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桃の花が咲いている。淡い花びらははらはらと風を受けて散り落ち、庭の池の暗い水面に色を添えている。
(目に見えない風が吹いているのだろうか。桃の花があんなに花びらを散らしているということは)
少年はふとそんなことを考え、部屋から桃の花の散る様に目をやっている。
この庭では春先に咲く花木の古参となった桃の木は、少年の住む屋敷の部屋から見える庭の一角に生えていた。この桃の木は先々代の当主が一族の繁栄を願って手ずから植えたと伝えられる。長年の風雨や寒暖に耐えて年を経た桃の木の根元は苔が生え、幹はうねり、岩をがっちりとつかんで古木の相を呈している。そんな桃の木であるから、近所ではちょっとした評判となり、父の知り合いや文化人たちが、桃の木を見にはるばる屋敷を訪ねてくる。つい昼頃にだって、この桃の木を前に文人や士大夫たちが集って詩作に励んでいるのを、少年は薄暗い部屋の中から明るい景色をじっと眺めていた。
少年のいる部屋からは庭だけでなく、ようやく芽吹いたばかりの木々の若緑や、遠くに春霞に煙る高い山々が見える。朝早くに鳴き始めるにぎやかな鳥たちや、夜の帳が降りる頃に聞こえる山の獣たちの声も、山々を木霊して少年のいる屋敷にまで届く。夜空を見上げれば高く上がった月が暗い濃紺の闇を白い光で照らしている。
少年はごほごほと小さな咳をする。
春先とは言え夜風は冷たく、露台から吹き込む夜風は少年の体に障るのだろう。寝床から上半身を持ち上げて庭を見つめていた少年は、黙って布団を手繰り寄せる。寝床に横たわり布団を首までかけて枕に頭を乗せる。横になりながらも眠りに落ちることなく、少年の黒い瞳は庭の桃の花が散る様に向けられている。
「次の春は迎えられない、か」
少年の小さな口からは溜息と共にそんな言葉がこぼれた。今日の夕方に屋敷を訪れた薬師がそんなことを言っていた。少年は生まれつき肺の病に侵されていた。心配した両親が様々な高名な医者を各地から屋敷に呼んでは、少年の病の治療法を探った。しかしどの医者も少年の症状を見るなり良い顔はせず、治療法も見つからなかった。病の原因も治療法もわからないまま月日だけが過ぎ、少年の肺の病は少しずつ悪化していった。ついには今日来た薬師に、来年の春まではもたないだろう、と言われた。
少年は枕に頭を預け、白々と地上を照らす月を見上げる。少年らしくない落ち着いた態度で小さく笑う。
「あの桃の花も、きっとこれで見納めだな。結局私は元気になって野原を走り回ることも、あの山に登ることも、あの山の麓の里にも行くことも出来なかった。山のそばを流れる河にも魚を捕りに行くことも、鳥獣を捕まえることも出来なかった。私は結局何も出来ないままなのだな」
いくら嘆いたところで少年の体が良くなる訳では無い。自由に走り回れるようになる夢は幾度となく見たが、それもとっくの昔に諦めている。少年が自由になれるのはせいぜいこの部屋の中、体調の良い日に屋敷の庭を歩き回れる程度だ。それ以上のことは望みようも無かった。
「私は、この部屋から出られないまま死ぬのか」
声に出してみると、急に自分の死に対する実感が沸いてくる。死ぬのが恐ろしく思えてくる。いくらずっと伏せっていたからと言って、自らの死を受け入れた訳ではない。いくら大人びていても年端もいかない少年、老爺のように死を静かに受け入れるほど達観してはいなかった。
少年は布団を頭までかぶり涙を流す。夜空には煌々とした満月が輝き、庭の桃の木の花びらが音もなく舞い散っていた。少年は家人に気付かれないように声を殺して泣いていた。齢十にも満たない春のことだった。
庭に面した窓からは桃の花の良い香りが漂い、白い月光が降り注いでいた。