14.想定外
今日も獣人の二人はその姿を人間に変え、夜の街を歩く。高層ビルのジャングルの中を歩くのも、かなり慣れてきていた。
残る犯罪者は、一人。そいつをどうにかしたら、こちらでの任務は完了だ。否応なく二人の士気は上がる。意図せず、歩調も先日より少し速くなっていた。
今日は二人にとって、最も都合の良い天候だった。
雨だ。
いつもは帰宅途中の学生、会社員やOLに混じり、これから夜の街に繰り出そうとする者たちでごった返す駅前。しかし雨のせいか、遊びに向かう人間たちの姿はほとんど見えなかった。会社員たちも傘を差して俯き、足早に過ぎ去っていく者ばかりだ。
晴天の時より嗅覚はそれほど当てにならないが、人間の数が少ないことは二人にとって単純にありがたかった。
ライツが用意していたビニール傘を手に、二人は周囲を注意深く観察しながら歩く。
「中に入る」
小声でフェリクスが宣言し、路地の一角へと入る。イルメラも無言で続いた。犯罪者は、大通りで堂々と獲物を物色している確立は限りなく低いというフェリクスの考えは、初日から変わらない。
犠牲になった女子高生は、人通りの少ない住宅街の道で襲われたという。既に成功している方法を模倣する方が効率的だ。狩りならば。
自身の内に渦巻く野性が、フェリクスにそう告げていた。
だが、正確には獣人は獣ではない。かといって人間とも違う。獣のような身体能力と、人間のような知恵を持つ崇高な種族が獣人であると、フェリクスは思っていた。だからこそ、人間を食らった同胞が許せなかった。知恵ある生命を口にした瞬間、そいつは獣人ではない、単なる獣に成り下がったのだ。
タガーダたちと相対した時、フェリクスは多少躊躇った。犯罪者とはいえ同族の命を奪う行為は、やはり気持ちの良いものではない。だが最後の一人は、躊躇うことなく屠ることを既に決意していた。
「人間を食らった奴だ。きっと常識は通じない。最善の注意を払え」
歩きながらイルメラに忠告した、その時だった。
「それは俺のことか?」
突然背後から聞こえた声に、二人は反射的に振り返る。五メートルほど離れて、細身の金髪の男が立っていた。天から絶え間なく落ちてくる水滴を、頭や肩で直に受け止めながら。
姿は人間の男だ。だが、今のセリフが彼が普通の人間ではないことを表していた。
まさか、犯罪者の方から接触してくるとは――。
二人にとって、これは完全に想定外だった。突如現れた犯罪者にどのような反応をすれば良いのか、二人の思考は追いつかない。意識せず、半歩後退してしまう。
そもそも雨で嗅覚が鈍っているとはいえ、気配をまったく感じることができなかったのだ。相当な実力の持ち主であることは容易に想像できた。二人の心に焦りが生まれる。
何とかして、ここから移動しなければならない。獣人形態に戻るために。
二人は一瞬だけ視線を合わせ、意思を伝え合う。
大通りから一歩中に入った細い路地とはいえ、やはり街中で獣人化するには躊躇いがあった。だが、どうやって移動すればよいのか。
タガーダたちに使った手は、間違いなく通じない。あれはこちらを仲間だと思わせた上での誘導だった。しかしこの犯罪者は、既にこちらの事を警戒している。
迷い、硬直している間に、細身の男は素早く二人に近付いた。
直後。
男の足先が、フェリクスの鳩尾へと食い込んでいた。
「がっ――!?」
「フェリクス!」
「お前らも獣人だな? 微かに獣人界のニオイがする。なんでこんな所にいるんだ?」
世間話でもするような口調で話しながら、くの字に曲がったフェリクスの背中に、さらに蹴りを入れる男。最初の一撃でフェリクスの手から零れ落ちていた傘も、その足で踏み潰す。傘の骨は、骨折した鳥の羽のように哀れに折れ曲がった。
男は片膝を付くフェリクスに、さらに一歩近付く。直後、イルメラは折れた傘の一部を拾い上げた。
「このっ――!」
狙いは一点。男の目だ。迷いなく、傘の骨を男の顔面に向けて突き出す。
人間形態を取っているとはいえ、フェリクスがあっという間に膝を付いてしまったのだ。相当な実力を持っていることは明らかだ。人間を食べたから強い――とは思いたくなかった。そんなのは何の根拠もない、迷信に決まっている。
イルメラの傘を使った目潰しは、あと一歩のところで男に届かなかった。男は鼻先で傘の骨を掴み、手首を軽く捻る。それだけの仕草だったのに、イルメラは体ごと持っていかれてしまった。
「――!?」
急激に回転するイルメラの視界。そのまま彼女は、コンクリートの大地に肩から叩き付けられた。鈍い痛みが彼女を襲う。
金髪の男はすぐに起き上がれないイルメラの首を掴み、細い腕で悠々と持ち上げた。
「まだちょっとガキ臭ぇけど、なかなかいい女だなぁ、お前。男の後にたっぷり可愛がってやるよ」
「離せ……っ! 人間を食った奴なんか、冗談じゃないっ」
首を掴まれ苦痛に顔を歪めても尚、イルメラは折れない。
鷹族は天敵と呼べる存在がいない、獣人界の中でも珍しい存在だ。生物の頂点に近い存在であると言っても大げさではない。地を駆けるだけの獣人に屈するなど、鷹族として彼女のプライドが許さなかったのだ。
イルメラの抵抗に金髪の男は目を細め、小さく笑う。わずかに覗く犬歯は鋭く、そして長かった。
「狼上さんに、鷹来さん!?」
少し離れた場所から突如聞こえた声に、フェリクスとイルメラの顔は強張った。
路地の入り口。白の傘を手に、桃園霧羽が三人を見て立ち竦んでいたのだ。
――最悪のタイミングだ。
二人の顔色はさらに悪くなる。
地に這い蹲ったまま歯を食い縛り、拳を握るフェリクス。まだ動けない。無防備な人間形態で受けた攻撃は、想像以上にフェリクスにダメージを与えていたのだ。
「霧羽……ちゃん。来ちゃ……ダメだ」
イルメラが喉の奥から絞り出した声も、しかし霧羽には届かない。少女は危険を顧みず、二人の元へ恐る恐る足を踏み出していた。
「ふ、二人を放してください。でないと、警察を呼びます!」
霧羽はまるで印籠のように、取り出したスマートフォンをかざした。
男は霧羽を見て笑みを作る。次の瞬間――。
彼は躊躇いもなく姿を変えた。人の形をしていた顔は、あっという間に豹のものになる。
豹の獣人――即ち、オンヴァ。
人間の目の前で堂々と獣人化するなど――。
フェリクスとイルメラは、息を呑むことしかできない。
信じられない変化を目の当たりにし、恐怖で強張る霧羽の顔。
オンヴァはイルメラを小さな水溜りに投げ捨てた。バシャリと音を立て、イルメラの細い身体はアスファルトとの激しい邂逅を果たす。
衝撃で咳き込むイルメラ。それでも、彼女の目は霧羽を見据えていた。霧羽の元へとすぐにでも駆け出したかったのだが、彼女の身体は思うように動かない。
「そうだよ。人間を、食ったんだ」
ひたり、ひたりと、オンヴァは霧羽に向かって足を踏み出す。獲物の元へ静かに近寄る野性の豹のように、足音を抑え。
「美味かったなぁ。あの女の腹。柔らかくてよ」
オンヴァのその言葉を聞いた瞬間、霧羽の目が大きく見開いた。
「人間のくせに、何ていうのかねえ。妙に獣臭くてな」
霧羽の全身が震えだす。実のところ、それは恐怖からくる震えではなかった。しかし、この場の誰もがそのことには気付かなかった。想像すらできなかった。
「でも、凄い力を得るって聞いたのに、まだ俺の体に変化は表れていない。きっと、足りなかったんだ。もっと食わなきゃ駄目なんだ」
次の標的は、間違いなく霧羽になってしまった。フェリクスもイルメラも、這うようにして霧羽の元へと向かう。獣人形態に戻ればこの程度のダメージで動けなくなるほどではない。しかし霧羽がいる以上、それはできない。
「あなたが……あなたが、露花を……」
霧羽の口から発せられたのは、悲鳴ではなかった。怨嗟が込められた呟き。それは時を待たずして、悲痛な絶叫に変わる。彼女は持っていた傘を放り、隠していたナイフをポケットから取り出し、構えた。
「絶対に、絶対に許せない! 返して! 露花を返して!」
叫び、ナイフをオンヴァに突き立てんと、走る。
「よせ!」
フェリクスが叫ぶ。渾身の力を振り絞り、霧羽の元へと駆けようとした。だが、間に合わなかった。
「なんだよ、うるせぇ雌だなぁ」
腕を、一閃。
いとも簡単に、紙屑のように、それでいて神々しく、霧羽の体が宙に舞う。
オンヴァの爪は、彼女の絹のような白い皮膚を深く切り裂いていた。
霧羽の身体から、命の源の赤が噴き出した。それは空から絶えず零れ落ちてくる涙と合わさり、地を穿つ。
まるでスローモーションのようだった。
全てが鮮明に、二人の網膜に焼き付き、絡みつく。
視覚から送られてくる映像は、二人の心を瞬時に絶望の淵へと追いやった。
巻き込んでしまった。
何の罪もない、異界の国の住人を――。




