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不意に銀の光が見えた。胡夜は懐に隠し持っていた匕首を引き抜く。細い両手で握りしめたそれを、李高目がけて切っ先を振り下ろす。その異変に気が付いた楽人たちが楽器の演奏を止める。李高はとっさに体を持ち上げ、胡夜の振りかざす短刀を避けようとする。いくら前線に出るのが苦手であれ、武官の職を得ている李高である。剣を握るのに慣れない女子どもの手に掛かって死ぬような間抜けな自分ではないという自負心がある。そのため胡夜の握っていた匕首を避けるのは容易であり、いくら刃を向けられたと言っても李高自身は冷静だった。
(胡夜も同胞への復讐心から刃を握りしめているのだろうな。こんな年端もいかない子どもが俺に刃を向けるか)
李高は胡夜の境遇を王賢から聞いている。同情心こそあれど憎しみは沸いてこない。もしも李高が胡夜の立場であれば、同じように敵兵に復讐心を持つであろう。
胡夜の白い手が、金の髪が、紅潮した頬が、深緑色の碧玉のような瞳が、月明かりの下にいてもはっきりと見える。直前までその刃を軽々と避けられると信じていた李高は、胡夜と目が合い動けなくなった。今までずっと感情を宿していなかった瞳から様々な感情が読み取れたからだ。怒り、憎しみ、孤独、不安、そして悲しみ。胡夜が心の内に秘めている感情は李高自身と同じだった。
(胡夜もずっと孤独だったのか)
李高は胡夜に同情してしまった。そのためとっさに体が動かなかった。その心が李高に隙を作った。
「ぐっ」
胡夜の握りしめた匕首が李高の胸に刺さる。李高は敷布の上に再び膝をつく。唇を噛みしめて口から漏れる声をかろうじて押しとどめる。ここで声を上げるのは李高の武官としての誇りが許さない。李高のすがるものと言えばそれくらいしか残っていない。
楽人たちが代わって悲鳴を上げる。宴の華やかな空気は消え去り、悲鳴と怒号とが飛び交う。
「だ、誰か!」
「李高さまが刺された」
「その異民族の女を取り押さえろ!」
楽器を奏でていた楽人の大人が数人、胡夜を捕えようとこちらに向かってくる。胡夜は李高の胸に刺さった匕首を握りしめている。こちらに向かってくる楽人たちを振り返る。李高は胸に広がる痛みに耐えながら、胡夜に語りかける。
「俺が憎いか、胡夜。両親や家族を殺した俺たちが憎いか」
異民族である胡夜がどれくらい自分たちの言葉を理解しているのかはわからない。もしかしたらまったく言葉が通じないのかもしれない。それでも李高は胡夜を諭さずにはいられなかった。
「俺を殺すか。その機会を窺っていたか。ならば殺すがいい、胡夜。俺がお前の立場なら、俺もきっとそうしていたはずだからな。お前にはその権利がある。これ以上失うものが無いお前は、最早復讐心しか残っていないのだろうな」
胡夜からしたら何をわかった風を、と怒るかもしれない。何も知らないくせに、と怒鳴るかもしれない。李高にとってそれでも構わなかった。孤独でいるのは胡夜一人だけでないことを訴えたかった。
李高は自分の胸に刺さった匕首に触れる。その上に手を置く胡夜の手を握りしめる。穏やかに笑う。
「お前の舞は素晴らしかったぞ、胡夜。これ以上お前の舞が見れないのは残念だ」
思うように体に力が入らず、李高は胸を押さえて敷布の上に崩れ落ちる。戦場で何度も死にそうな怪我を負いながら生きながらえてきた李高だったが、今度ばかりは駄目かもしれない。ひゅうひゅうと喉の奥が低く鳴り、幼い頃に何度も経験した持病の発作のような症状が現れる。体に力が入らず、呼吸をするのさえ苦しい。
(俺はここで死ぬのか)
少年の頃に幾度となく問い掛けた問いを繰り返す。そばには胡夜が呆然とした表情で立ち尽くしているのが見える。まじまじと自分の手の平を見下ろしている。
(自分の死に場所は戦場だと思っていたが、ここで死ぬのも悪くない)
李高が痛みに耐えつつ胸を押さえていると、屋敷の方から声が上がる。
「李高!」
聞き間違えようが無い。友人の王賢の声だった。
「李高、刺されたのか? しっかりしろ!」
足音と共に声が近づいてくる。李高は頭の端で王賢のことを思う。
(友である王賢に俺の最期を看取ってもらうならば、俺の最期もあながち悪いものではなかったな)
穏やかな気持ちを胸に李高は目を閉じる。瞼の向こうに暗闇が落ちてくる。不意に風が吹き、どこからか桃の花の強い香りが漂ってくる。
気が付けば李高は幼い少年の頃に戻っていた。寝所の窓から庭の桃の古木の花が風に散る様を眺めている。届かない夢としてあの桃の木を見上げている。徐々に周囲の景色が白み、窓から朝の光が差し込んでくる。
今ならあの桃の木に触れそうな気がした。少年の李高は布団をはねのけ寝床から立ち上がる。裸足のまま自室の窓枠を飛び越え、李高は庭へと降り立つ。柔らかな地面の感触が足の裏から伝わってくる。少年の李高は自由に駆けまわれる喜びをかみしめ、一目散に桃の古木の根元まで走って行く。小川を飛び越え、石に足を取られないように注意を払い、朝の光溢れる屋敷の庭を無我夢中で駆けて行った。
おわり