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露台から見上げる夜空の月は白く霞み、空には雲がかかり始める。折角花開いた木々も、ひとたび雨に当たればその花びらを散らしてしまうだろう。この春先にどんなに美しい花をつけても、雨が降り続けばその花弁は水を含み、地に垂れてやがて腐ってしまうだろう。
あの春の日と今とを繋ぐものは李高の首に下げられた薬袋が一つ。そこには李高自身が処方し、毎日飲み続けている丸薬が入っている。かつて名医が屋敷を訪れた際に処方してもらった薬を李高自身が教えてもらい、ずっと作り続け飲み続けている。桃の種から作られるその薬は咳止めに効くと言われているが、その他数十種類の薬草を混ぜ合わせる必要があり、幼い李高はその作り方を覚えるのに必死だった。病に対する恐怖が幼い李高を突き動かし、今では材料調達から丸薬作りまでを完璧にこなせるようになった。
都に出て十数年。李高は風流を感じる心のゆとりも無く、武官としての仕事をこなしてきた。故郷にいた少年の頃の、季節の移り変わりを感じる繊細な心に蓋をしたまま、血生臭い戦場を駆けまわる日々が普通になっていた。異民族の首を何人あげたとか、何人の捕虜を捕えたとか、武官としてどれほどの戦功をあげたかが李高自身を判断する基準となっている。都の暮らしではそれが当たり前になっていた。
月を見上げていた李高は、露台に視線を落とす。表情の無い胡夜が主人の李高がかえりみようともしない舞を独りで舞っている。
李高は嘆息する。つくづく美しい舞だと思う気持ちもある反面、そんなものが何の役に立とうかという反発心も感じる。情緒豊かな病気がちのあの少年は、風流を解さない無骨な青年へと成長していた。李高は胡夜の美しい五色の布のひるがえる様を見て思う。
(そういえば、胡夜は三年前の大遠征の時に連れて来られた異民族の捕虜だと王賢は言っていたな。胡夜はあの時の大遠征の時に戦場にいたと言うことか)
李高も三年前の蓮丹将軍の大遠征に参加している。武官として登用された以上は上の命令に従うのが務めだが、時として不要と思われる戦も何度か経験する。異民族から国を守るため、民の安穏な生活のためだと思って仕官したが、年を経るごとに様々な疑念も沸いてくる。
三年前の大遠征の戦いは実際、およそ戦いとは言えないものであった。蓮丹将軍率いる数万の大軍は異民族の軍とは真っ向からぶつからず、あらかじめ異民族の軍が通る道を調べて罠を張った。そして両軍が対峙する頃には、異民族の軍は半分以下へと数を減らしていた。後は一方的な虐殺だった。勢いづいた蓮丹将軍の大軍は都へと攻め入った。異民族の都には火が放たれ、人々は逃げ惑い、財産は強奪され、あちこちで一般人の殺戮が行われた。都には怨嗟の声が満ち、焼け跡には黒焦げの家屋や遺体だけが残った。李高は武官としてさまざまな戦場に従軍して来たが、これほどむごたらしい一方的な虐殺は他に見たことがなかった。
李高は大遠征の折、蓮丹将軍の下で一介の武官として作戦会議の末席に同席していた。戦場の地形の下見に何度も足を運び、どんな場所にどんな罠が向いているか考えた。蓮丹将軍の勝利に一役買っていると言っても過言ではない。その功績が認められて、李高はさらなる高位の役職を勧められたが、李高は年若い自分が年長者の武人を差し置いて出世は出来ないとやんわりと断った。
あの日の戦場を李高は忘れることが出来ない。時々李高はあの日のことを悪夢に見る。血生臭いあの日あの場所の風の臭いが自分にまとわりついて離れないでいるように思う。
(胡夜はあの恐ろしい戦場にいたのか)
目の前で美しい舞を舞うこの年端もいかない少女は、まだ十を少し過ぎたばかりに見える。この幼い身であの恐ろしい戦場を経験したとなると、その恐怖から感情や言葉を失っても不思議ではないだろう。敵である都の人々を信用できなくなっても仕方がないだろう。
李高はわずかな同情を目の前の少女に向ける。胡夜の境遇を自分の自らの置かれている境遇と重ねる。家族を失い天涯孤独という点では、李高も胡夜と似通っている。
李高はおもむろに白い杯を掲げる。杯越しに胡夜の姿を捉える。そうして見ると胡夜や楽人の姿も露台の向こうに広がる春の景色も、杯の中に収まってしまいそうなほど小さく見える。まるでこの春の景色も夢幻のように儚く消え去ってしまうかのようだ。現に李高自身も武官である以上、いつ何時戦場で命を落とすかもしれない。自分が死んでしまえば、所詮この世は夢幻の類であるのかもしれない。
李高は白い杯の酒に天上の月が映り込んでいるのを見てとる。彼は病を心配して酒はほとんど飲まない。宴に呼ばれても料理ばかり食べて、酒にはほとんど手をつけようとはしない。同じ武官たちからは、李高は身を高潔に保つために酒を飲まず女も絶って、あいつは仙人にでもなるつもりだと笑われるほどだ。家族が亡くなり、目標を失ってしまった。
(俺はこの先、どうしていけばいいんだろうな。身寄りも無く家族も無く、これからどうしていけばいいのだろう)
李高は心の中でつぶやく。思えば自分はあの春の日からまったく変わっていない。ただ生きたいと願い、生きるために闇雲にもがいているだけだ。桃の花の散る様を見つめていた少年のあの日から何一つ変わっていない。
(俺は生きるために他の多くのものを犠牲にしてきたのか)
あの大遠征の虐殺を見た日から、李高の悩みは深くなった。こうして戦場から生きて帰って来る度に、生を噛みしめる度に思う。李高はあの日から何も変わっていないのではないか。自分の病が良くなる代わりに、多くの者を犠牲にして生き長らえているのではないか。自分が生き残る代わりに、死ななくても良い人々が死んでいるのではないか。李高は時々どうしようもない罪悪感に襲われる。
それはきっと普段李高が蓋をしている少年の頃の繊細な心持ちがそうさせているのだ。思わず李高は首から下げている服の下にある薬袋に手をやる。そこには李高の持病を緩和させる丸薬が入っている。それによって李高はこの十数年の間命を長らえることが出来たのだ。この薬がなければとっくの昔に李高の命は尽きているに違いない。齢十にも満たないうちに死んでいるに違いない。それを思う度に李高は名医に巡り合えた幸運を喜ばずにはいられない。
しかし実際病弱だった自分が生き残り、病とは縁のなかった父母や兄達が流行病で亡くなる現実に遭い、李高の悩みはますます深くなった。運命とは天が決めるものだと李高は信じているが、何故天は李高ではなく彼らの命を奪ったのだろうか。
李高は再び天上の月を振り仰ぐ。この運命は天が決めたにしてはあまりに残酷ではないか、と彼らと自らの運命を嘆かずにはいられない。
視線を地上に戻すとふと胡夜の舞が目に入った。彼女の姿が目の前まで迫ってきている。その感情を映さない深緑の瞳に一瞬生気のようなものが宿ったように見える。胡夜は身をひるがえして、敷布の上に座する李高との距離をさらに詰めてくる。李高はその行動にわずかな違和感を覚える。