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水瓶を抱えなおすと娘は再び川の方へと足を向けた。さて、先ほどの非礼をどう詫びたものだろうか。
「どうした、靴は履かないのか」
「ええ、少し訳ありなもので」
川辺に戻ってみると、青年は細身の下衣の裾を捲り上げてその脚を水流にさらしているところであった。衣服を纏っているところを見てもこの辺りの人間とは違うのは一目瞭然だ。
その下衣はこの辺りでよく見るトラウザーズとは違った型であり、物語に出てくる砂の海の民のゆったりとした衣服とは違うようだ。開襟のシャツはこの辺りで売っているが、男物で胸元にレースがあしらっているものは皆無に等しい。
「どうかしたのか? いつまでも川の水に浸っていては体を冷やすぞ」
「傷口を清めていたほうが良いと聞いていて」
「傷口? どれ、見せてみろ」
「お見せするようなものではないので」
「裸体をさらしておいて、今さら傷口一つどうということはあるまい。観念しろ」
青年の側へ水瓶を置くと娘はブラウスの袖を捲り上げ、ざぶりと川の水へと両手を浸し男の片足を引き上げた。間の抜けた声を上げバランスを崩して転びかけている青年の左脚、足首の上からふくらはぎの辺りまで、おおよそ広げた小指から親指ほどの長さの傷がある。まだ塞がっていないようで、今にも血が滴り落ちそうに見えた。
そっと傷口の縁に触れると跳ねるように青年の左脚が動く。当然痛むのだろう、しかめっ面に向かってすまないと短く謝れば眉尻を下げた情けない笑顔が返ってきた。
「これは、裂傷ではないな。転んでできた傷ではあるまい」
「たいしたことはないんだ」
「大方ローパーの幼体か何かだろう、弱い毒だろうが皮膚が溶けて爛れているように見える。薬はあるのか?」
「それを探しに麓の街からここまで来たわけなんだが」
「麓の街から? なぜそんな無意味なことをする、薬なら売っていただろう」
「私に売る薬はないから自分で薬草でも採ってこい、ということらしい」
「ひどい話だな」
腰のベルトの、ナイフシーフのすぐ隣の小さなポーチから紙の包みを取り出すと青年の隣へ腰をおろし、娘は包みの中から二枚ほどの乾燥させた葉を取り出す。
その葉を川の水に浸すと青年の脚の傷口を覆うように乗せてはたと手を止める。傷口を縛る包帯の代用品は持ち合わせていなかったのだ。首に巻いたスカーフをほどくと再びナイフを抜き、ある程度細くなるように裂くと傷口を葉ごと隠すように巻き付けた。
「これは」
「ローパーの毒に効くものではない、痛みを和らげるだけの薬草だ。薬の手持ちはないから気休めにもならないが」
「いえ、十分です」
「いいか、ここから動かず待っていろ。一歩も動くなよ、一歩もだ」
ナイフをシーフへ収め、包みの残りもポーチに入れると娘は立ち上がり水瓶を持ち上げて青年が座っている場所よりも上流へと行き、水瓶に半分ほど水を汲んで森の方へと大股で歩いて行く。木立に紛れてしまう前に一度足を止め、青年の方を振り返って口を開いた。
「いいか、動くなよ」
言い含めるように繰り返し、木立に紛れて青年の視界から娘の姿が消えた。獣道同然とはいえ、毎日のように通る道だ、娘は矢のように駆けながら木の根や足をとられそうな苔むした岩を跳び越えていく。森を抜け、砂利道に入るとさらにその速度を上げて小さな村に飛び込んだ。
村に入ってすぐの角を曲がると一本道の先に見える屋敷に向かって一直線に駆け抜けた。扉の横へと水瓶を置き、帰宅の挨拶もそこそこに扉をくぐり、そう長居もせず再び帰宅と同じ勢いで飛び出す。その腕にマントを抱え、出て行きしなに捕まえた侍女に一言二言言い付けると隣の家の扉を叩いた。
「ロニー、ロナルド! 起きているだろう、火急の用事だ!」
「お嬢、朝っぱらから元気がよすぎやしませんか?」
「お嬢と呼ぶな、僕は」
「はいはい、アレックス様は立派な御子息様でございますよ」
「すぐに出てこい、森へ行くぞ」
娘──アレックス──は頭上で窓が開く音を聞くと玄関から数歩さがり頭上を見上げる。寝癖のついたままの赤毛に指を差し込み欠伸を噛み殺すロナルドは部屋着の上からコートを羽織っているようだ。
ものぐさ者だと叱咤してやりたいところであったが、火急の用事だと言ったのはアレックス自身であった。窓も開け放ったまま階段を駆け下りてくる音を聞くと、突然の訪問に文句を言わない男の優しさというものに免じて目をつぶることにする。
少ない荷物とマスケット銃を背負い玄関を抜けたロナルドは、それで、とでも言うように片眉を上げてみせる。今日はいったい何事かと。
「ロニー、お前の図体なら男一人背負って運ぶのはお手の物だな?」
「なんですって?」
「それは助かる、その言葉を待っていた」
もともと返事など聞くつもりはない、頭一つほど高い位置にある暗緑色の瞳を見上げるとアレックスはコートの上からでもわかる逞しい腕を二回叩いた。
にっこりと笑顔を浮かべ踵を翻すと、アレックスはもと来た道を駆け戻っていく。後ろにロナルドがついてくることを当然だとでも思っているかのように、だ。
「こりゃあの人、また面倒なもん拾ったな」
ため息などで抗議の意を表しても意味はない。傷付いた野ウサギか、はたまた迷子の妖精だろうか、悠々と歩いてアレックスの背中を追いかける。丘へと差し掛かる辺りで足を止めたアレックスの急げ、という声を聞きようやく駆け足になったロナルドは二度目のため息を吐いた。
森の入り口辺りで追い付くと、アレックスが先に立ちどんどん奥へと進んで行ってしまう。勝手知ったる森の道とはいえそう急ぎ足で進むのは危険ではないだろうか、喉元まで出かかった言葉を飲み込みロナルドはそれに続く。
いざとなれば自分が、と銃に手をかけるが、この辺りでの危険などせいぜい突然飛び出してくる野ウサギぐらいのものだ。木立を抜けて川辺にたどり着いた先にいたものを目にして武器は必要なかったとロナルドは一人ごちた。
「なるほどねえ」
異国情緒を感じる肌の色の男が裸足で川辺に転がっていればおおよその事情も察せよう。アレックスと共に駆け寄り首筋に指を当て脈と呼吸を確認すると、差し出されるマントを引ったくるように受け取った。ロナルドがマントで青年をくるんでいる横でアレックスは青年の少ない荷物をまとめている。
ぜいぜいと荒い息でなすがままの青年はロナルド一人でどうこうできる状態ではないのは一目でわかった。アレックスを睨みおろすとその背が小さくなったように見えた。