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ツンと鼻を刺すような肌寒さを感じる朝の森はまるで別世界のように静かだった。日の光も十分に届かない森の、踏みしめる朽葉の下で息をしている大地すらもいまだ微睡みの中にあるようだ。
薄い霧のかかった視界は悪く、土へと変わる腐った葉の臭いも苔の蒸した臭いもどこか拭いきれない不気味さをかきたてる要因の一つだろうか。
水瓶を抱えて運ぶ年頃の娘が一人、舗装などされていない人の足で踏みしだかれただけの道を歩いている。森の奥から湧き出てて、麓の街へと届く頃には大きな川へと成長をとげる源流付近の清き水を求めてだ。
生成りのブラウスは華美な装飾はない丸襟で、その襟を覆うようにペイズリー柄のスカーフで首もとを飾っている。草から取れる染料で染め上げた赤みのさした茶色いトラウザーズの裾を鞣し革の編み上げのブーツへと入れた凛とした出で立ちは遠目に見れば少年のようにも見えるだろうか。
長い砂色の髪を無造作に後ろで縛るのも、可憐な女性の愛するレースの類いでもなければ鮮やかな色合いのリボンでもない。護身用にと携えられているのだろう、腰のベルトに下がる大ぶりのナイフもまた年頃の娘には不似合いな代物だった。
護身用、とはいっても彼女がそのナイフを抜くことはそうそうない。せいぜい蔦を切ることや木の皮を剥ぐことがナイフの主な用途である。そもそも騎士の名を背負う屈強な男でもない彼女が薄紫に染まる朝焼けの中を一人で歩ける森なのだ、何があるわけでもない。
彼女のブーツが踏みしめる道は朽ちた葉の絨毯から硬い石へと変わっている。この辺りはまだゴツゴツとした岩石が露出した脚に優しくない道なのだが、もう少し歩けば木々が途切れる所へと指し当たる。そこまでくれば川の水流に角をとられ丸くなった石が多く、だいぶ歩きやすくなるのだ。
足の裏に感じる痛みも少しずつやわらかい物へ変わっていく。さあ、水を汲んだらすぐに村へと戻ろう。気合いを入れ直すようにその娘が一つ息を吐いたその時、霧で視界が悪く数歩先も見えない川の方から水音が聞こえてきた。
川の流れる音ではない。水の中で何かが動いているような、しかし魚が跳ねる音でもない。水瓶を木の根元へと置くと腰のナイフを抜き、重心を低く下げ足音を立てぬよう川の方へと歩みを進める。
音の大きさからして小型の動物ではなさそうであった。わずかに日の光が射し込みはじめ、少しずつ霧が晴れ始めた川にいたものを目にして彼女は動きを止めた。
「これは」
森の中から現れた娘を見てしばし呆けていたそれ──一人の青年であった──は恥じ入ったように川から上がると荷物の上に投げ出してあった布、おそらくシャツだろうそれを腰に巻き両手を肩のあたりへと上げて娘を見つめた。
「お見苦しいところをお見せしてしまって申し訳ない、見ての通り私は旅の者です。敵意はない、どうかその物騒なものをしまっていただけないだろうか。それから、もし叶うなら服を着る時間もほしい」
気を荒立ててはならないと柔らかくゆっくりとした口調で伝えたが、その娘はピクリとも動こうとしなかった。
「もしかすると、言葉が通じないのか? こんにちは、失礼、はじめまして。私の言っていることはわかりますか? わかるならなんでもいい、返事をしてほしい」
「言葉はわかる。お前はずいぶんと東方の訛りが酷いようだがな。服が着たいなら早く着たらどうだ」
「服を着たいから、あー、少しの間背を向けていてほしい。いくら霧で視界が悪いとはいえこの距離ではその、見えなくもないだろう?」
「まさか裸体が恥ずかしいとでも言うのか、生娘でもあるまい」
しっかりと握っていたナイフをベルトのシーフへと戻した娘は胸の前で腕を組むと事も無げに言い放ってみせた。その視線は青年の体から離れることはない。
水を含んだ髪は黒く艶やかな巻き毛で短く切り揃えられているがどこか品がある。その頭の先から撫でるように視線をおろしていけば広大な川へ沈む夕日のような深いブラウンの瞳。
そのまま喉元を通って胸から腹へと視線を動かしていくとその肌の美しさにほう、と息が漏れた。磨きこまれた木製品を思わせる褐色の肌を伝う水すらもその異国の匂いを引き立てる宝飾品のようだ
ついに耐えきれなくなったのか、両腕で自身の体を抱くようにして座り込んだ青年を見ているとどうにも悪いことをしているような気がする。彼女は先ほどとは違う意味合いの吐息を漏らすとくるりと川辺に背を向けた。
「木立の側へ置いてきた水瓶を取りに行く。戻ってくるまでに服を着ておくといい」
返事こそなかったが、背後で衣擦れの音が聞こえてくるので慌てて衣服を纏っているのだろうことが容易に想像できた。すぐ側へ置いてきたので戻るまでに時間はかからないだろう、不躾にじろじろと見つめてしまった詫びにと少し歩調をゆるめることにする。
彼女も悪意があってそうした訳ではないのだ。もし立場が逆であったなら、と思うと自分の非礼を改めねばならないと思い至る。ただその肌の色は、彼女が住むこの辺りでは非常に珍しいのだ。
彼女の住む地に住まうのは白い肌か、もしくは褐色よりも黒に近い肌の人間たちばかりである。世界には褐色の肌や黄みがかった肌の人間もいるらしい、と世界を飛び回る父から話に聞いただけの彼女にとっては貴重な体験だ。
「黄金の海の民だろうか」
海の向こうにある大陸の、灼熱の国の話を聞いたことがあった。その国は太陽に愛され、いや、愛され過ぎた故に水が貴重で作物が育ちにくい土地なのだという。そこに住まう人々は厳しい日差しに負けぬ美しくも強かで艶やかな褐色の肌をしているらしいのだ。
小さな村で暮らす彼女にとって話には聞いたことはあっても、一生出会うことはないだろうと思っていた人種であった。物語に出てくる幻の存在であり、一種の未知の生物なのだ。
遠い遠いその国は様々な物語の舞台になっている。太陽に照らされた金色の砂の海を泳ぐように進む不思議な船、人を背に乗せて悠々と歩く大きな二足歩行の鳥類、魔物を倒す義と勇気ある盗賊の王、美しい宝飾品を纏う美しい姫君としがない民の秘めやかな恋愛譚もあった。こんなところでそんな存在と出会えるなんて誰が想像できようか。