18.別れ
花のような、ほんのりと甘い香りが霧羽の鼻を通り抜けていく。花畑の中にいるような心地良さをあえて振り払い、目を開けて上体を起こした。
部屋には誰もいなかった。見慣れない部屋と嗅ぎ慣れない匂いに若干不安を覚え始めたところで、霧羽はようやく思い出す。
ここは、鷹来赤梨の部屋だ。皆から寝るように促され、素直にその言葉に従ったのだった。
部屋に充満する香りは、昼に安眠できるようにとライツがイルメラのために焚いた香の残り香だ。そのおかげで、霧羽も深い眠りにつくことができていた。
ベッドから出た霧羽はゆっくりと立ち上がる。見慣れない、少し大きめの服を着ていた。特に胸元に余裕があるので、これは鷹来赤梨の服なのだろうと思わず苦笑する。本当にあの人はスタイルが良くて羨ましい、とちょっと妬みを含めて。
傷の痛みは、もうほとんど感じられなかった。傷付けられた時のことは鮮明ではないが、それでも覚えてはいる。
男の顔が突然獣のものに変わった直後、鋭い爪が自分を襲った。
痛いというより、熱かった。その熱が瞬く間に全身を呑み込み、身体の奥底から別の力が湧いてくるのがわかった。自身の身体が変貌していく様を、霧羽はどこか意識の遠くから見つめていた。
驚きと同時に、なぜか懐かしさも感じた。そして本能に従い、身を守るべくあの豹の男の首に牙を突き立てていた。
霧羽は自身の身体を掻き抱き、身震いする。今さらながら恐怖が甦ってきたのだ。
身体を傷付けられた恐怖。そして、相手を殺そうとした自分の心に対する、恐怖。
『お前は、誰も殺していない』
不意に、狼上蒼の言葉が甦る。その脳内で再生された声だけで、霧羽はもう落ち着きを取り戻していた。
初めて会った時から、彼のことが妙に気になっていた。
見た目は石のように冷たい雰囲気ではあったが、パフェを頬張る姿は可愛いと思った。鷹来赤梨と付き合っていないと聞いて、嬉しく思ったのも事実だ。
数回しか会っていないのに、どうして彼のことが気になってしまうのか。これが一目惚れというやつなのだろうか。
霧羽はここ数日、そんな思いに苛まされていたのだ。その答えが、朧気ながら霧羽はわかった気がした。
(きっと、狼上さんも私と同じ種族だから――)
そこで霧羽は、いや、と小さく頭を降る。
狼上蒼も鷹来赤梨も、そして白亜も。きっと本名ではないのだろう。彼らが自分の前で名前を呼び合う時、どことなくぎこちない印象を受けた。そして霧羽は思い出す。
幼い頃に数回だけ聞いたことがあった、父親の本当の名前を。
リビングには三人が集まり、これからのことについて談義していた。
しかし結局話題は、獣人界に帰り獣人王の無事を確認する。牢を開けた人物を探す。この二点に終結するのだった。
とにかく、まずは霧羽だ。
フェリクスは眉間に皺を寄せ、可憐な少女のことを考える。
純粋な人間ではなく、獣人だった彼女。これからどのように生きていくのか、彼女に選択を迫らないといけない。
運命と時間の歪みによって生まれた可能性がある霧羽。仮に霧羽が獣人界に共に来た場合、これより未来の世界である獣人界に、何か影響を及ぼしてしまうのだろうか。
かといって、この時代に置き去りにしたままでよいのだろうか。
様々な事態を予想し、その結果を考えるが、当然答えはフェリクスの考えが及ぶ範囲のものではない。
フェリクスが難しい顔で腕を組みソファーに深く座り直したタイミングで、件の彼女は姿を現した。
霧羽は小さくお辞儀をした後、壁に掛けられた時計にチラリと視線を送る。かなり眠ってしまっていたことを理解したのか、彼女の細い眉が申し訳なさげに下がった。
そんな彼女をライツがソファーへと誘導する。少しカタコトだが優しいライツの声に、霧羽の表情も和らぐ。つくづく、ライツがいて良かったとフェリクスは思った。仮に自分だったら、あのように霧羽を気にかけるような言動ができただろうか。
「霧羽サン。お父上のことについて、少し聞いてもよろしいですカ?」
「はい、何でしょう?」
「お父上のお名前を教えて頂きたいのデス」
「父ですか? 翔。桃園翔です」
三人は顔を見合わせる。やはり偽名を使っていたのだろう。三人の様子を見て彼らの本当に知りたいことを鋭く察した霧羽は、さらに言葉を継いだ。
「でも、桃園は母の姓です。父は婿養子だったと。元は外国の人間だったらしく、結婚を機に改名したそうです。確か改名前はええと……ウルス?……みたいな感じの名前だったと思います」
霧羽の口から出てきた名に、今度こそ三人は息を呑んだ。
間違いない。ウルステッドは次元トンネルの中で、今より少し前の時代に落ちてしまったのだ。そしてその時代で伴侶を見つけ、第二の人生を歩んだのだ。
三人を見据えたまま、霧羽は続ける。
「私も、お聞きしたいことがあります。皆さんの本当のお名前を、教えてください」
水を打ったような静寂が部屋に広がったのは、一瞬だった。真っ先に反応したのはやはりライツだ。
「気付いていらしたのですネ」
霧羽はこくりと頷く。
「なんだー。それなら最初から本名を名乗っていればよかったね。正直に言うとこの偽名、馴染まなかったんだよねえ。なんか響きもあたしのイメージと違って可愛いし」
腕を上に伸ばし、どこか嬉しそうにイルメラが言う。
「……俺は、フェリクス・ヴァイザーだ」
横目でフェリクスを見た後、イルメラが続いた。
「イルメラ・ディッタだよ。改めてよろしくね、霧羽ちゃん」
「私はライツ・コムウェルでス」
「フェリクスさんに、イルメラさんに、ライツさん、ですね。ふふっ。やっぱり皆さん見た目の雰囲気からして、本名の方がしっくりきます」
穏やかに笑った後、霧羽はその柔らかな雰囲気を保ったまま言った。
「あの。私も狼上さん――いえ、フェリクスさんたちと一緒に行ってもいいですか?」
皆の驚愕の視線が、再度霧羽へと集まる。
「霧羽ちゃん!?」
「フェリクスさんたちは、こことは違う世界から来たのですよね?」
直球に言葉を投げられ、イルメラは咄嗟に答えることができない。
「私も昨日までなら、そんな世界があるなんて信じられなかったし、考えもつかなかったです。でも、昨晩見たものは夢ではない。それに、私自身――」
胸に手を当て、拳を握る。霧羽自身、それを受け入れることにかなり葛藤したのだろう。しかし現実は変えられない。紛れもなく、彼女は獣人だ。
「妹を食い殺した奴は、もう生きてはいない。皆さんのおかげで仇を取ることができました。でも露花を失ってしまって、私は一人になってしまいました。それに人間ではない私が、ここの世界に一人で居続けることを考えると、寂しいです……」
霧羽の両親は駆け落ち同然に結婚したという。だから彼女は親戚の存在も知らない。本当に、霧羽は一人なのだ。
三人は答えられない。獣人と人間とはまったく違う生き物だと思っていた。しかし人間は、獣人たちの祖先ということが判明したからだ。
「だから、皆さんに着いて行きたいのです」
「……」
フェリクスらの沈黙を肯定と受け取ったのか、霧羽は小さな笑顔を作った。
「本当に、それでいいのですカ?」
戸惑いを浮かべつつ尋ねたのは、ライツだ。
「はい」
「我々はすぐに発ちマス。あなたのご友人にお別れをする時間も、私物を取りに行く時間もありまセン」
表情を変えず、淡々と告げるライツ。
「はい」
二回目の霧羽の返事は、より強いものだった。霧羽の意思の強さを感じ取ったのか、ライツは若干目元を緩ませた。
「それでは、共に参りまショウ。大丈夫でス。あちらに着いてからは、霧羽さんが生活していけるよう、私が精一杯サポートいたしマス」
「はい。よろしくお願いします」
深々とお辞儀をする彼女に、皆は優しい眼差しを向ける。
「あ。霧羽さんが今お召しになられているのはイルメラさんの服ですガ、少し大きいですね。すぐに調整致しマス」
言うや否やライツは裁縫道具一式を用意し、霧羽の服をてきぱきと仕立て直していく。皆がぽかんと見守る中、ものの数分でライツは作業を終わらせた。
「すごい……。ライツさんって凄く器用なんですね」
褒められ、少女の姿をしたライツは嬉しそうにはにかんだ。
「向こうに行ってかラ霧羽さんに合った服をご用意致しますのデ、しばらくはそれでご辛抱くだサイ」
「そういえば、この拠点はどうするのさ?」
「せっかく揃えた家具なので名残惜しいですガ、処分していく時間はないですネ。一ヶ月分の家賃は払っていますカラ、しばらくはこのままでショウ。大家さん当てに処分費としてのお金と、手紙を玄関に置いてありマス」
相変わらずの手配の良さに、イルメラは感嘆の息を洩らすことしかできない。
「では戻ろう。獣人王様の所へ」
逸る気持ちを抑えたフェリクスの言葉に、イルメラもライツも頷いた。
犯罪者たちの脱獄を手助けした人物は、間違いなく獣人王の城の中にいる。
何が目的でこんなことをしたのか。獣人王は無事なのか。疑問と不安が入り混じった複雑な感情が、三人の胸の内にマーブル模様を描き続ける。
ライツが黄色い、小さな玉を取り出した。ビー玉ほどの大きさのそれを上に向けて放り投げる。
瞬間、玉が破裂し、光が弾けた。空中にぽっかりと出現したのは、光の穴だった。中を覗くと様々な色をした光がうねり、渦を巻いている。来た時に通った、次元トンネルとまったく同じだった。
「そんな便利アイテムなんか持ってたの?」
「獣人王様から頂きまシタ。行くからにハ、帰る手段も用意していないと意味がないでショウ?」
それもそうかとイルメラは呟く。
四人は頷くと、まずはイルメラが光の渦に飛び込んだ。それにフェリクスが続く。
「さァ、霧羽サン」
ライツに促され、霧羽は緊張した面持ちで頷いた。
高校の友人たちにさよならを言えないのは、正直に言うと寂しい。まったく知らない世界に行くことは、怖い。だがここで彼らに着いて行かなければ、これから一生、霧羽は悩むことになるだろうと確信していた。
(さようなら。私を育ててくれた世界――)
霧羽は一度だけ部屋の中を振り返った後、光の渦へと足を踏み出した。




