23.顕現
「フェリクスよ。改めて実感したであろう。お前の能力の素晴らしさを」
ショーでも見ていたかのような笑みを浮かべ、獣人王は玉座の前から声をかける。その一言は、フェリクスの内側から激しい衝動を呼び起こした。
犬歯を剥き出しにし、鼻の上にいくつも皺を寄せながら、フェリクスは獣人王を視線で射るかの如く睨む。
そのままフェリクスは――第三の目を、自身の爪で貫いた。
「――――やっ!?」
「馬鹿が! 何ということを!」
霧羽が声にならない悲鳴を発し、獣人王も焦燥の声を上げた。
額に爪を突き立てたまま、フェリクスは気絶してしまいそうな痛みにただ耐えていた。
第三の目があるから、このような状況になってしまったのならば。
だとすれば、元凶であるこの目を消してしまえば――。
フェリクスは一瞬湧き上がったその想いを、実行してしまったのだ。
貫かれた第三の目はこのまま消されてなるものかと、まるで意思があるかの如く抵抗を始める。力が、フェリクスの中で暴走しだしたのだ。
痛みに加え、強烈な吐き気の波が彼を襲った。
平衡感覚は失われ、地の向きもわからなくなる。
目の前では、火花のような無数の光が弾けては消えていく。
見たことのある獣人、ない獣人、様々な顔が浮かんでは化け物のように混ざり、フェリクスを見て不快な声で罵倒する。
フェリクスは、それでも口の端を上げた。痛みにおかしくなってしまったわけではない。なぜもっと早くにこうしなかったのか、と自嘲したのだ。
幼い頃から散々苦しめられてきた、この目。
突然変異か何かはわからないが、今まで理不尽な目に遭ってきたのも、全てこの目のせいだ。
だが、これさえなくなってしまえば――。
第三の目はフェリクスを幻覚の世界に誘おうと、次々と彼の中に映像を送りこんだ。フェリクスはそれに必死で抵抗する。自分の力に負けるなど、そんな無様なことはしたくなかった。
フェリクスの蛮行をやめさせるべく、獣人王がついに動いた。
巨体を揺らし、険しい顔でフェリクスへと近付いていく。しかし、すぐさま彼の足は止まった。獣人王に、背後からしがみ付く者がいたのだ。
「ライツさん……!?」
白い鼠の獣人は、百獣の王の脇から肩をガッシリと掴み、張り付いていた。
「どういうつもりだ」
獣人王の凄味のある声に臆することなく、いつものように穏やかな声で彼女は答える。
「私は、最後まで主君にお仕えしとうございマス」
「ならばすぐに離せ。離さぬか鼠が!」
「いいえ、離しまセン。主君の罪は、私の罪でもありマス」
獣人王は背中のライツを振り解こうと、懸命に身体を捻り、腕を伸ばす。しかし小柄な体格のライツに、大柄な獣人王の腕は届かない。
「うおああああああ!」
フェリクスは雄叫びを上げ、突き立てていた爪を引き抜いた。鮮血が舞い、床に赤い染みを幾つも付けた。
肩で息を切らすフェリクスは、獣人王とライツの方に走る。痛みに屈している場合ではない。このままではライツが危ない。
「フェリクスさン! どうぞこのまマ――!」
貫け――。
フェリクスはライツの行動の意図をようやく把握した。しかし、フェリクスは即決できなかった。
今ここでライツを手にかけてしまったら、それこそ自分は獣人王の望む獣人に成り果ててしまうのではないか、と。そう考えてしまった。意図せず、フェリクスの足が止まる。
一体、自分はどう動けばいいのか。ライツを傷付けずに獣人王だけを倒す方法はあるのか。
考えねばならぬのに、額の痛みが意識に介入してきてままならない。
「早ク! 現れる前に、早ク!」
喉から絞り出すようなライツの叫び声に、フェリクスは事態が緊迫していることを、真の意味で理解した。
どういう理屈なのか。
獣人王の眼前の空間に、腕一本分のひびが入っていた。
少しだけ見えるその腕の奥には、闇よりもさらに黒い空間が広がっていた。見た瞬間、フェリクスの本能が警鐘を鳴らした。
迷っている暇はない。ライツもろとも、獣人王をこの手で貫ぬかねばならない。そうしなければ、さらに得体の知れない何かが現れることになる。
フェリクスは奥歯をギリッと噛み、姿勢を低くした。そして足に渾身の力を込め、地を蹴る。
全力で駈ける狼は、まさに風の如し。フェリクスの鋭い爪が獣人王に届こうかという、まさにその時だった。
「手遅れだ。次元トンネルを使った時から、既にこれが現れるのは決定していたことだ。余を屠ったとしても、止められぬ」
獣人王は笑みを浮かべた。次の瞬間、後ろに大きく跳躍する。そしてライツもろとも、巨大な背を壁に叩き付けた。
「かハッ――!」
壁と背に挟まれ、たまらずライツは苦痛に呻く。ライツの手が緩んだ。そのままライツを振り落とした獣人王。さらに彼女の背を踏み付ける。戦闘能力がまるでない鼠の獣人には、その一撃は非常に重いものだった。ライツはうつ伏せ状態のまま、動かなくなる。
「ライツ!」
悲鳴に似た声を上げるフェリクスだったが、獣人王がライツの前に壁のように立ちはだかり、彼女のそばまで駆け寄ることができない。
獣人王は、そこで初めて人間形態の霧羽に興味を持った。
興味深そうに、上から下まで視線を這わせる。霧羽は先ほどから恐怖で全身を強張らせていたが、さらにその表情が硬くなる。
「先ほどから気にはなっておったが、その娘――」
フェリクスは獣人王の視界から遮るように霧羽の前に立ち、鋭い眼光で百獣の王を射抜いた。
霧羽は本来、この世界の時間軸にはいなかった存在。彼女の存在が獣人王の望む『歪み』を助長する形になっていたとしたら――。
いや、とフェリクスは即座に脳内で首を横に振る。
それでも、彼女には何の否もない。産まれ落ちた時代がたまたま過去だった。それだけだ。そもそも彼女も、そして父親であるウルステッドも、この獣人王の思惑の犠牲者なのだ。
守らなければ。
これ以上、仲間を傷付けられたくはない。フェリクスの胸の奥底から、炎のように熱い想いがこみ上げてきていた。
自身で貫いた第三の目から流れ出た血は、まだフェリクスの顔を汚し続けている。フェリクスは乱暴に血を腕で拭うと、姿勢を低くし、構えた。
もう、迷わない。
確かに命は彼に救ってもらった。しかしフェリクスの心は、既に獣人王を『敵』と認識していた。彼を尊敬し、命さえ投げ出しても構わないと思っていたあの時の自分は、もういない。
フェリクスが地を蹴らんとしたまさにその瞬間――。異変は起きた。
ひびが、割れたのだ。
パキパキと音を立てながら、獣人王の眼前の空間の一部が欠けていく。
この数日で自分の常識の範囲外の出来事を幾つも体験してきたフェリクスだったが、目の前で割れ続ける空間には瞠目することしかできなかった。
まるで卵の殻が割れるかの如く、空間はパキパキと軽い音を立て割れ続ける。しかしこの中から『出てくる』のは鳥の雛などではないことは、明らかだった。
まず出てきたのは、腕だった。
樹齢二百年はある大木を彷彿とさせる巨大な腕は、群青色の手甲で覆われている。
続けて出てきた胴体にも、群青色の鎧が装着されていた。
鎧の至る箇所に円い紋様なものが描かれており、それらは妖しい青白い光を放っている。
最後に出てきた頭も、鎧と同質の分厚い兜が顔全体を隠していた。
「こ、これは……?」
フェリクスの後方でイルメラの声がした。どうやらこの異様な空気を感じて気がついたようだが、何もこの最悪のタイミングで目覚めなくとも――とフェリクスは口の端をわずかに歪める。
意識を取り戻したのはイルメラだけではなかった。ライツもまた同様に、うつ伏せ状態のまま目を丸くしていた。
彼女らが目覚めたのは偶然ではない。『ひび割れ』から発せられる身をすり潰されてしまいそうな圧迫感に、強制的に意識を呼び起こされたのだ。
群青色をした鎧の巨人は『ひび割れ』の中に片腕を突っ込み、そして一気に引き抜いた。巨人の手に握られていたのは、刃の幅が異様に広い大剣だった。
「歪みをその身に受け続ける時の罪人、クアンド。我ら獣人の進化のために。主の力で、この世界を限りない崩壊へと導け」
獣人王が片手を広げ、声高らかに命令を下す。
クアンドは剣を握った手を頭上まで振り上げた。そこでようやく我に返ったフェリクスはクアンドに向けて駆けるが、既に遅かった。
ギロチンの如く振り下ろされた剣。床が一瞬で瓦礫へと果て、不可視の衝撃波が半円状に広がった。
「ぐっ――!?」
フェリクスは大きく吹き飛ばされ、成す術もなく壁に叩きつけられる。それはイルメラやライツ、霧羽も同様だった。霧羽の顔を隠していた帽子も、塵のように呆気なく飛ばされる。
苦痛に呻きながら、しかしそれでも霧羽を除く三人は立ち上がった。
第三の目を失ったフェリクス。羽を傷付けられたイルメラ。虚弱な身体で獣人王の一撃を受けたライツ。彼らのダメージは決して小さくはない。それでも、彼らは立ち上がった。
倒れた獣はそこで命を終える。それは、彼らのDNAレベルで刷り込まれていることだった。
クアンドは追撃を仕掛けてこない。大剣の先を床に付けた状態で、ただその場に立っているだけであった。無防備に見える今こそが反撃の機に他ならない。
三人が同時に考えた、その時――。
クアンドの全身の鎧に描かれた紋様が、青白く発光を始めた。その光は意思があるかの如く、クアンドの持つ大剣へと流れていく。
この場にいた誰もが瞬時に悟った。この体勢は、大剣に力を溜めているのだと。次に繰り出される一撃こそが、真に恐ろしいものであるのだと。
彼らの予想は間違いではなかった。クアンドは自身が受けた『時の歪み』の力を剣に溜め、放とうとしていたのだから。その一撃は世界を揺るがすほどの威力がある。天変地異と言っても過言ではない。だからこそ獣人王はクアンドを喚び出したのだ。
止めなければ。
三人は同じことを考え、そして同時に動いた。
どうすれば止められるのかはわからない。それでも、彼らの身体は無意識の内に動いていた。本能で感じていたのだ。
止めなければ、確実に死ぬと。
その時だった。壁に叩きつけられ、苦痛にうずくまっていたままだった霧羽がゆっくりと立ち上がったのは。
しかしそれに気付いたのは、獣人王だけであった。それでも霧羽のことは戦力外とみなしていた獣人王は、すぐさま彼女から視線を外す。気にかけるべき存在ではないと判断したのだ。
瞬間、謁見の間全体を揺るがすほどの、狼の咆哮が響いた。




