17.狼の犯罪者
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全身を支配していた浮遊感は、強烈な光に呑み込まれた後、突如として消え去った。替わりに彼を襲うのは、地に叩き付けられたような衝撃と激しい肩の痛み。
自分の身に何が起こったのかを理解できる頃には、それからたっぷり五分は経過していた。
男は横向きに倒れたまま、樫の木色をした目だけを動かす。
周囲は闇。夜だ。しかし、獣人界の夜とは匂いがまったく違った。土の匂いはする。でもどこか『固い』のだ。鉄のような、それでいて錆びたような匂いが混じっている。
風が吹くと、複数の木々が一斉にざわめいた。どうやら自分は今、森の中にいるらしい。
混乱しそうになる頭を必死に回転させる。
自分は『落ちた』。それだけは理解していた。
眩い光のトンネルの中に吸い込まれている最中だった。名も知らぬ仲間の背中を見つめていたら、突如仲間は視界から消えた。否、消えたのはおそらく自分の方だ。木からリンゴが落ちるかのように、何かの力に吸い寄せられていた。
『あの男』に声を掛けられ、牢を出て『扉』を潜ったら、この状況。
牢の中で聞いた『あの男』の言葉が、走馬灯のように甦る。
人間の腸を食らうと、獣人は絶大な力を得ることができる。世界中の獣人を敵にしても恐るるに足らない、大きな力を――。
演説のように語る『あの男』の顔は、自信たっぷりなものだった。目は炉のように燃え滾りながらも、一変の曇りもなかった。男はあの目を知っていた。野心溢れる者の目だ。
『あの男』が自分を利用しようとしているのは直感で理解できた。それでも彼に従ったのは、この自由の利かない狭い空間から出たかったことと、男の野心に協力しても構わないと思ったからだった。
男は三人の身内を殺した罪で服役していた。血の繋がった者を殺めることは、獣人界では極刑。死を待つだけの運命だった。
彼は、その運命にどうしても納得していなかった。
殺してなどいないのに。誰一人として、殺してなどいないのに。
彼は、実の兄に罪を擦り付けられたのだ。無実を証明しようにも、それは到底無理だった。兄は父親と母親、そしてもう一人の弟の血を、自分が寝ている時にべったりと付けていたのだ。爪だけでなく、口の周囲にまで。そして兄は姿を眩ませたのだ。だから彼が捕まらない理由がなかった。
彼の言い訳など――ウルステッドの言葉など、誰も聞く耳を持とうとしなかった。
獄中での生活は、苦痛でしかなかった。未来がないとわかっている生活は、一日が無限に感じるほど長かった。
日に日に強くなる死の匂い。どれほど必死に無実を訴えても、証明する術はない。全てを諦めた時に、ウルステッドの前に『あの男』は現れた。
それは、希望の光そのものだった。
だからウルステッドは『男』の提案に、微塵の躊躇いもなく首を縦に振ったのだ。
しかし、今のこの状況は何だ。まだ何も成し得ていないのに、自分は早々と脱落してしまったというのか。
戻らなければ。しかし、どうやってあの光の道に戻ればいいのだろうか。
空を見上げるが『扉』は見当たらない。自分は虚空から落ちてきたのだろうか。
探さなければ。
ウルステッドは痛みの残る体を持ち上げ、森の中を当てもなく歩き出した。
しばらく歩き続けると、拓けた場所に出た。
灰色の大きな建物があったが、朽ちている。獣人界の建築物とは異なる佇まいだった。誰かが住めるような環境ではない。
誰かと会わずにすみそうで安堵したような、落胆したような、複雑な想いを抱いた時だった。複数の人の声がしたのだ。
ウルステッドは、建物の陰に慌てて身を隠す。
声の主たちは、二十歳前後の男女三人組だった。彼らは肝試しにやって来ていた。当然、そんな事情をウルステッドは知る由もない。
ウルステッドは、彼らの姿を瞬きをするのも忘れて見つめていた。
彼らは、獣人ではなかったのだ。
そこで初めて、ウルステッドはここが別の世界であるということを理解した。俄かには信じられないが、信じるしかなかった。
初めて見る人間の姿を、ウルステッドは網膜に焼き付ける。
二足歩行なところは獣人と同じだが、姿はまったく違った。毛は頭部にしか生えていないらしい。尻尾もない。女たちの爪はそれなりに長いが、色が付いている。
ウルステッドは目を閉じ、今見た人間の姿を強く頭に念じる。
みるみる内に、彼の姿が変わっていく。全身を覆っていた白の体毛はなくなり、伸びていた鋭い爪も姿を消す。数秒後には、そこに銀色の髪を持つ『人間』の男が立っていた。
初めて見た人間という存在。でも何故か、畏怖は感じなかった。むしろ擬態できる気がしたのだ。
人間の若者たちは二時間ばかり、廃墟内で騒いでいた。その間、彼はじっと人間たちの会話を聞いていた。
姿は獣人とは違うのに、言葉は理解できたのだ。ウルステッドはそれを多少疑問に思いながらも、深く疑うようなことはしなかった。むしろ言葉に悩まなくてよいということは、彼にとって都合の良いことでしかなかった。
一通り探索を終えたのか、やがて廃墟を後にする若者たち。ウルステッドは距離を開け、彼らの後を追った。
この世界は獣人とは違う、人間の住まう世界。それでも、ウルステッドは思ったのだ。
兄のせいで、もう終わるしかなかった人生。でも、ここでならやり直せるのではないか、と。自分のことを誰も知らないこの世界で、新しい人生を歩むことができるのではないか、と。
今この時間は、夢でも幻でもない。足裏からはしっかりと大地の感触が伝わってくる。生きている内に、また自由に歩くことができるなんて彼は思ってもいなかった。
若い人間の女を食らい、力を得ること。牢の中であの男に言われた言葉も、既にどうでもよくなっていた。
わざわざそのようなことをせずとも、既に手の届く距離に自由はある。あとは自分が手を伸ばすか、否か。
ウルステッドは瞼を閉じ、決意した。
若者たちの後を着けて山を下ったウルステッドは、獣人界とはまったく違う眼前に広がる街並みに驚嘆し、しばらくはその場に立ち尽くした。
道は灰色に整備されており、その上を様々な色をした鉄の塊が、かなりの速度を出して過ぎていく。その鉄の塊が通り過ぎると、鼻の奥がむずむずとした。
呆気に取られながら、道の端をゆっくりと歩き始めたウルステッド。その彼の向かいから、一人の人間が歩いてきていた。しかし彼は道行く鉄の塊に注意を取られ、目前まで迫っていた人間に気付くことができなかった。
「きゃっ!?」
声と同時に、彼の胸に何かが当たった。それが人間の女性の頭だったということに、ウルステッドは尻餅を付いている女性の姿を見て初めて理解した。
「ご、ごめんなさい」
「すまない」
二人はほぼ同時に謝罪の言葉を吐いた。反応に困り、両者とも次の言葉を見つけられない。
気まずい沈黙が数秒続く。
ウルステッドが手を差し伸べるべきかどうか悩んでいる内に、女性は尻の土埃を払いながら立ち上がった。
「その、よそ見をしていて」
「俺もだ」
ウルステッドは不思議に思った。初対面の、それも人間との初めての会話。それなのに、畏れも怯えも自分の心には発生していなかったのだ
「どうして、裸足なの?」
ウルステッドの足先を見ながら女性は問う。ウルステッドは言葉を詰まらせた。
廃墟に来ていた男の一人がサンダルを履いていたので、足先の擬態も完璧だった。しかし、さすがに靴までは用意できなかったのだ。獣人とはいえ、元々なかった物を生み出すことはできない。
女性の怪訝な視線を受け、素足のまま移動するのはこちらの世界では異常なことらしいと、ウルステッドは瞬時に理解した。
「それに、変――というか、普通ではない格好ですね。何かのコスプレですか?」
さらに言葉を失うウルステッド。今の彼は、麻布で織られた袖のない服を身に着けている。
言われてみれば廃墟で見た若者たちも、獣人界の庶民的な格好とはどこか違うものだった。服の中央に女性の絵が描かれた服を着ている者もいた。
この女性の言う『コスプレ』が何のことかはわからなかったが、それでも普通の格好をしている者に言う言葉ではないことだけは理解した。
どう答えるべきか。おそらく何を言っても、不審がられてしまうことだろう。何しろウルステッドはこの世界の常識を何一つ知らない。沈黙を保つことで、やり過ごすしかない。
だが、本当にそれでいいのだろうか。
この地で、新たな人生を歩んでいこうとしているのに。果たして誤魔化して良いものなのだろうか。
「あの」
さらに声を掛けられたウルステッドは、逸らしていた視線を再度女性に向ける。女性の目は右に左にと、所在無げに忙しく動いている。
「そ、その、よろしかったら、ですけど。う、うちに、来ませんか?」
ウルステッドは耳を疑った。今この人間の女性はなんと言った?
「あ、いや。その、決して変な意味ではなくて。ただ、見たところ外国の方のようですし。持ち物も何もないので、何か困った事態になってしまったのではと思いまして。その、お節介だったらすみません」
そう言うと女性は、小さく俯いた。
ウルステッドは、女性の言葉に呆気に取られていた。
得体の知れない男を、いきなり家に呼ぶとは。この女性は、自分が襲われる可能性を微塵も抱いてはいないのだろうか。それとも、そこまで今の自分の姿は、女性には憐れなものとして認識されてしまったのだろうか。
ウルステッドはわずかに眉根を寄せるが、この世界に来たばかりで困っていることは事実だ。ここは一つ、彼女に着いて行くことにしよう、と決心した。
「……お願いします」
ウルステッドの返答に、俯いていた女性の顔が跳ね上がった。
結局ウルステッドは、女性のマンションにそのまま転がり込むこととなった。
外国語の教師の仕事をしているというその女性。見た目が日本人離れしているウルステッドにも難なく声を掛けることができたのは、彼女の仕事も大きく関係していたようだ。
この世界のこの地方――日本について詳しくないということで、ウルステッドは完全に外国人として扱われていた。
「不法入国はしていないでしょうね?」と問われた時は、何と言ってよいものか悩んだが。不法に入国したと言えば、そうなのかもしれない。ただし、別の世界からだが。
「わからない。何も、覚えていないんだ。でもこれだけは覚えている。第二の人生を歩みたいと、強く願っていたことだけは」
苦悶を顔に滲ませで言うウルステッドの言葉を、女性は疑いもせず信じたようだった。
ウルステッドは、過去の自分を殺した。何も覚えていないことにして、昨日までの自分を、獣人としての自分を、この瞬間に殺したのだ。
――あの時、格好良くて変な人を拾ったと思った。
のちに女性は、笑顔でウルステッドにこう語る。
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