12.幻の檻
爪に付着した血を舐め取りながら、タガーダはふと思った。
確かこいつらを殺すのは、二回目ではないのかと。
牢に入れられる前――。最後に殺した奴らが、確かこの兎の獣人たちだったはずだ。その後、街の食堂で食事をしていたところを兵に捕まり、城の牢に入れられたはずではなかったか。
なぜ再度、自分はこうして兎の獣人たちの命を刈り取ったのか。まるで、時間が巻戻ったかのような、妙な感覚が彼を襲った。
不思議に思いながらも、タガーダは血で染まった家を出る。
――出たはずだった。
それなのにドアの向こうには、今しがたタガーダが作り上げた光景が広がっていたのだ。
散乱する兎の親子の死体。床や壁に飛び散った、夥しい量の血。
わけがわからなかった。
慌てて後ろを振り返る。やはり、親子の死体が横たわっていた。タガーダは何度も前後の景色を見比べた。
「どういうことだ、これ?」
まるで、鏡の世界に迷い込んでしまった気分だった。しかし、景色は反転していない。鏡などではない。
混乱するタガーダを、さらに異変が襲う。
正面の方の血の海に沈む死体の一体が、起き上がったのだ。
確かに死んだはずだった。確実に殺したはずだった。
兎の母が、タガーダを見据えていた。その目に激しい憎悪を湛えて。
「殺してやる」
母親が言葉を発した。地の底から這い上がってきたような声に、タガーダの全身の毛は瞬時に逆立った。
いや、何を恐れている。こいつは一度殺した奴らだ。生き返ったというのならば、また殺してしまえばいい。簡単なことだ。
しかしその『簡単なこと』が、今のタガーダにはできなかった。今まで幾つもの命を刈り取ってきた手が、震えていた。得体の知れない怖れに、彼は襲われていたのだ。こんなことは初めてであった。
「私の大切な者の命を奪った、お前を殺してやる」
業火のような赤い目でタガーダを見据えながら、兎の獣人の母親は近付いてくる。
タガーダは、吠えた。
泥のように全身に纏わり付いてくる恐怖を振り払うため、意味のない声を張り上げ続けた。ただがむしゃらに腕を振り回す。直後、ボールのように母兎の首が飛んだ。タガーダは三度母親の命を摘んだのだ。
大きく肩で息をするタガーダ。呼吸が乱れるような運動量ではなかったはずなのに。
動揺する自分に対し、小さく舌打ちした直後だった。
ズルリ。
自分の呼吸音に混じり、異質な音が彼の鼓膜を震わせる。音の発信源は、後ろだ。恐る恐る、タガーダは振り返る。
倒れていたもう一体の兔の母親の死体が、立ち上がっていた。思わず後退るタガーダの足に、今刎ねたばかりの母親の頭が当たった。
「殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」
その頭は赤い目を見開いたまま、怨嗟の言葉を吐いた。
ズルリ、と、さらに異音。
母親だけではない。子供の兎も、血に塗れた体を起こしたのだ。
タガーダは発狂してしまいそうだった。
何なのだ、こいつらは。
確実に殺したはずなのに。死んだはずなのに、動いている。
しかし、いつまでも恐怖に縛られたままのタガーダではなかった。ならば動かなくなるまで傷付けるまで。全身をサイコロステーキよりも細かく切り刻んでやればいいだけのことだ。
後ろから破戒締めにされたのは、そう考えた時だった。
タガーダを拘束したのは、兎の父親だった。しかし、頭がない。体だけが動き、タガーダの体に腕を回していたのだ。さすがにこれにはタガーダも息を呑んだ。
「殺してやる。殺してやる」
ゆらり、ゆらりと前から子供が近付いてくる。
自分が惨殺した一家に囲まれたタガーダは、悲鳴に似た雄叫びを上げた。
※ ※ ※
フェリクスの頭上に振り上げた手を下ろすことなく、石像のように硬直したタガーダ。目は眼前の壁を見つめたまま、微動だにしない。喉の奥からひゅうひゅうと音が鳴っている。
フェリクスの額にある金色の目は、魔眼と呼ばれる瞳だった。それは見た者全てに幻覚を見せることができる瞳だ。
これが、彼の持つ『能力』――切り札だった。
タガーダは幻覚の世界に迷い込んだまま、帰ってこない。フェリクスが額の眼を閉じるまで、幻覚の効果は続くのだ。ただし、その間の体力の消耗も激しいのだが。
フェリクスの腕が槍のように、動かないタガーダの身体を貫通した。
その瞬間――フェリクスの視界が白濁した。
『あいつは獣人なんかじゃない。化け物だ』
『早く殺せ。俺らの暮らしを脅かす前に、殺してしまえ』
『殺せ。殺せ!』
聞いたことのない声が、フェリクスの脳内を一瞬支配し、そして消えた。
ずるり、とタガーダの身体から腕を引き抜いたフェリクス。瓦礫の散乱する床に倒れたまま、タガーダはもう動く気配を見せない。そのタガーダの状態を確認することもなく、フェリクスはその場に立ち尽くしていた。彼の顔は色を失っていた。
「何だ、今のは……」
タガーダに使った能力の影響なのだろうか。呆然とした彼の呟きに、答えてくれる者はいなかった。
「終わったかい」
「ああ」
よろめきながら階段を下りてきたフェリクスに、イルメラが枯れた声をかける。壁際に背を預け座り込んでいたイルメラの隣に、フェリクスも同じように座った。彼の左腕は、だらりと力なくぶら下がったままだ。
「お互い、今日はボロボロだね」
「大したことはない」
「腕が折れてるくせに、よく言うよ」
失笑するイルメラのその声も、弱々しい。
「ソフトクリームが、食べたい」
ポツリと、宙をぼんやりと眺めながらフェリクスは呟いた。いつもは呆れながら聞き流すイルメラだったが、今ばかりは彼に同調した。
「まったくだね。甘い物を食べて、柔らかいベッドの中でぐっすり寝たいよ」
「……お前にはソフトクリームはやらんぞ」
「なっ!? あれだけ冷凍庫に買い溜めしてあるんだから、一つくらいはいいだろケチ!」
「欲しいのなら、自分で買いに行け」
フェリクスの言葉にイルメラは脱力するしかない。いくら好物とはいえ独占欲が強すぎやしないだろうかと思ったのだが、それを口に出す気力はもはや残っていなかった。フェリクスの恋人になる人はさぞかし大変だろうなと、まだ見ぬ彼のパートナーを案じたところで、視界の先の方に転がるコンファスの遺体を流し見る。
この後、彼らの遺体を片付けなければならない。幸い周囲は山だ。地中深くに埋めれば、後は自然が分解してくれだろう。遺体は獣人界に持って帰らなくて良いと、昨日ライツからも正式に告げられていた。
とりあえず、今すぐ動くのはつらい。埋めるのはもうしばらく休憩した後にしよう。イルメラの緋色の目が、瞼に覆われた。
残る犯罪者は、一人。
柔らかな黄土色をした、巨大な六階建てのマンション。そのエントランスを、霧羽は不自然にならない程度に足早に駆け抜けた。
エントランスの一角に設置されている丸時計をふと見ると、二十二時五分を過ぎたところだった。この時間に住民と出会うことは滅多にない。それでも霧羽は一刻でも早くこの場から姿を消したくて、エレベーターのボタンを何度か押し続けた。
霧羽の住居は五階だ。幸い、誰もエレベーターに乗ってくることはなかった。
エレベーターのドアが開くと、霧羽は既に取り出していた家の鍵を強く握りしめ、家の前まで走って行く。
慣れた手付きで鍵を開け、少し重たい鼠色のドアを押し開ける。彼女の目の前に広がるのは、闇に覆われた玄関と廊下。
「ただいま」
それでも霧羽は、その闇の中に向かって言葉を投げた。返事はない。
廊下の明かりを点けた彼女は、フラフラとした足取りで自室へと向かう。そして自室のベッドに正面から倒れ込んだ。
「露花……ごめんね……。今日もダメだった……」
うつ伏せのままシーツに吐き出された声は、僅かに震えていた。