第2話
結城先生が教育実習生として学校に来てから、一週間が経過した。
先生は、現在大学四年生で、法学部に在籍しているらしい。教育学部ではないことにみんな多少なりとも驚いていたが、非常に楽しくわかりやすい先生の授業は、進学校ならではのハードスケジュールの中で、癒しの時間となっていた。
中学・高校時代はバスケットボールに明け暮れていたとのことで、休み時間に体育館でよく男子生徒たちと遊んでいるところを見かけた。
その人柄とユーモラスなトークスキルで、先生はあっという間に学校中の人気者になった。
女子生徒の中には、先生がいなくなってしまう前に告白をしようと計画する者まで現れたほどだ。
「お疲れ、結花」
「お疲れ、星!」
ひと足先に、昇降口で待ってくれていた結花のもとまで、足早に向かう。
この日の放課後、わたしは、彼女からあるお誘いを受けた。それは、部活帰りにジェラートを食べにいこうというもの。甘い物に目がないわたしは、二つ返事でそれに乗った。
靴を履き替えていると、上履きを持った彼女の手元がうっすらとカラフルに染まっていることに気づく。……絵の具だ。
奮闘した形跡は見て取れたが、完璧には洗い落とせなかったらしい。
「最近忙しそうにしてるよね。何かイベントがあるの?」
「そうなんだよ~。来月、結構大きな美術展覧会があってさ。ウチの高校にも出展依頼あって……今そのための絵を描いてるんだよね」
中学時代、美術部に所属していた彼女は、高校に入っても迷うことなくそこへ入部した。思い返してみれば、中学のときは、ことあるごとに賞という賞を総嘗めにしていた気がする。
彼女の絵は、非常にタッチが繊細で温かい(普段の賑やかな姿からは想像できないかもしれないが)。
昨年のわたしの誕生日に、キャンバス一面に星空とオーロラを描いたものをプレゼントしてくれたのだが、あまりに神秘的で幻想的な色彩と構図に、感動して泣きそうになってしまった。
父も気に入っていたその絵は、今も大切に家のリビングに飾ってある。
「じゃあ、行こっか!」
「うん。雨降ってないよね?」
「降ってない、降ってない。心配しなさんなって。星、ほんと雨嫌いだね」
「べつに嫌いってほどじゃないけど……湿気といい、あの纏わりつく感じといい、なんか許せないんだよね」
「……それを世間一般では『嫌い』って言うんだよ」
わたしも結花も、高校までは歩いて十分通える距離なので、お互いに徒歩通だ。雨天が多いこの季節は、通学がどうしても億劫になってしまう。
このときの空は、どんよりと曇ってはいるものの雨はやんでいたため、幸いなことに傘は必要なかった。
ものの数分で到着したのは、学校の近くに昨年オープンしたばかりの新しいジェラート専門店。少しいい値段だが、たまにこうして贅沢承知で食べにきている。
入り口にランタンがかけられたストーン貼りの洋風建築と、その可愛らしいヨーロピアンインテリアから、客層は女性に偏ってしまいがちのようだ。
魅惑のショーケースとの睨み合いのすえ、わたしは葡萄と生クリームのミックスを、結花は白桃と生クリームのミックスを注文した。
いつものようにテラスへと向かい、丸いテーブルに対面して座る。椅子が四つ備えられているので、自身の右隣にそれぞれ鞄を置いた。
……いざ賞味!
コーンの部分を握り、スプーンでパクッと一口頬張ると、絶妙なバランスの酸味と甘みが口の中に広がった。美味しいとわかっていても、ついつい感嘆の声をあげてしまう。
平日、かつ、天気があまりすぐれなかったせいだろうか。
この日は、いつもよりも客が少なかったので、わたしたちはゆったりと過ごすことができた。
「ニャンコちゃん、元気?」
「元気だよ。ますます大きくなってる」
「そっか~。雪ちゃん、ほんと美人さんだよね。素敵なお姉さんになるよ~」
雪を飼い始めてすぐ、そのことを結花に知らせた。ネコ好きの彼女だが、弟がアレルギーのため、家でネコは飼えないらしい。その反動からなのか、初めて雪と会わせたときの彼女のメロメロっぷりといったら、それはもう半端なかった。
ゆえに、最近のわたしたちの話題はもっぱら雪のことばかり。
ありがたいことに、雪は健やかに成長している。昼間学校で家を空けてしまうことを最初は心配していたけれど、賢く穏やかな性格の雪は、どうやらマイペースに過ごしているようだ。よって、それは杞憂に終わった。
「しっかし、結城先生と星にそんな接点があったとはね」
雪を飼うことになった経緯も話すと、「そんな偶然あるんだ!」と、結花はそのクリクリの目をさらに丸くしていた。
「……あのタイミングで雪を家に連れて帰って、ほんとに良かったって思ってる。家でひとりじゃなくなったから、だいぶ楽になれたんだよね」
雪がいてくれたおかげで、わたしはひとりでいる恐怖をやわらげることができた。それまで続いていた食欲不振も改善することができたし、なにより話し相手ができたことに対する悦びが一番大きかった。
「……あのさ、星」
と、結花の声のトーンが急に低くなった。
「その……おじさんのことなんだけど」
「うん」
ヤバい、気を遣わせてしまったのだろうか。
だけど、今では父の死もある程度自分の中で消化できてきたし、そのことを結花もちゃんと理解してくれているはずだ。父との思い出話をするときももちろんあるが、ここまで彼女が落ち込むことなんてなかったのに。
「おじさん、もうそろそろ四十九日だよね? ……で、その、法事とかってさ、どうするの?」
この子はほんとに……。
結花の口から訥々と語られたのは、父の四十九日法要のことだった。
父が亡くなってからというもの、わたしの生活面や健康面など、何かにつけて結花は気を揉んでくれている。でも、まさかこんなことまで気に留めてくれていただなんて。
嬉しいけど、なんだか申し訳ない。
はたから見れば、女子高生二人がアイスを食べながらこんな会話をしているなど、夢にも思わないだろう。
「四十九日は、ほんとに身内だけでするの。伯父さん夫婦が、段取り進めてくれてる」
父には四つ離れた兄がいて、現在、隣県で奥さんと息子二人の四人で暮らしている。
昔から、伯父はとても良くしてくれていた。伯母は料理を教えてくれたし、歳の離れた二人の従兄もよく遊んでくれた。
父が亡くなったときも、一緒に住もうと言ってくれたのだが、わたしはその申し出を断った。それは、わたしのいつもの〝癖〟からだったが、父とともに過ごしたあの家を離れたくなかったというのが最大の理由だ。
「そう、なんだ。でさ、あの……お、お母さんには連絡とかって……」
……ああ、なるほど。
結花が表情を曇らせたことに合点がいった。どうやら、本当に聞きたかったのはこっちだったようだ。
「……あの人には言ってない。あの人と話してもわたし、絶対ケンカになるだけだから。それに、日本にいないしね」
意識して抑揚をつけずに喋ったことで、かえって憮然とした語調になってしまった。感情に左右されてしまう自分に、ほとほと呆れる。
それほどまでに、母を前にすれば、わたしは泰然とした気持ちではいられないのだ。
十六年前。わたしは、アメリカのニューヨークで生まれた。
九歳のときに両親が離婚。その直後、父に連れられて日本へ帰国した。離婚の原因は、ただひとつ——母のわたしに対する暴力だった。
アメリカ人の父親と日本人の母親とのあいだに生まれた母は、自身の母親を早くに亡くしたせいもあるのか、日本語がまったくと言っていいほど話せなかった。父との会話もすべて英語。わたしも、母と会話をするときは、いつも英語だった。
とはいえ、母とのあいだに、親子らしい思い出はなにひとつない。思い返そうとすればするほど、嫌な記憶ばかりが濃く蘇る。
そんなこんなで、わたしは、母を母として慕うことはできないのだ。
「そ、そっか……そだね。ご、ごめんね! 変なこと言って」
「ううん、大丈夫。気にしないで」
母親の愛情というものに飢えたことはない。あるかもしれないが、昔のことすぎて忘れてしまった。
なにより、父が十分すぎるくらいの愛情をわたしに注いでくれていたから、母がいなくてつらいと思ったことや、他人の家族を羨ましいと思ったことなど一度もない。それは、妬みや嫉みなどではけっしてなく、単純に〝家族構成の違い〟として自分自身納得できていたからだ。
「さてと、じゃあそろそろ帰ろっか。雪に夕飯あげなきゃ」
「あ、うん」
会計は先に済ませてあるので、わたしたちはそのまま店をあとにした。
時刻は、もうすぐ七時になろうとしていた。
❈
「夜なのに暖かくなってきたね」
「ほんと、もう夏だね~」
さきほど重くなってしまった空気を払拭し、わたしたちはいつものように他愛もない会話をしながら家路を歩いていた。
あいかわらず空は雲に覆われているが、水を落とすのを、すんでのところでとどめているといった感じだ。
先に着くのはわたし。普段通り互いに手を振って挨拶をし、別れる……はずだった。
「じゃあまた明日ね……って、星ン家の前誰かいるよ?」
「え?」
多角形のフォルムが特徴的な赤煉瓦調のモダンハウス。その門の前に、ひとりの女性が腕を組み、足を交差して立っていた。
少しもうねることなく腰まで伸びた色素の薄いロングヘアー。はっきりと色は判別できないが、ダークカラーのパンツスーツに、黒のハイヒールを身につけている。
その人物が誰であるかわかった瞬間、全身から血の気が引いていくのを感じた。
「な、んで……」
あれは、
「Hikari!」
母だ。
「……What……What are you doing here……?」
なんで、あの人がここにいるの……?
わたしを見つけるやいなや、ヒールをカツカツと鳴らしながら、ものすごい剣幕でこちらへと向かってくる。
「星……」
母のこの様子に、声を震わせた結花が、わたしの名前を呼ぶ。
「ごめん、結花。今日はありがとね。すごく楽しかった。……早く、帰って」
「で、でもっ!」
「大丈夫だから」
結花を巻き込みたくはないという一心で、硬い表情を解き、こう告げる。彼女は、グッと唇を噛み締めると、目を潤ませながら走っていった。
結花には申し訳なく思ったけれど、わたしの頭の中は、今この状況をどう処理するかということだけでいっぱいだった。
怖いなどという感情は、いっさいない。
『なんであんたがここにいるのよ』
冷静にこう言い放ったつもりだが、それが気に入らなかったらしく(気に入られた記憶なんてないけれど)、母は早口の英語で捲し立ててきた。
『何よ、その態度は! わたしと一緒にアメリカに帰るって、何度言ったらわかるの!』
『しつこいわね! わたしはここにいる……アメリカになんか行かない! わたしの家はここなんだからっ!』
ほら、やっぱりケンカになった。
どうしてこの人はいつも勝手なのだろう。勝手な癇癪でいつもわたしに当たって。
『アキラも死んで、どうやってひとりで生きていくつもりなの!』
上から叩きつけるような甲高い声。上から押さえつけるような傲慢な態度。
なにひとつ、変わってなんかいないんだ。
『ちゃんと今までだって生活してきたわよ! だからもうほっといてっ!』
『なっ——!』
母が手を振り上げた。
ぶたれるっ! そう思い、ぎゅっと目を瞑った次の瞬間。
『やめてください!』
ぶたれなかった代わりに聞こえた男性の声。
おそるおそる目を開けると、そこには——
『落ち着いてください』
「あ……」
母の手を掴んだ、結城先生の姿があった。
『なんなの、あなた。この子の何?』
『私は、彼女の学校の教師です』
『教師? 教師がどうしてここに? 他人なんだから、親子の問題に口を挟まないで頂戴』
親子? なんだそれは? ふざけないでよ。
いまさら——
『偶然ここを通りかかっただけです。お二人のあいだに口を挟むつもりもありません。とにかくいったん落ち着いてくだ——』
『いまさら母親面なんかしないでよっ!!』
母が放った〝親子〟という言葉に怒りが爆発した。この人は、わたしに対する数々の暴挙を忘れてしまったのか?
『……なんですって? あいかわらず生意気な子ねっ!』
『だからもうほっといてって言ってるじゃない! ……帰って……帰ってよ!!』
わたしは忘れてなんかいない。忘れることなんてできない。あんたから受けた身体への暴力も、言葉の暴力も。
息を切らし、歯を食いしばりながら、母を睨みつける。
しばらく流れた沈黙。
その沈黙は、あまりにも理不尽な母のこの言葉によって破られた。
『あんたなんか……あんたなんか、産まなきゃ良かったっ!!』
「……っ!!」
「なっ——!?」
それだけ吐き捨てると、あの人は走り去ってしまった。
「ったく!! 言っていいことと悪いことの区別もつかないのかっ!? ……おい、天宮さん大丈——」
胸の奥で渦巻く、どす黒い感情。
「……でなんかないわよ……」
痛い。
苦しい。
「え……?」
憎い——。
「わたしだって、産んでくれなんて頼んでなんかないわよっ!!」
もう限界だった。なんなんだ、いったい。急に現れて、言いたいことだけ言って、最後はそれ?
わたしはひとりで生きていく。誰にも頼らない。頼りになんかしない。頼りになんか——
「っ——!」
突然、いっさいの光が遮断されてしまった。思わず、肩がビクッとはねる。
「泣いていいよ」
そして、不意に聞こえた、優しい声。
気がつくと、わたしは結城先生に抱き締められていた。
「我慢しなくていい。大丈夫、俺しかいないから」
大きくて温かい腕。
本当は求めていたのかもしれない。周りは頼りにできないと思っていた心のどこかで、この温もりを。
「…………っ——!!」
わたしは、父が亡くなって以来初めて泣いた。……ううん。ここまで大胆に泣いたのは、生まれて初めてだ。父が亡くなったときは、周りに気を遣いすぎて、泣けなかったから。
伯父も、自分の弟があまりにも若くしてこの世を去ってしまったことに、ひどくショックを受けていた。だから、わたしだけ落ち込んでいるわけにもいかないと思った。
だけど今は、わたしの涙を受け止めてくれる人が目の前にいる。そのことが、こんなにも安心できることだなんて知らなかった。
十六年間の全てを吐き出すように。
わたしは、結城先生の腕の中で、泣きじゃくった。
❈
「……落ち着いた?」
「はい……すみま——」
突として訪れた、一瞬の思考停止。
直後。自分のやらかしてしまった実に汗顔な失態を認識すると、わたしは猛烈な勢いで結城先生の腕の中から飛び出した。
「すみませんでしたっ!! わ、わたし……わああああっ!!」
何をやってるんだ、わたしはっ!! 相手は教育実習生だぞっ!! いやいや問題はそこじゃないっ!! 人前だってば、人前っ!! あーっ、穴があったら入りたい……!!
先生のほうをまともに見られずにいるわたしは、両手で顔を覆い、ただただその場で狼狽えることしかできなかった。
「そんな謝らなくてもいいよ。俺もとっさに教師なんて嘘ついちゃったし。……それより大丈夫か? 今のお母さんなんだろ?」
けれど先生は、わたしが泣いてしまったことに関してあまり気にしている様子はなく、むしろ母とのことを気にかけてくれているようだった。
見事なまでの先生のこの落ち着きように感化され、わたしもすっかり冷却されてしまう。
「あ、はい。母といっても、全然親子らしい関係じゃなかったんです。わたしが九歳のときに両親離婚して……それからは、父がひとりでわたしを育ててくれていたんですけど、二ヶ月前に亡くなって……」
「そう、だったのか……」
とはいえ、まだなんとなく先生と目を合わせづらかったため、視線を自分の足もとに向けたまま、やっとの思いでこれだけ伝える。
「まっ、今日はもう家に入ってゆっくり休めな」
すると、先生はわたしの頭の上に手を置いて、ポンポンと優しく撫でてくれた。
「すみませんでした。あの人が失礼なこと……」
「大丈夫、気にしてないよ。それよか、早く青野さんに連絡しといてやれ。心配してるぞ」
「結花?」
先生の口から結花の名前が出たことが不思議で、ここでようやく顔を持ち上げた。
「実は、彼女が血相変えて走っているところに出くわしてさ。もう遅かったから、家に帰したけど」
どうやら先生は、道端で偶然結花に出会って事情を聞き、わざわざわたしの家まで来てくれたらしい。
わたしは胸が熱くなるのを感じた。これほどまでに湧き上がってくる感情に、少し戸惑いすらおぼえる。
「じゃあ、俺帰るから」
手を振り、歩みを進めようとした先生を、わたしは慌てて呼び止めた。
「せ、先生っ!」
まだ、伝えていなかったことがある。
「あの……ありがとうございましたっ!!」
精一杯の感謝の気持ち。
暗くてあまりわからなかっただろうけど、このときのわたしは、きっとまた赤面していたに違いない。
「ああ。じゃあ、また明日学校で。おやすみ」
弾けるような笑顔を残して、先生は帰っていった。わたしの頬は、まだ火照ったままだ。
このとき肌を撫でた一筋の風は、この季節のそれにしては、実に清爽だった。
先生の背中が見えなくなったのを確認し、家の中へ。玄関では、なにやら元気がなく、マットの上にちょこんと座っている雪の姿があった。きっと、わたしと母の言い合いを聞いて、委縮してしまっているのだろう。
騒がしくしてしまったことと、ご飯が遅くなってしまったことに対し、雪に謝罪する。そうすると、伏せていた耳をピンと立て、喉をゴロゴロと鳴らしながら、いつものように甘えてきてくれた。
はたと、直接雪と先生を会わせてあげれば良かったということに気づく。
明日先生に雪の写真を持っていってあげよう。そう心に決め、気持ち新たに、雪と一緒に夕食の支度に取りかかった。