10.廃病院にて
住宅街を抜けたのは、それから三十分ほど歩いてからだった。
彼らの前に在るのは、街灯のない、山へと続く細い道。舗装はされているが、何十年も手が入れられていないのか少し波打っている。
視線の先には、闇が広がるばかり。その道は、まるで黄泉へと誘う道のようでもあった。
一行は無言のまま、その暗い坂道を歩き続ける。
闇の中に渡るのは、四人分の足音と虫の声だけだった。
さらに三十分ほど歩き続けたところで、道の左手側に大きな建物が現れた。目的地の廃病院だ。コンクリート製の四階建ての建物は、かなりの大きさだ。駐車場だったのであろうコンクリートの隙間からは、そこに生えるのが当然のように雑草が生い茂っていた。
昔はこの辺り一帯に大きな病院はなく、この自然の中にある病院がここらに住む住人行き着けの医院だった。しかし平野部の開発が進むにつれ、病院の数も次第に増えていく。そして立地的に不便なこの病院から、人々の足は遠退くこととなってしまったのだった。当然そのような事情など、フェリクスらは知る由もないが。
建物内に足を踏み入れると、様々な色のスプレーで壁一面に落描きがされていた。文字と曲線が奇妙に入り混じった文様は、動物の目のようにも見える。
肝試しでやって来た若者の仕業か、はたまたここを溜まり場にしている人間がいるのか。フェリクスは周囲を確認しながら人間の気配も探ってみるが、幸い今日は誰もいないようだ。
窓ガラスは全て故意に割られてしまったのか、無事な物は一つとして存在していない。
フェリクスを先頭に、ガラスや瓦礫やゴミが散乱する建物内を移動する四人。やがてフェリクスはある場所まで来ると、足を止めた。
おそらくそこには昔、受付と待ち合いがあったのであろう。カウンターの後ろの小部屋とは対称的に、その前には広い空間が広がっていた。この程度の広さがあれば、仮に戦闘になっても対処できる広さだと昼間の内に判断していた。
「で、人間はどこにいるんだ? 今のところそれっぽいニオイはしねえみたいだが」
キョロキョロと首を回しながら、せかすように訊くタガーダ。フェリクスは彼の問いに答えぬまま、人間形態から獣人形態へと姿を変える。それを見たイルメラも、同様に元の姿に戻った。
「お前たちは、このまま獣人界へ戻るつもりはあるか?」
タガーダとコンファスには、フェリクスのその質問は、唐突な世間話程度にしか思えなかっただろう。しかしそれは、フェリクスが二人に与えた最後の選択だった。
「あ? 今のところはねえよ。どうせあっちに戻っても、待っているのは冷たい牢獄と死だけだ。だったらこっちの世界で好きなように生きたいぜ。人間の若い女の腸を食べると、俺たち獣人は凄い力を得られるらしいしな?」
「そうそう。私も戻るなんてごめんって感じ。ここには若い女の人間がいーっぱいいるもんね。きっと私たちだけじゃ食べきれないよ。それに、キラキラした綺麗な物もいっぱいだしね」
「凄い力ってのがどれほどのものかは知らねえが、今より強くなれるんだったら悪い気はしねぇもんな。で、その人間はどこよ? まさか逃げだしたとか言わねえだろうな」
フェリクスの真意を知ることなく、二人は明るく言い放つ。
できれば穏便に済ませたかったというのが本音だったが、やはり二人は戻る気はないらしい。
フェリクスも「牢の中に帰りたい」という奴はいないことはわかっていた。それでもこうやって話をしていると、彼らが人の良い、普通の獣人だと錯覚してしまいそうになる。
奴らは、犯罪者だ。
自分に言い聞かせるように、目を伏せるフェリクス。
次に瞼を開いた時、彼の青の目は鋭い光を宿していた。
イルメラも既に用意はできているらしい。軽く目配せをしてフェリクスに合図を送ってきた。
「人間は、逃げ出してはいない」
隠し持っていた透明なロープを、上に投げるフェリクス。すかさずイルメラが飛び、そのローブの端を掴んだまま二人の周りを急旋回する。瞬く間に、二人の体に巻きついていく透明なロープ。
「ちょっと!?」
「いきなり何しやがる!?」
「最初から人間などいやしないからな。このままお前たちを、獣人界に連れ帰る」
「なっ――!? てめぇ! 騙しやがったな!?」
怒りの咆哮と共に、獣人化するタガーダ。彼の身体はみるみる内に膨れ上がり、人間形態のおよそ倍の大きさになる。
フェリクスが持って来たのは、捕縛に特化した特別なロープだ。ライツから渡されていたそれは、通常なら獣人の強靭な力にも耐えうる物だ。しかしタガーダは、そのロープをいとも簡単に身体だけで引き千切った。
「くっ!?」
「――!?」
こうもあっさりと用意していた罠を突破されるとは。
ライツ曰く、ロープは貴重な材料を必要とするので一本しか持って来れていない。今ので最初で最後だったのだ。フェリクスとイルメラの間に、漣の如く動揺が広がっていく。
コンファスも獣人形態へと戻り、二人を憎々しげに睨んでいた。
「てめえら、殺す」
先ほどの陽気な声とは一転。静かで、それでいて冷気さえ感じるタガーダの声。
次の瞬間、虎の獣人はフェリクスに向かい、真っ直ぐと突進した。
建物の中を、黄色い稲妻が真横に走る。
凄まじい衝撃音が建物内に反響した。
空中で今の光景を見ていたイルメラの顔から、瞬時に血の気が引いた。タガーダがフェリクスを掴み、壁に叩き付けたのだ。
「フェリクス!」
「あんたの相手はこっちだよ!」
いつの間にイルメラの後ろに移動していたのか。
獣人化したコンファスが、イルメラの片羽を瞬時に掴む。そのまま力任せに、地に向けて叩きつけた。
衝撃で舞い上がる粉塵が、一時的にイルメラの姿を覆い隠す。しかしコンファスはそれをものともせず、イルメラの元へ降下し、背を踏み付けた。
「ぐっ!?」
「あら、良い声で鳴くじゃん。もっと聴かせてよ」
コンファスの足の鉤爪が、イルメラの背に食い込んだ。背に走る熱と痛みに、イルメラは堪らず顔を歪ませる。だが声だけは洩らさない。それが彼女の意地だった。
「ねぇねぇ。こっちの世界でさー、あんたも一緒に人間を食べようよ。あんたとは良い友達になれそうな気がするんだよねー」
「生憎、あたしは友達は選ぶタイプなんだ。それに、人間を食べるなんて。あんたには、鷹族としての誇りはないのかい?」
「なに、それ? 馬っ鹿みたい。埃なら掃除して綺麗にしなきゃねー?」
心の底から馬鹿にしたような口調で言った後、コンファスは高い声で嗤う。イルメラは全身が沸騰したような錯覚を覚えた。強引に身を捻り、コンファスの鉤爪から脱出する。
背の肉が裂ける痛みを堪え、イルメラはふらふらと正面に向かって飛翔し、コンファスと向かい合うようにして距離を取った。
暗闇に目が慣れてきたとはいえ、距離感は曖昧なままだ。
フェリクスに言ったように、確かに鳥目ではない。だがイルメラは獣人界でも、ほとんど夜に行動したことがなかったので慣れていないのだ。それに昨日とは違い、ここには街灯がない。意識せぬまま、イルメラの拳を握る力が強くなる。
「イルメラさぁ。夜に慣れていないんでしょ? 動きが鈍すぎて笑えるー」
イルメラの眉間に小さな皺が寄る。いくら彼女が夜に行動をしていた犯罪者だとしても、鷹の獣人として自分と大きな差があるとは思えない。彼女のその心を読んだかのように、コンファスの嘴が釣り上がった。
「あ、私も同じ条件だと思ってる? それがねー、私は特別なの。はっきりくっきりと見えてるんだなぁこれが。だから皆が寝静まった夜でも、楽しいことをし放題ってね」
「その『楽しいこと』が、強盗殺人だったってわけ? 趣味悪すぎるね」
スッと、コンファスの目が細められた。
「あんたさぁ、ムカつく。私より背が高くて、美人なところがムカつく」
「そりゃどうも」
「私より綺麗な奴なんて、醜くして殺してやる!」
吼え、飛翔するコンファス。イルメラの顔に、コンファスの鋭利な鉤爪が襲い掛かる。
「くっ――!?」
身を捻り、ギリギリでかわしたイルメラ。しかしすぐさま、コンファスの第二撃がイルメラに伸びた。鉤爪の先がイルメラの左肩を掠め、赤い線を引く。
「ほらほら。何とかしないと綺麗な身体が血で汚れていくよ」
挑発し、余裕を滲ませるコンファス。
イルメラは次々と襲いくる鉤爪の攻撃を、その場から動くことなく、ただ耐え続けていた。
背中と腹を同時に襲う激しい衝撃に、フェリクスの肺から強制的に空気が吐き出される。
タガーダによって壁に叩き付けられたフェリクス。彼を中心に、壁には放射状に亀裂が走った。
獣人形態に戻っていなかったら、おそらく即死していたであろうその威力。痛みで頭が朦朧とするが、タガーダの黒い殺意はフェリクスの意識の底にまで届いていた。
「たかが狼が俺を騙したこと、後悔させてやる」
壁にフェリクスを押し付けたまま、タガーダの手は彼の首を締め上げていく。メリメリと軋むその音は、果たして壁がひび割れた音か、それともフェリクスの首から出たものか。
頭に酸素が回らないままも、フェリクスはタガーダの腕を掴んだ。
呼吸困難で意識を失うより、首をねじ切られて先に死ぬ可能性の方が高いかもしれない。絶体絶命の中、そんなことが頭に浮かぶ。
迫り来る死から逃れるために、フェリクスは渾身の力を手に込めた。タガーダは小さく舌打ちをし、フェリクスの首から手を離す。あと数秒フェリクスに掴まれていたら、その腕は間違いなく折れていたであろう。
咳き込むフェリクスに向け、タガーダは至近距離から腕を振るった。
空気が唸り声を上げる。
何とかギリギリで、タガーダの一撃はかわしたフェリクス。しかし、すぐさま次の一撃が彼の顔面目掛けて放たれた。
体勢が崩れたままでは避けようがない。咄嗟にそう判断したフェリクスは、左腕で頭を庇った。
タガーダはその瞬間、口の端に笑みを浮かべた。
「ぐうっ!?」
鈍い音と激痛が響き渡り、フェリクスの左腕が役に立たなくなった事を告げる。
虎の獣人は、スピードとパワー、両方を兼ね備えていたのだ。
ライツから渡された資料で知っていたとはいえ、タガーダの身体能力はフェリクスの想像以上であった。自分もそれなりに力のある方だと自負していただけに、その現実はフェリクスのプライドを少なからず削り取る。
――厄介な奴だ。
フェリクスはギリ、と奥歯を噛み合わせ、考える。
――ここで『切り札』を使ってしまうか。
しかし、ここが獣人界ではなく人間の世界ということが、彼を躊躇させる。
仮に何らかの要因で『切り札』が暴走してしまった場合、取り返しの付かない事態を引き起こしかねない。たとえここが、人間が足を踏み入れることのない廃墟だったとしても、だ。
「犬ッコロよ。てめぇは簡単には死なせねぇ。全身の骨をバラバラにしてから殺してやるぜ」
不敵な笑みを浮かべたまま、タガーダは次の一撃を叩き込むべく、腕を振り上げた。