1.追跡者たち
まるで氷を張り巡らせたような、張り詰めた空気が空間を支配していた。
床一面、大理石で敷き詰められた部屋。塔のように大きな白い柱が、等間隔で何本もそびえ立っている。部屋の中央に鎮座するのは、巨大な金色の玉座。
その煌びやかな光を放つ玉座より、さらに存在感を醸し出す三つの影があった。
影のうち一つは、その玉座に腰掛ける者。
玉座に負けない輝きを放つ王冠を頭に乗せた影の顔は、小麦色の毛を持つ、百獣の王そのものであった。だが、普通のライオンとは違う。頭から下はまるで人間のような体つきをしており(それでも、体毛は動物のそれだ)王としての荘厳な衣服とマントに身を包んでいた。
彼は、この世界では獣人王と呼ばれている存在だった。獣人王の深い茶の瞳は、目の前で傅く二人を捉えている。
獣人王に対して傅く人物の内一人は、鋭く蒼い目を持つ、銀の毛並みが美しい狼だ。獣人王同様に見た目は獣そのものだが、人間のような二足歩行。そして鈍色に輝く胸当てを装着している。
その狼の獣人の、隣。
燃え盛るような緋色の目を持つのは、鷹の獣人。艶の良い焦げ茶色の羽毛が、床の大理石に薄く映りこんでいる。
二人の獣人は依然として片膝を付き、緊張した面持ちで頭を垂れ続けていた。二人は、獣人王の言葉を待っているのだ。
「急に招集をかけてすまぬな。早速だが、そなたらに重要な任務を負ってもらう」
ようやく沈黙を破り、獣人王が声を発した。獣の唸り声のような重低音が、大理石に跳ね返る。二人は顔だけを上げ、獣人王の言葉を聞き逃さまいと神経をより集中させた。
「本日未明、我が城で捕らえていた犯罪者たちのうち、五名が脱獄した」
緊張感を伴った一瞬の沈黙の後、狼の獣人が静かに口を開く。
「そいつらを、捕まえろと?」
感情の起伏がない、淡々とした男の声。獣人王ほどではないが、それでもその狼の声もなかなかに低い。獣人王は狼の獣人の問いかけに、無言のまま頷いた。
「わかりました。でもどうして、あたしらだけにご命令を?」
はっきりとした物言いで、鷹の獣人が新たに問いかける。芯のある女性の声だった。
こうしている間に城の兵士総出で、そいつらを探し出すべきだろう――。
彼女の緋色の瞳は強くそう語っている。鷹の獣人の視線を受け、獣人王は双瞼を閉じながらおもむろに続けた。
「イルメラ。お前の意見はもっともだ。しかし、どうしても人員を割けぬ理由がある」
獣人王は、玉座の肘置きに置いていた手を握り締めた。
「そいつらは『扉』を使い、別の世界へと逃げ出したのだ」
二人の息を呑む音が部屋に渡る。獣人王は彼らの反応をあえて流し、さらに言葉を継いだ。
「主らも知識としては知っているであろう。『扉』のことを」
扉――。
それは、この獣人王の城に古くからあると伝えられている、異世界へと通じる扉のこと。だがその扉の話は、獣人たちの間では噂話のネタやお伽話のような認識しかされていなかった。本当に存在しているなどとは、誰も本気で思っていない。
二人も例外でなく、そういう認識であった。しかし、獣人王は大真面目な顔で続ける。
「彼奴らが逃げた先の世界のことは、既に調べはついておる。そこは我らと似て非なる種族、純粋な『人間』が蔓延る世界だ」
「人間……」
イルメラと呼ばれた鷹の獣人が、その単語を口の中で転がすようにして呟く。狼の獣人も声には出さなかったものの、わずかに瞳孔が開く。知識としてはその存在を二人とも知ってはいたが、これもまた、架空の種族だとばかり思っていたのだ。
二人の認識する現実とは離れた存在。しかし、彼らの世界で絶対的な存在である獣人王が口に出したことで、それらはお伽話ではない、本当に実在するものなのだと、二人は瞬時に悟った。
「フェリクス・ヴァイザー及びイルメラ・ディッタ。直ちにそなたらも『扉』を使い、犯罪者共を捕まえに行くのだ。だが、彼奴等は重犯罪人。大変危険な存在だ。故に、犯罪者たちの命の有無は問わぬ」
『御意』
獣人王の出した指令に、二人の硬い返事が重なった。
S駅前は、帰宅途中のサラリーマンや遊び帰りの若者などが、忙しなく行き来している。
日が落ちて随分と時間は経っていたが、光量の強い街灯が町を明るく照らしており、昼間ほどではないものの、人の波はまだ途切れそうにない。
様々な色が入り混じった壮大な花のような街は、闇に染まっても尚咲き誇り続ける。そんな街中を、ある二人の人物が歩いていた。
「あーつーいー……」
背を丸め、アスファルトに向かって文句を吐き出すのは、腰近くまで伸びた赤毛を持つ長身の少女。緩くウェーブした赤毛が、姿勢に従って彼女の横顔を覆い隠す。
「何でこの世界、こんなに暑いわけ? もう夜だよ? お日様ないんだよ?」
モデルのような長い脚を大きく露出し、女性の象徴である谷間を強調する挑発的な格好をした彼女に、道行く男たちがこぞって視線を注いでいく。髪の隙間から覗くパッチリとした形の良い目は、燃え盛る炎のような緋色だ。
髪色と格好と目の色で非常に人目を惹いていた少女だが、そんな彼女に声をかける者は一人としていなかった。理由は明白。
「少しは黙って歩けないのか、鶏頭」
彼女の隣には、既に男が並んで歩いていたからだ。
艶の良い黒髪に、鋭い光を宿した蒼の目。服の裾から覗く腕には、しなやかな筋肉がついている。顔付きは美形と形容するには少し違う気もするが、それでもしっかりと整っている方だ。二人が並んで歩いている様子は、傍から見れば恋人同士にしか見えない。
そんな視線が自分たちに注がれていることなど露知らず、二人は言葉の応酬を続ける。
「だっ、誰が鶏頭だ!? あんな飛べない鳥と勇壮な鷹の一族であるあたしを、一緒にしないで欲しいね! それにあたしは――」
「イルメラという名前がある。だろ。聞き飽きた。というか、本当に黙れ。お前がうるさくて犯罪者どもの気配を探れん」
「ソフトクリームをペロペロ舐めながら言われても、説得力がないっての、フェリクス!」
イルメラにツッコミを入れられても、黒髪の男――フェリクスはまったく動じない。涼しい顔でソフトクリーム(バニラ味)を舐めながら、スタスタと歩き続ける。
獣人王から命を受け、早速『扉』を使い人間界に降り立った二人の獣人。彼らはその容姿を人間に変えて、犯罪者たちの行方を追っていた。
こちらの世界では、獣人は一人として存在していない。そんな世界で獣人の姿のまま歩き回れば、犯罪者たちを捕まえる前に、自分たちが珍獣として人間に捕まってしまう――。
そう聞いてから、二人は渋々ながらも人間に化けることにしたのだ。
ちなみにこの情報は、先んじて人間界に行っていた、獣人王の使いの者が調査していたものだ。先の『珍獣情報』も、その使いから聞いたものだった。
人間界に降り立った直後、二人に接触してきたのは白髪の小柄な少女だった。ライツと名乗った少女は、人間界についての情報を細かく二人に報告をしてくれていたのだ。彼女の言葉は少々カタコトではあったが。
ライツは情報だけでなく、二人の住む部屋や金まで既に手配していた。その情報収集能力の優秀さと細やかな気配りには、二人も目を点にするばかりだった。
「あんたがついでに犯罪者も捕まえた方がいいんじゃない?」とイルメラもつい洩らしてしまったが、ライツ曰く「私は鼠の獣人ですノデ、戦闘能力はからきしデス」とのこと。
そんなやり取りを思い返しながら、フェリクスはイルメラに聞こえない程度に小さく嘆息する。
フェリクスらが人間界に降り立つ直前、逃げ出した犯罪者の仕業と思われる殺人事件が、既に発生していたらしい。犠牲者は少女で、腸を食されていたという。
自分たちは獣人だが、それでも野生の獣とはまったく違う。同族を食す文化などない。少女を殺めた犯罪者は、人間を餌とみなしてしまったのだろうか。種族が違うとはいえ、獣人と人間の生態は極めて近いというのに。
ライツからその報告を聞いてから、フェリクスはまだ見ぬ犯罪者に、既に強い嫌悪感を抱いていた。
人間界に来て二日目。まだ犯罪者を一人も捕らえていない。このままでは第二の犠牲者が出てしまう可能性が高い。フェリクスの胸の内には焦りが生じ始めていた。育ててくれた獣人王の期待に応えるためにも、これ以上の犠牲は絶対に出してはならない。
「まったく、よりによって何であんたと一緒なんだよ。獣人王様のご命令だから我慢するけどさ……。そもそも食べながら探すとか、やる気あんの?」
「さっきからうるさいな。俺は食べながらもきちんと犯罪者どもの気配を探っている。暑いのなら、お前も食べれば良いだろう」
フェリクスは、すっかりこの世界のソフトクリーム(バニラ味)が気に入ってしまっていた。暑さを和らげるためにコンビニで何となく買ってみたものが、彼には大当たりだったらしい。
フェリクスの半ば投げやりな提案に、しかしイルメラは盛大に顔をしかめて見せた。
「よくそんな甘ったるそうな物を好んで食べられるね……。確かに冷たそうだけどさ」
口を尖らせぶちぶちと文句をこぼしつつも、彼女の声は先ほどよりかなり小さいものに変わっている。疲れてきたらしい。猫背で歩き続けるイルメラに向かい、さらにフェリクスは告げた。
「あと、人間がいる前では本名は口に出すな」
「わかってるよ。この世界のこの地方に合わせて、あたしはええっと、鷹来赤梨。あんたは狼上蒼、っていう偽名にしたんだっけ」
ライツから、人に名を聞かれたらそのように名乗るようにと助言されていた。慣れない響きの名前とあって、するりと口から出す自信はあまりない。
変な名前だよな。イルメラがポツリと洩らした時だった。
「ん?」
二人の耳が、街の喧騒とは違う音を捉えた。人間同士の声だが、普通の会話とは少しトーンが違う。獣人である彼らは人間よりも聴覚が優れているので、離れた場所の異質な会話を、容易に聞き取ることができていた。
「あそこか」
フェリクスが視線を向けたのは、ビルとビルの間の路地。人とすれ違うのがやっとというほどの細い路地の奥が、声の発信源らしい。犯罪者たちの手がかりがまったくない今、気になったものは徹底的に見ていくしかない。どちらとも言わず、二人はそちらに近付く。声は次第に鮮明になっていった。
「あ、あの。放してください」
「そんなこと言っちゃって、本当はまんざらでもないんだろ? でないとこんな時間にこんな場所を、女の子が一人でウロウロなんてしないよねー?」
「俺らちょうど暇してたんだ。ちょっとでいいからさ、遊ぼ?」
男二人に取り囲まれて姿は見えないが、どうやら少女が絡まれているらしい。
イルメラの顔色が、その髪色と同じようにみるみる赤くなっていく。フェリクスは彼女が何をしようとしているのか、瞬時に予測できてしまった。残りのソフトクリームを一気に口の中に入れると、慌ててイルメラの眼前に腕をかざす。
「よせ。あれは犯罪者たちではない。俺たちには関係のないことだ。あまりこちらの世界の人間と接触するな」
しかしその手を強引に振り払い、イルメラは細い路地目掛けて走り出してしまった。
「……あの鶏頭が」
小さく舌打ちをしながら、フェリクスはイルメラの後を仕方なく追うのだった。




