していったのかも、今の彼女には理解することができる。
「“見えない”人間が怪我をしたまま見知らぬ山を歩き回るなんて、想像するだけで卒倒モノでしょう?」
「これは連れの者も気が気ではないだろうな」
「本当に、あそこでお嬢に出会った事が奇跡としか言いようがありませんよ」
アレックスは頷く事しかできなかった。そして、彼の幸運にも驚かされた。
奇跡、というのは大袈裟であるが、ロナルドがそう言うのも無理はない。“見えない”人間は普通なら回避できる危険に気付く事ができないのだ。見えなかったからといって猫の尾を踏んで逆毛を立てられない者はいない。特にこの英国、不可思議な生き物が多いこの国では格好の餌と言っても過言ではない。
ピクシーのように、人に危害をくわえない妖精だけではないのだ。アレハンドロが脚に傷を負っているのが良い実例である。妖精に髪を整えられている、というほのぼのとした光景がとたんに暗い色を帯びて見えた。
世の中には魔の要素の強い生き物が見えない人間が居る。アレックスも知っている、ある種の壁のようなものだった。兎は見えるが、ジャッカロープは見えないのだという。彼女もジャッカロープを見たことはないが、それは英国に生息していないからであり、実際に目の前にいればおそらく見ることも触ることも可能だろう。
“見える”アレックスにとって、兎とジャッカロープの違いなどない。しかし“見えない”人間はそうではないのだ。ジャッカロープが“見えない”ということは、そもそも存在を認識することができない。そう、彼らにとってジャッカロープはそこには居ないものと同じなのだ。
見えないのが愛らしいジャッカロープなら特に問題はない。狂暴な生き物であるという話は聞いたこともなく、人を殺したという大々的な事件もアレックスが知る限りはない。
すべてが善ではない。かといって悪でもない。空腹の野生動物と出会った人間の末路を想像してみてほしいものだ。
「エミリーも“見えない”人間だが、全く見えないわけではないだろう」
「そこに“何か居る”っていうのはある程度知覚できますからね。あの兄さんはそれすらないときたもんだ、一人で外を歩かせるなんて俺にはできませんね」
「ある程度自衛の術があるなら、いや」
「口を開けて待っているグリフォンへふらふら自分から歩み寄っていくようなもんですよ。こんなうまそうな餌、俺なら絶対に見逃しません」
「どうしたものかな」
アレックスは思わず眉間を揉んだ。その程度で刻まれたシワは消えることはないのだが、そうするしかなかった。頭が痛む。ロナルドのいう“うまそう”はその言葉通りの意味であった。野生で若く瑞々しい獲物が無防備に歩き回るとどうなることだろうか。
街中ならいざ知らず、森の奥にはいまだに人間と共存できない生き物がいる。それは野生の動物でも同じことがいえるのだが、どちらにせよ防衛の術を持たぬ人間にとって危険なものであることにはかわりない。
「まあ、しばらくは俺が近くにいますから」
「頼んだぞ。たしかに、こうなると外に連れ出すのも憚られるな」
「でも本人は外に出たがってしかたないんですよ、困ったことにね」
「その件につきましてアレハンドロ様と少しお話しをさせていただいたのですが、ロナルドを連れて少しだけお散歩に出られてはいかがでしょうか」
突然割り込んでくる他者の声にアレックスとロナルドはぎくりと身を固くした。できの悪いからくり細工のようにぎこちない動作で声のする方へ顔を向けると、薄く開いた扉の前に両手を腰に当てたエミリーが立っている。
「盗み聞きなんて、お行儀の悪いことを」
まったく、と叱りつける声に怒気を感じたのか、アレハンドロのまわりに集まっていたピクシーたちはあっという間に姿を消した。
ばつの悪そうな顔をして俯くアレックスは後ろに立っているロナルドのシャツを握った。親に叱られた子どものようなその様子に厳めしい顔をしていたエミリーも毒気を抜かれたようにため息を一つ。そのかわり、とでもいうようにロナルドを睨め付けるがロナルドはのらりくらりと肩をすくめてやり過ごすばかりだ。
「その、ごめんなさい」
「どうせロニーにそそのかされたのでしょう? さあ、アレハンドロ様にご挨拶を。お嬢様のお帰りを心待ちにされていたのですよ」
「おいおい、悪いのは俺だけかよ」
「貴方はお嬢様に悪いことしか教えませんもの」
ツン、とそっぽを向いて室内に戻っていくエミリーと入れ替わりに椅子から立ち上がろうとしていたアレハンドロにアレックスは慌てて歩み寄った。
その肩に手をかけ椅子へと座り直させ、顔に血色が戻っていることにほっと息をついた。
「お帰りなさい。すみません、お出迎えもせず」
「いや、いいんだ。座ったままでいい、怪我にさわるだろう」
「いいえ、熱もひきましたし、もう痛みもさほどありません。皆さんのお陰で歩き回れるようになりました」
「そうか、それはよかった」
アレハンドロの正面へと向き直り、両手で彼の手を包むとアレックスは安心したように目を細めた。アレックスが街へとおりる前に医者から回復は早いでしょうとは言われていたのだが、そばにいることができないため心配していたのだ。
それで、と瞳で語りかけてくるアレハンドロに言葉がつまり、肩越しにロナルドに助けを求めるも黙って首を振られるのみ。正直に伝えなさいな、とでも言うような素振りにアレックスは唇を軽く噛んだ。
「その、期待を裏切ってしまうかもしれないんだが」
そうだな、ええと、と言葉を重ねるアレックスに相槌を打つように他の三人は頷き続ける。
「簡潔に報告をするとしたら、彼の拠点にしている宿がわかった」
「本当ですか、神のお導きに感謝ですね」
「ただ、その」
「どうかしましたか?」
「肝心の本人が宿にいなくてな、どこへ行ってしまったのかもわからないんだ。力になれなくて申し訳ない。僕にできるのは、本当に、このくらいの事しか」
「いいえ、十分すぎるほどです。むしろあなたは見ず知らずの私にとても良くしてくださった」
片手を包んでいたアレックスの手を包み返し、彼は微笑んだ。感謝の気持ちをこめ、アレックスの持ち帰ってくれた情報を何よりも大切な宝物のように。
少なくとも、ルネは麓の街へと無事たどり着いたということだ。それが何よりも嬉しかった。
「ご心配なさらずとも、ルネは必ず私を見つけてくれます。それなのに私が勝手に彼の身を案じて皆さんにご負担をかけてしまっている。謝るべきなのは私の方です」
「なにを! 馴れない土地に一人、誰だって心配するだろう!」
「本当にお優しい方ですね、貴女は」
「僕が優しいのではない、これは我が家の家訓であり人として当然の事をだな」
「はいはい、とりあえず朝食にしやしませんか?」
堂々巡りになりそうな雰囲気を感じ取って、ロナルドはざっと二人の間へ割り込んだ。ロナルドから言わせてみれば二人ともお人好しなのだ、なあ、とエミリーに同意を求めれば彼女もロナルドに同意をするように頷く。
腹が減ってはなんとやら、はるか東の国に言い伝わるそれを代弁するようにくう、と腹の虫がないた。小さく小さく悲鳴をあげる腹の虫の持ち主の名誉のために誰もその事を指摘はしなかったが。
「たしかに、朝食の後でゆっくり時間を取ってもらった方がいい気がします」
「では、朝食の後で詳しい話をするとして、僕としては君自身の話も聞いてみたいんだ。もし、体調が悪くなければ、なんだが。話したくない事は話さなくてもかまない、その、僕はこの国の外の人間と話すのは初めてなんだ」
年相応にもじもじと恥じらいをみせるアレックスをしばし微笑ましげに眺め、一同は食堂へと移動をした。
「なんだって! つまり、砂の海に二足歩行をする大型の鳥類はいないのか?」
「ラクダという生き物のことだとは思うんだけど、あれは鳥類ではないしなぁ」
「砂の海を行く魔法の船は!」
「それも夢物語なんじゃないかな、私も実際に砂漠に行ったことはないから定かではないのだけれど」
「なんてことだ」
「いや、私がいた大陸の砂漠にはいないだけで、他の場所にはいるかもしれないので」
「いーや、いませんって。お嬢に変に夢を見させないでやってくださいよ」
「お嬢様、何度も言っているではありませんか、フィクションというものはあくまでもこの“世界”の外に広がるのですと」
アレックスは革張りの本を抱えて一人震えていた。彼の出身がアレックスの思い描いていた砂の海ではないことには少々がっかりさせられはしたのだが、国を出て諸国を回っていたというアレハンドロの話はすぐに彼女を夢中にさせた。
「それにしても、貴女は女性なのに随分と世界に興味があるのですね」
「当然だ、僕はいつかこの家を支えていかねばならないのだからな。女であることは枷でしかない、せめて男に負けぬ知識がほしい」
「私と貴女は、似ているのかもしれませんね」
真剣な表情で抱えていた本を見下ろすアレックスを見てアレハンドロは眉尻を下げた。少し高慢にも思える彼女の他人に対する態度も女性という枷と闘っているが故なのかもしれないと。
背を丸め、伏し目がちに言葉を続けるアレハンドロの表情は徐々に苦々しいものに変わっていった。
「先ほどお話をした通り、私の祖国は大国の支配下にあります。我が同胞を解放するために、私には知識が必要なのです」
「それが旅の目的だと」
「ええ、恩人にこのような言い方をするのは良くないとは思いますがあなた方も“支配をする側”の国民だ。私の旅の目的はあまり気分のいいものではないでしょう。それでも私達には必要なのです、魔力がなくとも世界を変えられる“工業”の力が」
「とはいってもなぁ」
ポリポリと頬を掻くロナルドの言わんとするところはアレハンドロにもわかっていた。新たな発明、革命というものにつきものである新しい物への反発について。偉大な功績を残したはずの発明家の末路。“世界”というものは、すべての人間に親切にできているわけではないのだ。
「わかっています、何事にも良い面と悪い面があるということは。それでも、私は祖国の同胞を解放できるのなら悪魔に魂を売り渡してもかまわない」
悲痛にも見える表現のアレハンドロの肩に無言で手をやったロナルドは、ふと何かに気が付いたように窓の外へと視線をやった。それにつられ外へ意識を向けたアレックスは空気を変えるように一つ咳払いをした。
「話はここまでのようだな、父上がお戻りだ」