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言葉を交わせる程には回復しているようだが、青年の動きはいまだに緩慢で、フードを深くかぶりなおす手も重たそうだった。鎮痛剤代わりに使っている阿片を、と背負った荷物を改めようかとロナルドは足を止めかけたが、村へ帰ってからの治療に差し障りがあっては困ると一人首を横に振る。
「ルネさんのことはわかったから、兄さん、あんたの名前は?」
「私は君の名前も彼女の名前も知らない」
「名はロナルド、姓はイーストン」
「アレハンドロだ」
「いい響きだな、スパニッシュか? ラティーノか?」
「ラティーノさ。航海も難しくなくなった今、珍しくもないだろう。ルネに口酸っぱく言われてこっちではスパニッシュで通してはいるが」
「へえ」
青年、アレハンドロは喋って入る方が気がまぎれるのか、双眸を閉じるとロナルドの問いに一つ一つ答えていく。わずかに口元に笑みも浮かべているのは痛みがひいたからかだろうか。
「彼女にろくなお礼も言えていない、ルネに叱られてしまう」
「そんなもん後でいくらでも言えますよ。さて、森を抜けたらなるべく“ぐったり”しててもらえますか?」
「ぐったり?」
「保守的なやつが多い村だけど、病人や怪我人には辛く当たるべからずってね。困ってる奴を放ってはおけない呆れた連中さ」
森を抜け、砂利道に出たロナルドは悠々としていた歩調から一転し、背中で踊るマスケット銃も腕に抱えた重荷ももろともせず猛然と駆け出したではないか。緩やかな坂道を下り、村の家々がはっきりと見えてくる頃にはその息はあがっていた。気迫すら感じさせるその様子に気圧され、アレハンドロはおとなしく言われた通りにぐったりとしている他なかった。
通りに出て来ている村人たちがロナルドに気がつき、にわかに村の中がざわめきはじめていた。乱れた息を整えるように大きく深呼吸をしたロナルドは、村に飛び込むやいなやその声を張り上げた。
「どいたどいたァ! 邪魔だてするな、医者はどこだい!」
「ロニー、遅かったじゃないか!」
「あらまあ、かわいそうにねえ」
「アレックスから話は聞いたぞ。麓の奴ら、よそ者だからって酷い仕打ちをしやがるもんだ! 旦那様に言って物流を止めてやれ!」
「ほらほら、お医者様はもうお屋敷さ。早く運んでおやりよ!」
矢のように駆けていくロナルドに道を譲る村人たちは彼が通りすぎる度に口々に一言投げ掛けていく。どうやら先に戻ったアレックスが上手くやってくれていたようだ、とにやけそうになる口元を引き締め、ロナルドは入り口を開けたまま待っていた薔薇色の頬の娘に目配せをしてその屋鋪に飛び込む。
通りの騒ぎを聞き付けたらしいアレックスが奥の部屋から顔を出し、手招きをしている。一緒に顔を出した白髪頭を見たロナルドは、限界だというように吹き出して声を圧し殺したまま喉の奥でくつくつ笑っていた。
「イーストンくん、先ほどのあれは大袈裟すぎると思うのだが」
「同情をかっちまえば誰も哀れなよそ者のあんたを悪く言わないからな、ちょっとぐらい大袈裟にやるぐらいが効果的さ」
「哀れなよそ者、ね」
「おっと、他意はないんでね。俺は差別主義者でもなければ排他的な人間でもありませんよ、念のため主張させてもらいますが」
「おい、随分と楽しそうだがあまりお医者様を待たせるな。僕がどれだけ走り回ったと思ってるんだ」
「楽しくなんかありませんよ、待たせるも何も、いったい俺がどこからこれを運んできたとお思いですか?」
「私の患者をよそに仲良くお喋りかい? さあ、早くそこへ寝かせてやりなさい。アレックス様から話はきいたよ、私は医者だ、英語はわかるかな? フランス語かスペイン語の方がいいかな?」
アレハンドロを残し、アレックスとロナルドは治療の邪魔だと白髪の初老の紳士に部屋から摘まみ出された。ベッドにおろされたアレハンドロはわずかに不安気な表情を見せたが、医者だと名乗る老紳士の人の良さげな笑みに肩の力を抜くのを横目にアレックスは胸の前で両腕を組んだ。
「随分と仲良くなったみたいだな」
「男同士の方がやりやすいもんなんですよ」
「そう、か」
「ま、性別よりフィーリングの方が大事ですけどね。どうも俺はあの兄さんの連れに似てるらしくて」
「連れ? 彼は一人だったぞ」
「はぐれでもしたんでしょう」
さて、とマスケット銃を背負いなおしたロナルドは扉の前から数歩離れるとアレックスを振り返った。彼女の背に合わせるように身をかがめ、にっこりと笑みを浮かべる。アレックスの両頬へ両手を添え、とびきりの甘い声を作った。拗ねた子どもには露骨なくらいがちょうど良いのだ。
「それじゃあ、俺は一度家に帰って彼の着替えを用意してきます。ついでに俺の着替えもね」
「ああ」
「すぐ戻りますんで、様子を見て必要そうなら馬車の手配もしましょう。彼も運がいい男ですよ、英国で一番お優しい人に拾われたんですからね。それにもうじき旦那様もお戻りになる」
「そうだな、父上に頼んで彼の旅の手伝いも少しはしてやれるだろう。必要なら、その連れとやらも僕が探してやるぞ」
「さすがですお嬢」
「お嬢と呼ぶな」
はいはい、とルーティン化したやりとりをこなしたロナルドは屋敷を後にし、一人廊下に残されたアレックスは静かに客室のドアを開けた。そうっと覗きこむと二人の会話がわずかに聞こえてくる。
医者とアレハンドロの会話は英国ではなく異国の言葉であった。彼の母国語なのだろう、アレハンドロの表情は川で見たときよりも柔らかいものに見える。強い巻き舌交じりのそれはどうやらスペイン語のようで、アレックスはスペイン語を積極的に勉強してこなかったことを初めて後悔することになった。
国際情勢を見て積極的に勉強する必要はない、と判断したのは彼女だ。ヒンドゥースターニー語、ペルシャ語などの方が重要であると判断したのだが語学は実際に役に立つかどうかなのだ。
「アレックス様、追い出したりしてすみませんでした。もう入ってきても構いませんよ。彼からもお話があるようです」
廊下から室内をうかがっているアレックスに気づいた医者は柔らかく微笑み椅子をすすめた。アレックスが室内に入ってくるところを見たアレハンドロが身を起こそうとするのを察し、彼女は片手でそれを制すると静かに少し離れた椅子へと腰掛けた。
「先ほどはありがとうございました、私はアレハンドロと申します。手持ちはあまりありませんが、少しでもお礼をさせていただきたいので私の荷物を持ってきてはくださりませんか?」
「礼には及ばない、当然のことをしたまでだ。必要ならすぐに荷物を部屋まで運ばせよう。そんなことより、連れがいると聞いたんだが」
「ああ、ルネですか。麓の街に入る前にはぐれてしまったようなんです。私を探しているでしょうが、おそらく麓の街まで戻ればすぐに合流できると思います」
「そうか、心配なら麓の街に使いを出して探してやることもできる。お前は体の調子がよくなるまでこの部屋を自由に使ってくれてかまわない、ゆっくり休んでいくといい」
「私もしばらく回診に来ます」
きょとんと目を丸くしていたアレハンドロは二人の会話がようやく消化できた頃にはさっと顔を青ざめさせ、思わずベッドから起き上がった。
「そこまでしていただく訳には、路銀はルネが管理しているので私の手持ちでは到底お支払いすることができない」
きょとんと目を丸くするのはアレックスの番であった。こらこらと彼をベッドへ寝かしなおし、上掛けをかけ直している医者を横目にこほん、と咳払いを一つして彼女は小さな胸を張る。少しでも威厳を感じさせるように両目を閉じ、片手を胸に当てると口を開いた。
「僕は見返りや金が欲しくてやっているわけじゃない、助けが必要な人を見捨てるなという父上の教えに基づいて行動しているのだ。気に病むというなら元気になったら家の仕事を少し手伝ってくれ、それでいいだろう」
「しかし」
「さあ、少し眠ったらどうだ? 何かあったらエミリーを呼ぶといい、世話を頼んでおく。エミリーに言いにくい事があるならしばらくロナルドをこの屋敷に滞在させよう。僕は向こうへ行っている」
まくし立てるように言い切ると、アレックスは立ち上がり早足で部屋を出ていってしまった。扉越しにエミリー、と彼女の侍女を呼ぶ声が聞こえてくる。困ったように見上げるアレハンドロに片目を閉じてみせた医者は医療鞄に荷物を詰め直し始めた。
「アレックス様は不器用な方なんです」
「はあ」
「さて、私も診療所へ戻ることにしましょう。塗り薬と包帯は置いていきます、エミリーにこまめに交換するように言っておきますから素直に交換させてくださいね」
「あっ薬代を」
「もう頂いておりますので」
医者が出ていき、静かになった部屋でアレハンドロは両目を閉じる。ほっと吐いたのは安堵のため息か、疲労からくるものか、彼自身にもわからなかった。安全な寝床と十分な治療を約束された今、アレハンドロの気がかりはルネ一人だ。
「疲れたな」
すぐに動くことはできないだろう、ということは彼にもわかった。アレックスの言葉に甘え、ルネを探してもらうのもよいだろうか。屋敷の入り口の方から聞こえてくるロナルドの声を聞きながら、次第に意識は闇にのまれていくのだった。