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屋敷に異国からの客人が運び込まれてから五日がたとうとしていた。屋敷に住み込みで下働きをしているエミリーは屋敷内が賑やかになったここ数日間、目の回るような日々をすごしていた。客人の世話のほとんどはロナルドが引き受けてはいるものの、屋敷に滞在する人数が増えれば当然彼女の仕事も増えるのだ。
栗色の髪を結い上げた彼女は唇を一文字に引き結ぶと真っ白なシーツを抱えて歩く。大きな足音は立てず涼やかに、所作の一つまで気をつけしずしずと背筋を伸ばして廊下を歩き、客室の一つの前で足を止めると控え目に扉をノックした。
「シーツの交換に参りました、失礼いたします」
「えっあ、ちょっと」
「待ったはなしですわ」
入室の許可がおりたとは言えないが、少女は躊躇いなく扉を開き室内へと足を踏み入れると椅子の背へシーツを掛け両手を腰に当てて見せた。朝の空気がひんやりと彼女の頬を撫でる。薔薇の蕾のような唇を引き結ぶと、まさに窓枠から片足を外へと放り出そうとしているアレハンドロを睨め付けた。
情けなく眉尻を下げるアレハンドロに向かって短くため息を吐くと、空になったベッドからシーツを剥ぎ取っていく。無駄のない仕事っぷりを見せる彼女に何を言われるまでもなくアレハンドロは窓枠にかけていた足を床へと下ろし、すごすごと椅子に座る他なかった。
扉の方から視線を感じた彼がそちらへ顔を向けると、いつの間にかロナルドがドア枠に寄りかかって室内の様子を眺めていた。片手で覆った口元はおそらくにやけているだろう。
「おやおや、もしやまたしても脱走失敗で?」
「面白がるのはやめてくれ、イーストンくん」
「いい加減諦めたらどうですか? 別にとって食いやしませんって。なあ、エミリー」
「ええ、このお屋敷の住人に食人の趣向はありませんわ、ご安心くださいませ」
「そういう食う、じゃないけどまあいいや」
よっと、軽い掛け声と共に寄りかかっていたドア枠から離れるとロナルドはアレハンドロの足元へと片膝をついた。立てた方の膝をぽんぽんと叩くとアレハンドロの顔を見上げて口角を上げる。
「はい、足出して」
「もう大丈夫だから、遠慮するよ」
「いけませんわ、それでは良くなるものも良くなりません。熱が下がったからといって治療が終わるわけではありませんもの」
「そういうこと」
ベッドから剥ぎ取った方のシーツを丁寧にたたんだエミリーは、それを有無を言わせずアレハンドロの両手に押し付けると椅子の背もたれから綺麗なシーツを回収する。両手がふさがったアレハンドロの片足を捕らえることなどロナルドには赤子の手を捻るよりも簡単なことだ。
ひょい、と足首を掴むと立てた方の膝の上へと移動させ、手早く包帯をほどき一息に綿の当て布を傷口から引き剥がした。とたんに上がる短い悲鳴は聞こえぬ素振りでテーブルの上へと手を伸ばしたロナルドは手探りで薬
品を手に握ると改めてアレハンドロの顔を見上げる。自分を見下ろすその恨みがましい表情にわざとらしく肩をすくめてみせた。
「言い方を変えるべきたった、イーストン君、君はわざと痛がるように触れてくるだろう、だから嫌だったんだ!」
「言いがかりはよしてくれませんかね、こんなの誰がやったって痛いもんは痛いでしょうよ」
「君は痛みを感じさせない側の人間だろ!」
「じゃあ阿片でも?」
「そういうことじゃなくてだな」
乾いて傷口に貼り付く当て布は剥がす時にどうしても痛みを伴った。それでも定期的に取り替えておかねば癒着してしまい、傷口をより悪化させてしまうのだ。
はじめこそ替える度に痛みを和らげる魔術をかけていたロナルドだったが、次第に面倒になったのか、痛がる様が面白いのか、今はそのまま引き剥がしている。
乾燥して傷口に貼り付くことを防ぐために蜂蜜を使うなど他の手も試してはいるのだが、蜂蜜を使うのは悪いことをしているような気分になる、とアレハンドロ本人の意向でそれも止めてしまっていた。
ひどく炎症をおこしていたその傷は今では傍目にはただの傷口にしか見えなくなっていた。熱も痛みも引き、歩き回ることができるようになってくると途端に外の世界が気になりはじめるものだ。きっと彼も心配していることだろう、はぐれてしまった旅の仲間を思えばアレハンドロの視線は自然と下を向いた。
視線を落として足元へ影がさしたことに気づいたアレハンドロは、ベッドメイクを終えて包帯を取り替えるところをしげしげと眺めるエミリーに困ったような笑みを見せた。
「女性が見ていて楽しいものじゃあないだろう、こんな傷」
「いいえ、少しは見れるものになっていらっしゃいますわ」
「なら、そろそろ私も外に」
言葉の続きは再び短い悲鳴へととって変わったアレハンドロは絞り出すようにイーストン君、と唸り声に乗せて非難の意を表す。恨みがましい視線をものともせず、新しい当て布で傷口を覆うとロナルドは手早く包帯を巻いてため息一つ、これみよがしに漏らした。
「言っておきますがね、痛みもなく熱が引いてるのは薬のおかげなんですからね。お連れさんが心配なのはわかるが、今出ていったらまたそこらで行き倒れるのがオチだってわかってるでしょう?」
「だが、ルネは」
「フランドルの出身だから。はいはい、何度も聞きましたよ。だいたいそういう事は自分の顔を鏡で見てから言ってくださいよ」
「私はいいんだ、その覚悟で来ている」
「兄さんがよくても俺が気分よくない。正直、近年スペインとの関係はあまり良いとは言えないんだ。そんな中、アンタが一人で出歩くなんて誰が許可しますかってえの」
パンッと傷口の上、ふくらはぎ辺りを平手で叩くと今度こそ悲鳴が上がった。じん、と広がる痛みのせいで何一つ言い返す言葉が出てこないアレハンドロは歯を食い縛り短く母国語で悪態をつく。咄嗟に出る悪態は相手に通じる必要はないのだ。
エミリーは空気を変えるように大きく二度手を打ちならし、咳払いを一つ。
「朝食までにはお嬢様がお戻りになりますわ。もしかすると、お探しのルネ様を連れてお戻りになるかもしれません」
「そうそう、外のことは俺やお嬢に任せててくれればいいんですよ」
「ずっと室内にいて気が塞ぐというのなら、朝食の後で裏庭へご案内いたしますわ。少ないですが、ハーブを育てております。ハーブティーを煎じてみては? 少しは気持ちも晴れるのではないかしら」
「とにかく、外に出るなんて俺は許しませんからね。もうしばらくおとなしく養生してな」
アレハンドロを囲み右から左から矢継ぎ早に言葉を投げかける二人にどうやって一人で立ち向かえというのだろうか。あくびをしながら部屋を出ていくロナルドを見送ると、アレハンドロは背もたれに深くもたれるように首をそらし天井を見上げた。
二人の言うことももっともなのはわかっていた。石を投げられることはなくとも、他国の人間に快い感情を抱いている人間ばかりではないだろうこともわかっていた。怪我をした脚を引きずり麓まで下り、何の手がかりもない男を探すことが困難であろうことも。
「ロナルドは、アイルランドから渡ってきた移民の子なのです。それ故にでしょうか、他人からの視線や不当な扱いには人一倍敏感で、口にはしませんが貴方の事もとても心配しています。貴方が憎くてお屋敷に閉じ込めているのではないのだと、どうかご理解くださいませ」
「ああ、わかっているつもりだよ」
「きっとなにもかも上手くいきますわ。いかなるときも、主は我々を見守ってくださっているのですから」
神が見守ってくれている、この場にいない無神論者の同行者が聞けばどんな顔をするだろうか。朝食の支度を手伝うために部屋を出ていくエミリーに曖昧な笑顔を返してロナルドは数日前に部屋に運び込まれた荷物に手を伸ばした。