2.路地裏の少女
「本当に……やめてください」
困惑した声で拒否する少女。先ほどより少しだけその声は低い。
「やめてくださいだって。かーわいー」
何が可笑しかったのか、二人の男はクスクスと笑いだす。そんな少女と男たちの間に、イルメラの声が割って入った。
「おい、そこの鼻輪とチビ」
「あん……?」
「あんたらのことだよ」
茶髪の男は、左の鼻に金のリング状のピアスをしていた。チビと呼ばれた黒髪の男は、人間形態のイルメラよりも若干背が低い。
見た目のままの呼称で呼ばれた男らはたちまちいきり立ち、イルメラに鋭い眼光を飛ばす。
「なんだお前。犯すぞコラ」
茶髪の男が凄んでみせた、直後。
彼の鳩尾に向けて、イルメラは真っ直ぐと腕を突き出した。
細い通りに響く、鈍く重い衝撃音。
茶髪の男は一言も発することなく、崩れるようにアスファルトの上に沈む。彼の口角からは小さな泡が出ていた。
「はん。口ほどにもない」
不敵に笑い、余裕の態度を取るイルメラの背後に迫る者がいた。黒髪の男だ。
「危ない!」
「――!」
男に気付いた少女が声を上げるが、完全に油断していたイルメラは反応が遅れてしまった。
「ふざけんなこのクソ女!」
イルメラの頭目掛けて、頭に血が昇っていた男の拳が容赦なく振り下ろされる。
だが――。
男の拳がイルメラに届くことはなかった。
「この鶏頭が。二人いたことをもう忘れたのか馬鹿」
フェリクスが、黒髪の男の腕を捻り上げていたのだ。そのまま男の脇腹に蹴りを入れ、首に手刀を叩き込む。手加減ありとはいえ、獣人の連続攻撃を受けた男は先ほどの茶髪の男同様に、無言のまま地に倒れ伏した。
「あら、助かったよ」
「お前はもっと――」
「大丈夫だった?」
フェリクスの小言が始まると予感したイルメラは、慌てて少女に話しかける。
「はい。あ、あのっ、ありがとうございました」
丁寧にお辞儀をする少女。肩甲骨まである艶のある黒髪が、彼女の顔を覆い隠す。少女がゆっくりと顔を上げると、隠されていた顔がやっと顕になった。
アーモンド状の形の良い目の中は、深い焦げ茶色の瞳。小さな鼻に、薄い唇は色の良い桜色だ。背は百六十二センチある人間形態のイルメラより少しばかり低い。白のレースがあしらわれた淡い水色のワンピースから覗く足は、コスモスの茎のように繊細だった。
獣人と人間という種族差はあれど、二人が二日間で見てきた人間の中でも、この少女は群を抜いて愛らしい容姿をしていると感じた。
「おやおやおや、可愛らしい子だね! あんた名前は?」
「おい」
フェリクスの静止の声は、残念ながら一瞬間に合わなかった。
「え、えっと……桃園霧羽と申します。あなたたちは?」
「狼上蒼だ。こいつは鷹来赤梨」
イルメラに偽名を言わせると、どんなヘマをされるかわからない――。少女に不審がられることを恐れたフェリクスが先手を打った。イルメラは若干不満顔だったが、フェリクスの考えていることが何となくわかったため、何も言わず頷くだけにとどめた。
「狼上さんに、鷹来さん、ですね。本当に、ありがとうございました。あの、よろしければお礼を――」
「いや、結構だ」
「そうそう。こっちが好きでやったことなんだしさ」
「どうしてもと言うのなら、ソフト――」
「それよりもう遅いんだし、早く家に帰りなよ霧羽ちゃん。何なら、近くまで送っていくよ」
フェリクスの言葉を慌てて遮り、ずずいっと顔を霧羽に近付けるイルメラ。霧羽は反射的に少し仰け反った。すぐさまフェリクスがイルメラの襟首を掴んで離させる。イルメラは不服そうに口を尖らせた。
「いえ。さすがにそこまでお世話になるわけには……」
「だったらさっさと帰るんだな。二度は助けんぞ」
「ちょっとフェ――蒼」
「はい、すみません。あの、本当にありがとうございました」
桃園霧羽は再度深くお辞儀をすると花弁のようなワンピースを翻し、町の明かりの中へと消えていった。
少女の後ろ姿が見えなくなったところで、二人は犯罪者たちを見つけるため、再び大通りに出て歩き出す。
「まったく。ただえさえお前は馬鹿なんだから、いらんことに頭を突っ込むな。それに夜だと、鳥目で役に立たないだろうが」
「ちょっと待った。あんたは大きな勘違いをしている。鳥目なのは主に鶏で、ほとんどの鳥は夜でもちゃんと見えているんだからね」
「……そうなのか」
「そうだよ。ていうか、昨日だってちゃんと夜に歩いていたでしょうが!」
「わざわざ厄介ごとに突っ込む鶏頭だから、目の方もそうなのかと思っていただけだ」
淡々としたフェリクスの軽口は回りくどくない分、イルメラの心にぐっさりと突き刺さる。彼女の口元はピクピクとわずかに痙攣していた。しかし人目を気にして、握っていた拳を振り上げることは何とか堪えたようだ。
「そうは言ってもさ。女の子がピンチなのを見つけておいて、素通りするなんてできないじゃない。それにあんただって見ただろ。あの子、凄く可愛かったじゃん。この暑さにやられた身体に、清涼剤を打ってもらった気分だよ」
喜色満面で呑気なことを言う鷹の相棒に、フェリクスは重い息を吐くことしかできなかった。
「あの娘――。刃物の匂いがしたな」
フェリクスはイルメラに聞こえないほどの声量で、ポツリと呟く。だが、それも彼らには関係のないことだ。もう会うこともないだろう。生まれかけた小さな疑念を、フェリクスはすぐさま頭から追い出した。
その後もしばらく町の中を彷徨う二人だったが、犯罪者たちを見つけることはできなかったのだった。