6.過去を抱いて眠る
ベッドの上で寝返りをうったイルメラ。目は閉じられているが、眉間には皺が寄っている。彼女はなかなか寝付けないでいた。
既に日は昇っている時間だった。カーテンを閉めていても、生命の源である日の光は遮断できるものではない。
こちらの世界に来てからは、完全に昼夜が逆転していた。鳥族であるイルメラには、この生活は少々きつい。それでも、彼女は耐えていた。全ては獣人王からの勅令のため。
眩い光から逃れるように、毛布を頭まで被った彼女の脳裏に過ぎるのは、遠い日の憧憬。
イルメラは、気付いたらスラムに一人でいた。捨てられたのか、それとも両親は不幸な事故にでも遭ってしまったのか。そのあたりの事情は、まったく思い出せなかった。
月日が経っても思い出すことはなく、小さい頃の記憶はないままだ。自分の身に何が起こったのかは定かではなかったが、一人で生きなければならないことだけは、確かな現実だった。
イルメラは、必死に生きた。
泥水を啜り、残飯を漁る毎日。野鼠も捕まえて食べたことも、一度や二度ではない。
同年代のスラムの子供と、争いもした。ほとんどがイルメラよりも体格の良い男の子だったが、イルメラは何度も相手を負かしてきた。その行動が、イルメラをより孤立させていく。
みすぼらしいと言われても、男勝りだと言われても、乱暴だと言われても、そんな言葉は彼女の心を傷付けるようなものではなかった。スラムの中で、一日一日を過ごすので精一杯だった。
それを知ったのは、偶然だった。
酔った初老の獣人に襲われかけたのがきっかけだった。気付いたら彼女の翼は、その獣人の血で赤黒く染まりきっていたのだ。彼女が初めて異能に目覚めた瞬間だった。
ああ、きっとこれが原因で、自分は捨てられたのだ――。
わかったところで、彼女はその力に頼らなかった。これまでの生き方をまったく変えなかった。
数年後、どこで聞き付けてきたのか。彼女の能力が評価され、城を護る兵にスカウトされた。
獣人の中には稀に、イルメラのように特別な能力を持つ者が現れる。獣人王はそのような能力者たちを自身の周りに集めている、とのことだった。イルメラは迷ったが、衣食住が保障される生活とあって、その誘いを受けることにした。
この世界を牛耳る、絶対的覇者である獣人王。その城での生活がスタートした。
城に仕える兵士は皆、強者揃いであった。イルメラのように『能力』を持っている者は少なかったが、それでも獣人界で頂点に近い者たちばかりが集っていたのだ。自分がその中の一員となれたことに、イルメラは誇らしさを感じていた。スラムの出の自分でもやれることがあるのだと、自信も湧き上がっていた。
城に勤め始めてから幾日か経った頃、イルメラは初めて、廊下で獣人王の姿を目にした。
片膝を付き、頭を深く垂れ、かの覇者が歩き去るのを待ち続ける。胃を鷲掴みにされたような、今まで感じたことのない緊張感。その緊張がピークに達しようかという時だった。
突然獣人王は、イルメラの前で歩みを止めたのだ。
「主の羽は、良い色をしているな」
穏やかな声で言う獣人王。それは獣人王にとっては、何てことのない、ただの世間話のつもりだったのかもしれない。しかしイルメラにとってその言葉は、全身が痺れるほどの歓喜と震えをもたらしたのだ。
今まで彼女は、誰にも容姿を気にかけられたことなどなかった。自身の能力以外のことでそのような声をかけられたことなど、なかったのだ。
この時、イルメラは強く決意した。何があっても、獣人王のために仕えていこうと。
「獣人王様……」
毛布の端を握り締め、イルメラは切なく呟いた。
この気持ちは、恋とは違うものだと断言できる。ただ何かと問われても、はっきりと答えることはできない。憧れや尊敬、忠義心と言い切ってしまうには、少し物足りない気もする。もっと様々な感情が入り混じった、複雑なものだ。
フェリクスのことは、正直羨ましく思っている。獣人王に拾われ、育てられたという彼。自分も孤児であるというのに、どうして彼だけが獣人王に拾われたのだろう。
(ダメダメ。そんなこと考えてたらダメだってあたし)
やっかみだとはわかっていても、一度噴き出してしまった気持ちはなかなか抑えられない。イルメラは脳内に浮かんだフェリクスの姿を、必死で追い払った。
彼女はまた体勢を変える。頭に浮かぶのは、寝る前にフェリクスらと話していたことだ。
確かに、フェリクスの言う通りだと思った。
厳重な牢の中にいた犯罪者たち。逃げ出すにしても、段取りが良すぎる気がした。彼らの脱獄を手助けした人物は、間違いなくいるだろう。
獣人王の身に、危険が迫っているかもしれない。そう考えてしまうと胸の奥がざわつき、痛い。
「どうか、ご無事で……」
強く祈りながら、イルメラは眠りに落ちた。
同じ頃。フェリクスもまた、眠れずに物思いに耽っていた。頭に浮かぶのは、自身がまだ幼かった頃のこと。
何の因果か、獣人界の巨大都市ウォクオートに君臨する王に、フェリクスは拾われた。そのことが原因で、自分が城の内外から様々な妬みを受けていることなど、既に承知している。しかし、彼はまったく気にしてなどいなかった。何を言われようが、過去は変えられないのだから。
拾われた時のことは、瞼を閉じると瞬時に思い出すことができる。
強烈な血の臭いと腐臭が漂う中に、フェリクスは倒れていた。生きている者は、周りには誰一人として存在していないということは、その無音で理解した。彼らの代わりに、風が呼吸をしているだけだった。
フェリクスは前後の記憶どころか、自分がどのようにして生きてきたのかも忘れていた。何らかの虐殺に巻き込まれ、一命を取り止めたのだということは、周りの状況から容易に推測できたのだが。
獣人たちの屍の中には、槍やシミターなどの武器を手にしている者もいた。おそらく、戦だったのだろう。それが理解できたところでどうしようもなかったし、依然として記憶も戻らない。
首はかろうじて動かせたが、フェリクスの体は動かなかった。絶えず彼を襲うのは、茨の縄で全身の内外から締め付けられているかのような痛み。
フェリクスの体は、ボロボロだった。
背中には獣人に付けられたのであろう四本の爪跡が残り、太腿の刺し傷は骨の付近まで達していた。両の腕は肘の先から折れているらしく、這うことすら敵わない。
死にかけていたそんな彼を見つけたのが、獣人王だった。朦朧とする意識の中、漆黒の馬に跨った百獣の王をフェリクスは見た。なんと勇ましい天の使いだろうか、と思った。
獣人王はそんなフェリクスを城へと連れ帰り、治療を施したのだった。
傷が癒えた後も、獣人王はフェリクスを城から追い出さなかった。衣食住を提供しただけでなく、王直属の兵としての地位も与えたのだ。感謝でフェリクスの心は激しく震えた。
フェリクスは獣人王に、この命を捧げても良いと思っている。今まで誰にも自身の気持ちを吐露したことはないが、フェリクスもまた、その心はイルメラと同じであった。
「絶対に、残りの奴らも見つける」
獣人王はフェリクスの『能力』のことも知っており、そして高く評価してくれている。その期待に何としてでも応えたかった。
瞼が閉じられる寸前、彼の意志に呼応するかのように、蒼の目が鈍く輝いた。