5.拠点にて
イルメラが軽く肩を揺すると、髪を金色に染めた少女はゆっくりと瞼を開いた。
「あれぇ……?」
気だるそうな声を出した後、イルメラとフェリクスの顔を訝しげに見つめる少女。
「あ、目ぇ覚めたみたいだね。大丈夫かい? あんた、ここで倒れてたんだよ。熱中症ってやつかな? 最近暑いからねぇ。夜でもなるらしいし」
彼女を気絶させたのは他でもないイルメラなのだが、あの時はそうするほかなかった。
イルメラは、先ほど自動販売機で買っていた水を少女に渡す。少女はまだどこか呆然とした様子で、その水を受け取った。首をゆっくりと回して周囲を確認している。
「私、倒れてたの?」
「うん」
「……確か、あんたは見たような気がするんだけど」
そう言い、フェリクスの顔をしげしげと見つめる少女。彼女の言葉を受け、二人の心臓が嫌な速度で鳴り始めた。
「鱗の生えた人間みたいな奴の手、掴んでたよね? あいつ何だったの? 肌は緑だし。マジキモかったんだけど」
少女の言葉に、ついに二人の額から冷や汗が流れ始める。やはりあの時、少女はアルガルの姿をはっきりと見ていたらしい。しかし、ここで彼女の言うことを正直に肯定するわけにはいかない。
「そんなやつ、いるわけがないじゃないか。ねえ?」
イルメラに合わせ、フェリクスも無言のまま大きく頷いた。イルメラのセリフが若干棒読みだったので、フェリクスは内心気が気ではなかった。しかし、人間相手に喋ることがあまり得意でないフェリクス。下手に口を開くより、行動でイルメラを援護した方が良いと判断した。何度も首を縦に振る。が、傍目から見たら、その動きは余計に胡散臭く見えるのだった。
「え? でも、あれは確かに見間違いじゃ――」
「きっと、夢でも見たんだよ。悪い夢を、ね」
イルメラに言葉を遮られた少女は、まだどこか納得いかない顔をしている。イルメラはこの話題を強引に終わらせるため、少女の肩に手を置いた。
「ところで、歩けるかい? 何なら、家の近くまで送っていくよ」
「う、うん……」
戸惑いながらも少女はイルメラの提案を受け入れ、差し出された手を取ったのだった。
少女の家は、そこからすぐ近くにあった。しかもフェリクスがアルガルにとどめを刺す前に降り立っていた、あのマンションである。
アルガルの遺体は、すぐに竹藪の下深くに埋めていた。まさか少女も家の裏の竹薮に鱗の人間が埋まっているとは、想像すらできないだろう。アルガルが少女の夢に出てこないことを、二人は祈るばかりだった。
「助かったよ。えーと、その、アリガトゴザイマシタ」
ぎこちなく小さな声で礼を言うと、少女はマンションのエントランスの奥へと消えていった。見た目はかなり突飛な少女ではあったが、根は優しいのだろうなと、フェリクスは思った。
「残り、四人か」
少女の後ろ姿が見えなくなったところで、フェリクスはポツリと呟く。
こちらの世界に来て三日目で、ようやく一歩進んだというところだ。話し合いで解決できるとは思っていなかったが、やはり命のやり取りは気分の良いものではない。
あとは住宅街での小競り合いと移動を、誰にも見られていないことを願うばかりだった。もっとも、獣人たちが闘っていたなどと吹聴されても、にわかには信じられない人間ばかりだろうが。
アルガルの遺体を獣人界に運ばなかったのは、そうしたくてもできなかったからだ。『扉』の使用は、極力行きと帰りだけにするようにと、獣人王から直々に言われていたのだ。獣人界での『扉』の認識度を考えると、それはもっともな命令であった。
他の犯罪者たちを捕まえるまで拠点のマンションで遺体を保管していると、腐臭が凄いことになるであろう。最悪、マンションの住民に通報される恐れもある。ゆえに、あの場で埋めるしか選択肢がなかった。
『人間の少女の腸を食べるとな、獣人は凄い力を得ることができるらしいぜ』
アルガルの言葉が、フェリクスの頭の中に何度もリフレインする。
「そんなこと、あるわけがない」
知らず、口に出して否定していた。お伽話でもそんな話は聞いたことがない。しかしアルガル以外の犯罪者たちも、その情報を知っているような口調だった。一体それは、どこでどのようにして知ったのだろうか。
自身の内に流れる獣の血が、にわかにざわつく。
(俺たちは獣人だが、家畜以外の肉は食らわない。そんなこと――)
「どうしたんだいフェリクス? 顔色が悪いみたいだけど。まさか今のでバテたんじゃないだろうねぇ」
「何でもない。お前の方こそ大丈夫なのか。あの鰐、かなり重そうだったが」
「あんたに心配されるほど、このイルメラさんはヤワじゃないよ」
「……早く残りの奴も探すぞ」
颯爽と歩き出すフェリクスを、慌てて追うイルメラ。
生温かい夜の風が、二人の背後から吹き付けた。
その後二人は明け方近くまで歩き回ったのだが、結局、他の犯罪者たちを見つけることはできなかった。
青白み始めた空の下、疲労を顔に浮かべた二人は、重い足取りで拠点のマンションへと戻る。
「おかえりナサイ」
重厚な焦げ茶色のドアを開けた直後、ライツが二人を出迎た。が、二人は彼女の姿を見て目を点にしてしまった。
一体いつの間に調達したのか。鼠の獣人は、可愛らしいデザインの白いエプロンを見に着けていたのだ。その獣の顔と相まって、酷く似合っていない。
頭痛を覚えたフェリクスは思わず眉間に指を当てるが、奥のダイニングキッチンからほのかに良い匂いが漂ってくることに気付いた。
「わざわざ俺たちを待たなくても、先に寝ておけば良かったのに」
「そうはいきまセン。私は獣人王様より、お二人に情報を提供するコトと、拠点の管理を任されておりますノデ。お二人を放って先に休むなどできまセン。すぐに食事を温め直しますノデ、その間にシャワーを浴びてクダサイ。血のニオイで食事が台無しになってしまいマス」
事もなげに二人に言うと、ライツは踵を返した。近くの公園で手に染み付いていた血は洗い流してはいたが、やはり獣人の鼻は誤魔化せない。鼻歌混じりでダイニングキッチンに向かう鼠の獣人を、二人は複雑な表情で眺めるしかなかった。
「何か、家政婦さんみたいだね……」
ライツに聞こえないよう、イルメラはフェリクスに耳打ちをする。フェリクスも小さく頷くほかなかった。
ライツの要求通りシャワーを浴び終えた二人は、料理の並べられたテーブルへと着いた。
よく焼かれたステーキ肉に、色鮮やかなレタスとパプリカのサラダ。野菜のスープからは湯気が立ち上っては、天井へと消えていく。この二日間、二人の食事はコンビニ弁当ばかりだったので、それを思うと大層なご馳走だ。
「本日、料理本を入手いたしマシテ。参考にしながら早速作ってみたのデス。本の通りに作ったので、失敗はしていないカト」
少し照れくさそうに、胸の前で料理本をかざすライツ。イルメラの目が星のように輝いた。
「凄いじゃない。どれも美味しそうだよ!」
「ありがとうゴザイマス。今日は帰りが遅いので、少し心配でしタ。せっかく作った食事が無駄になるカと思いマシタ」
「こういう美味しそうな料理だったら、あたしは二日後でも食べちゃうよ。コンビニ弁当も不味くはないんだけど、あたしにはちょっとしつこいんだよねぇ」
イルメラの態度に、ライツも嬉しそうだ。フェリクスは無言のままだが、先ほどからステーキ肉にがっちりと視線を固定している。
「あ、失礼しマシタ。お二方ともお疲れですヨネ。まずは食事を取りながら、ゆっくりとお話を聞かせて頂きマス」
ライツが切ったバゲットを皿に並べると、ようやく食事が始まった。
結構な大きさのステーキ肉だったのだが、フェリクスは一瞬で平らげてしまった。そんな様子を横目で見ながら、まずはちびちびとスープを飲むイルメラ。彼女の食事は、存外ゆっくりだ。
口火を切ったのはフェリクスだった。
「さっきやり合った犯罪者は、鰐だった」
「鰐……アルガルですネ」
ライツの言葉にコクリと頷いた後、さらにフェリクスは続ける。
「そのアルガルなんだが、奇妙なことを言っていた」
「とは?」
「人間の若い女の腹を食べると、俺たち獣人は力を得ることができるとか――」
ライツの目元がピクリと痙攣した。
「この情報は、事実なの?」
下からライツの顔を覗き込むようにしてイルメラが問う。
「いえ、そのようなコト、私も今初めて耳にしまシタ。獣人王様からも、特にそのようなことは聞いておりマセン」
「アルガルだけではない。どうやら他の犯罪者たちも、同じ認識でいるらしい」
「なるほド……。初日に犠牲になってしまった人間の少女は、腹部を食い千切られていタ。なぜそのようなことを――と思っていたのですが、これで合点がつきまシタ」
神妙な面持ちで呟くライツ。イルメラはステーキ肉をつつきながら、「肉を食べながらする話ではなかったかもしれない」と一人ごちた。
「問題は、その情報を犯罪者たちに吹聴した、第三者がどこかにいる、ということだ」
フェリクスの声にイルメラが視線を跳ね上げ、ライツの髭がピクリと揺れた。フェリクスは感情的にならぬよう、淡々と続ける。
「おそらく――いや、ほぼ間違いなく犯罪者たちは、誰かに声をかけられてこちらの世界に来た」
獣人王は、五人は脱獄したと二人に告げた。だがよくよく考えると、五人の犯罪者たちが同時に牢から逃げ出したというのも、かなりおかしな話だ。お伽噺でしか存在しないと思われた、『扉』を利用してすんなりとこの世界に来たのも不自然である。脱獄を手助けし、『扉』の存在を彼らに教えた人物が存在していたとしか考えられない。
「それじゃあもしかしたらその人物は、今も獣人王様の城にいるってことなんじゃ!? このままでは、城のみんなや獣人王様が危ないんじゃ――!?」
フェリクスもライツも拳を強く握り締め、顔を歪ませることしかできない。
「確かに、そうかもしれマセン。そうかもしれまセンガ――」
彼ら獣人にとって、獣人王の命令は絶対だ。任務途中で、こちらの世界から引き上げることなどできない。ましてや、犯罪者たちはまだ罪のない人間を狙っているのだ。
「俺たちが考え付く程度のことだ。獣人王様もきっと気付いておられて、既に何かしら手を打っておられるに違いない。一刻も早く、残りの犯罪者たちを見つけて戻る。それしか、俺たちにはできない」
フェリクスの囁くような呟きは、静かな部屋にやけに大きく響いた。