7.再会
ライツに見送られたフェリクスとイルメラは、また陽が沈んだのち行動を開始した。
異世界とはいえ、四日目ともなると多少は慣れてくる。
『扉』から降り立った日は、「どこから湧いてきたのだ!」と絶叫で問いたくなるような人の波に大層驚いた二人だった。
彼らの故郷であるウォクオートも獣人界では大きな方だが、さすがにここまで人が密集しているのは見たことがなかったのだ。今ではその時の驚愕が既に懐かしいと思えてしまうほど、順応していたが。
通りを行く車の大群にも慣れたし、勝手に開くコンビニの自動ドアにも驚かない。
異世界の文明に、既に二人は染まりつつあった。環境に対する適応力が高くないと、野性では生きていけない。獣人はその点に関しては、人間より遥かに高いものを秘めていた。
「ん、あの娘……」
突如イルメラが呟き、足を止める。彼女の視線の先には、先日不良から助けた少女――桃園霧羽が歩いていた。
服装は白のチュニックにデニムのスカートと昨日とは異なっていたが、あの艶の良い黒色の髪と愛らしい顔立ちは見間違いではないだろう。
「あれ、霧羽ちゃんじゃないか。またこんな時間に出歩いちゃって。おとなしそうな娘なのに、なかなか困ったちゃんなのかね?」
フェリクスの顔を見やりながら、肩を竦めるイルメラ。フェリクスも桃園霧羽に視線を送る。彼女に何か事情があるのだということは、フェリクスも容易に想像できていた。やはり今日も、彼女からは微かに刃物の匂いが漂ってくる。
しかし、それはあくまで彼女の事情だ。こちらからあえて首を突っ込むことではない。何より、自分たちは残りの犯罪者たちを見つけなければならない。
無視してこの場を立ち去ろうとするフェリクスとは逆に、イルメラは彼女の方へと近付いて行く。
「おい」
フェリクスの制止の声も、既にイルメラには届かない。興味を持ったモノには何かと飛びつく赤毛の相棒に、フェリクスのこめかみと口元が、同時にピクリと痙攣した。
「霧羽ちゃん」
いきなり名を呼ばれた霧羽は、肩を震わせて振り返った。少し怯えたような光を湛えていた目は、二人の姿を見た瞬間、元の穏やかな輝きを取り戻す。
「えっ、あっ!? 鷹来さんに、狼上さん……でしたっけ。あの、昨日は本当にありがとうございました」
昨晩と同様に、霧羽は腰を深く曲げて二人に礼をした。
「お礼はもういいよ。それよりどうしてまた、こんな時間に出歩いているんだい? また変な人に絡まれちゃうかもしれないよ」
「そ、それは、その。さ、探し物をしていて……」
イルメラの直球な質問に霧羽はたじろいだ。目がわずかに泳いでいる。しかしイルメラは、彼女の様子にまったく気付くことなく続ける。
「探し物? 何か落としちゃったの? 良かったら手伝ってあげるけど」
「ちょっと待て」
明らかに不機嫌なフェリクスの声に敏感に反応したのは、イルメラではなく霧羽だった。
「いえ! さすがにそこまでお世話になるわけには……! それよりどうして、鷹来さんたちも外出を?」
霧羽は淀みなく言葉を滑らせ、渋々と追いついたフェリクスを見やる。しかし何かに気付いたように、そこで彼女の目が大きく見開いた。
「あっ――。し、失礼しましたっ。その、無粋なことを訊いてしまって」
少し上擦った声で言った後、頬を紅潮させた霧羽。どうやら彼女は、フェリクスとイルメラを『そういう関係』だと認識してしまったらしい。霧羽の少し熱っぽい視線に気付いたイルメラが、慌ててパタパタと手を横に振った。
「ち、違うから!? あたしとこいつはそういうんじゃないから!」
「俺とこいつが? 勘弁してくれ」
眉を八の字に下げ、心底嫌そうな口調で言うフェリクス。負けじとイルメラも、これみよがしに不快そうな顔をフェリクスに見せた。
「霧羽ちゃんあたしらはね、い、従姉弟なんだよ。似てないってよく言われるんだけど。あ、あたしの髪の色、これ、染めてるだけだから。目もカラコン? ってやつねアハハ……」
「そ、そうなんですか。昨日もご一緒でしたので早とちりしてしまいました。すみません……」
しどろもどろなイルメラの説明だったが、それでも霧羽は納得したらしい。ほんの一瞬、彼女の表情がホッとしたものになる。しかし、二人はその表情の変化に気付くことはなかった。
何とか誤魔化すことができたイルメラは、口の中だけで安堵の息を吐く。
「あの、ここで再会できたのも何かの縁だと思うのです。どうか私に、昨日のお礼をさせてください」
改めて、小さな頭を深々と下げる霧羽。イルメラは視線だけを動かして、フェリクスの顔色を伺う。フェリクスは諦めたように小さく溜め息を吐くと、おもむろに口を開いた。
「仕方がない。どうしてもと言うのなら、あそこの店でお前に奢ってもらおう」
「えっ!?」
フェリクスが指差したのは、深夜まで営業しているファミリーレストランだった。彼の青い目は、ショーウィンドウの中に飾られた食品サンプルの内の一つを、真っ直ぐと捉えていた。
それは、果物やお菓子などで豪華に飾られたチョコレートパフェ。霧羽はフェリクスの指先にある物体を、目を丸くして見つめていた。
「どこまで甘い物が好きなんだい……」
フェリクスに聞こえないように呟いたイルメラは、脱力しながら深い溜め息を吐くのだった。
平日の夜とあってレストラン内はそれほど混雑はしておらず、店内には落ち着いた空気が広がっていた。家族連れが二組と、二、三人の若者のグループが四組ほど食事を取りながら談笑しているだけで、大きな喧騒にはなっていない。
テーブル席に案内された三人は、フェリクスとイルメラが並んで座り、向かい合うようにして霧羽が座った。
人数分の水を運んで来たウェイトレスに、すぐさま先ほどのパフェを注文するフェリクス。間髪入れず注文をしてきたフェリクスに、アルバイトらしき若いウェイトレスは、愛想と苦笑の入り混じった笑顔を浮かべていた。
「私たちはまた後で頼みます」
霧羽がそう言うと、ウェイトレスは「かしこまりました」と小さな声で告げ、厨房へと戻って行った。
「それにしても、はぁー。中はこんなふうになっていたんだね」
初めて入る飲食店に、イルメラは物珍しげにキョロキョロと周囲を見回す。ライツが生活に必要な物をほとんど揃えてくれるので、こちらの世界に来てから、二人はまだコンビニしか行ったことがなかったのだ。
「このお店、初めてなんですか?」
メニュー表を開きながら笑顔で霧羽が問う。イルメラは少し戸惑った。彼女が言う『初めて』の意味は、イルメラの考えているものとは少し違う。
「あぁ。初めてだ」
言葉を出せないイルメラの代わりに、フェリクスが答えた。
「実は、私もなんです。ファーストフード店なら平気なんですけれど、一人ではなかなかこういうお店は入りづらくて」
「一人って? 霧羽ちゃんほど可愛い子に彼氏がいないなんて、俄かには信じられないよ」
イルメラの言葉に、霧羽の顔がわずかに紅潮する。
「そ、そんな。鷹来さんこそスタイル良くて、凄く美人で。その、私なんて――」
「またまたぁ。嬉しいこと言ってくれちゃって。でも実際どうなの? 告白とかされてんじゃないの?」
急に始まった少女二人の恋愛談義。種族は違えど、そこはやはり通じるものがあるのだろう。会話に混じることができないフェリクスは、居心地悪そうに視線を逸らしてやり過ごすしかない。
「告白は……その、何度かされたことはあるのですが……」
「あぁ、やっぱりそうなんだ。でも、その言い方は断ってるってこと? 全員好みじゃなかったとか?」
「えっと、まぁ、そんなところです」
霧羽が困ったように微笑んだところで、ウェイトレスがパフェを持ってやってきた。
外で見た食品サンプルの通り、カットされた様々な果物と市販のクッキーがあしらわれている。
ウェイトレスがフェリクスの前にパフェを置くと同時に、フェリクスはスプーンを手にしていた。その目はまさに、獲物を前にした肉食獣の如し。しかし彼の目の前の獲物は、草食動物ではなくパフェだ。彼の様子を見たイルメラは思わず脱力しながらその場に突っ伏したくなったが、かろうじてそれは堪えた。
その間に霧羽がアイスティーを注文し、イルメラもそれに乗じる。
店員が踵を返すと、フェリクスはすぐさまパフェを掬った。小さなスプーンの上に零れんばかりに乗ったパフェは、フェリクスの口の中へ。すぐに飲み込むと、また結構な量を掬い、口へと運ぶ。
フェリクスは表情が硬い。硬いのだが、それでも彼の心の声が聞こえてきそうなほどの良い食べっぷりだった。仮に今獣人の姿になっていたら、すました表情で尻尾をはち切れんばかりに振っていたことだろう。
「狼上さん、本当に甘い物がお好きなんですね」
「そうだね……」
小声で話し掛けてくる霧羽に、イルメラはなかば投げやり気味に答えるのだった。
霧羽を含む三人は、信号のない小さな交差点の前で向かい合わせで立っていた。
「霧羽ちゃん、ここで良いの?」
「はい。家はすぐそこですし。わざわざ送って頂いてありがとうございました」
もう何度目になるかわからない、霧羽のお辞儀。それでも、彼女のお辞儀は毎回嫌味がなく、丁寧だ。
店から出た後、フェリクスとイルメラは霧羽を家の近くまで送ることになったのだ。奢ってもらっておいて即「はい、さようなら」をするほど、フェリクスも冷淡ではなかった。
霧羽が顔を上げると、フェリクスが相変わらずの仏頂面のまま口を開いた。
「霧羽、とか言ったな」
「は、はいっ」
初めてフェリクスに名を呼ばれた霧羽は、緊張した面持ちで姿勢を正す。
「また、奢られてやらんこともない」
「……はい。わかりました」
そんな図々しいフェリクスの言葉にも、穏やかに微笑む霧羽。
「すっかり餌付けされてるし」
これが獣人王直々に育てられた男の姿なのかと、イルメラの心はやるせなさでいっぱいになるのであった。
「それじゃあ、これで失礼しまっ――!?」
霧羽が向きを変えた瞬間――彼女はバランスを崩し、転倒してしまった。
何かに躓いたわけでもない。靴もヒールではなく、平らで安定感のある物を履いていたというのに。
「何もない所で転ぶなんて、霧羽ちゃんってちょっとドジだねぇ」
苦笑しながらイルメラが霧羽に肩を貸した、その時。
キン――。
高い金属音と共に、彼女の足元に何かが転がった。
顔面を蒼白にした霧羽は慌ててそれを拾い上げ、胸に抱くようにして隠す。だが、イルメラもフェリクスも、既にそれが何であるのか、しっかりと見てしまっていた。
「霧羽ちゃん、それは――」
「――――っ!」
イルメラの手を振り解き、人がまばらになった通りを、霧羽は唇を噛みながら駆けて行ってしまった。
「あ、霧羽ちゃん!」
「よせ」
「フェリクス。でも今の見ただろ? あの娘――」
「彼女が何を隠し持っていようが、俺たちには関係ない。俺たちは残りの犯罪者共を見つけ出す。それ以外に優先することなどない」
「…………」
霧羽が落としたのは、折り畳み式のサバイバルナイフだった。見間違いなどではなかった。
礼儀正しく、気も弱そうな彼女が隠し持つ、ナイフ。それが意味することは何なのか。
人を傷付けるような人間には見えなかった。まさか、自傷しようとしているのだろうか。それにしては彼女の態度は明るく、思いつめた様子はなかった。
「霧羽ちゃん。一体、何のために」
囁くようなイルメラの呟きは、通りを行く車の排気音に掻き消された。