7 新婚生活は波乱万丈Ⅱ
王宮の広々とした大理石の廊下は、朝になると行きかう人々でいっぱいになる。それぞれの屋敷や詰所から出資してきた騎士から王宮の下働きまで、その立場は様々だ。
そんな喧騒に包まれはじめた廊下の片隅で、柱の陰に潜む人影があった。
「…そろそろいらっしゃる頃かしら」
柱からはみ出ている濃紺のドレスは、王宮に勤める女官に支給されるお仕着せだ。よく見ると、他の柱の陰にも同じようなドレスがちらついて見える。
その誰もが皆、食い入るようにして通り過ぎる人々を眺めていたが、いつもの時間が近づいてきた時、一人が
泣きべそをかき始めた。
「…やっぱり今日はやめておくわ。今お顔を見たらつらくなってしまうかもしれないもの」
「何言ってるのよ!あんな噂は嘘よ。いくらなんでも早すぎるじゃない。それに相手があのオーリア様だなんてありえないわ」
「でも噂の出どころは陛下付きの侍従でしょう?だったら本当に…」
「しっ!いらしたわよ」
女官たちの前に姿を現したのは、近衛騎士の証である純白の隊服をきっちりと着こなしたディオンだ。こうしていつもきっかり同じ時刻に出仕する彼を自主的に出迎えることが一部の女官の日課となっているのだ。
だが、今朝はいつものように色めきたった女官がディオンを取り囲むことはなく、さっそうと歩き去る姿を悔しげな表情で見守るだけで終わった。皆、玉砕が決定していることは薄々分かっていた。
「あーあ、まさかポッと出の王女様に横からかっさらわれるとは思わなかったわ…」
「しかも育ちはわたくしたちよりずっと下なのよねぇ」
「私も実は陛下の隠し子だったりしないのかしら」
「無理よ、あなたお父上にそっくりだもの」
「もう行きましょう。そろそろルディーレイア様がお目覚めになる時間だわ」
不毛な会話を切り上げてぞろぞろと職場に戻り始めたものの、女官たちのため息は止まらなかった。
「でも、一番お気の毒なのはユリーシア様よね。あの方もずっとディオン様を見つめていらしたもの」
「あら、でもそれは昔の話でしょう?今は想いあった人と手に手を取って駆け落ちなさったのだからいいじゃない」
「それでもお知りなったら嘆かれると思うわ。ご自分は望まぬ結婚を強いられて、なんとか逃げ出したと思ったら想い人を妹にとられてしまったのだから」
今朝の王宮はいつもと少し違うとディオンは感じていた。
柱の陰から飛び出してきた女官たちに取り囲まれることがなかったのは良かったのだが、なぜかすれ違う人々にちらちらと見られている気がする。それも男女問わずだ。
(なんだ?私の顔に何かついているのか?)
釈然としないまま廊下を突き進んでいると、向こうから歩いてくる友人の姿が見えた。
「やぁディオン。なんだか浮かない顔をしているね」
軽く手を挙げながら華やかな顔立ちに笑みを浮かべる友人に、ディオンは仏頂面で答える。
「お前は相変わらず楽しそうだな、マリス。…右頬に口紅がついてるぞ」
「おっと、さっきの子につけられたのかな。最近の女性は情熱的というか、積極的だね」
一見すると女性と見紛うほど美しいマリスだが、その職業はディオンと同じ騎士である。
亜麻色の長い髪を翻すキザったらしい所作も優雅に見えるのは、彼が侯爵家の生まれだからだろう。
彼の生家とサーヴェルト家は祖父の代から付き合いがあり、ディオンにとってマリスは幼馴染とも言える存在だった。
「騎士でありながらお前は色事に対して軽率すぎる。もう少し慎みを持ったらどうだ」
「誤解だよディオン。手当たり次第に女性をひっかけるそのへんの女たらしと僕を一緒にしないでくれ。僕はただ、人生でたった一人の運命の女性を探しているだけだよ」
「そのロマンチストっぷりも軟弱な気がしてならない。どうせまた恋愛小説に影響されてるんだろう。騎士たるもの恋愛にうつつを抜かすものじゃないと何度言ったらわかるんだ」
「そんなこと言って僕より先に結婚してしまったくせに。そうそう、今朝はそれを聞きたくてきたんだった。昨晩はどうだったんだい?」
「もう知ってるのか?私が結婚したことを」
オーリアとの結婚が決まった時、結婚式に関することはすべて王室側が取り仕切っていたため、式が無事執り行われるまで結婚のことは口外しないようにと言われていたのだ。もちろん当時もこれは怪しいと感じていたが、今となってはオーリアの醜態をほかの貴族に悟らせないためだと分かる。
だが、結婚から一夜明けただけで知れ渡っているのはいくらなんでも早すぎる。一晩であのオーリアが人前に出られるほどの淑女に変身するわけもないし、実際にしていない。
「外堀を埋めるのに必死なんだよ。なんたってお相手はあのオーリア王女なんだからさ」
「どういうことだ?」
やっぱり分かってなかったか、と訳知り顔で笑うマリスに、ディオンは嫌な予感がした。
「今さらディオンが王女を放り出さないように二人の結婚を吹聴してるんだよ。オーリア王女の自由奔放さは有名だからね。義理堅いディオンにすら見捨てられたら王女の引き取り手はどこにもいないから、なんとしても君の家に置いときたいんだよ」
「オーリア…王女のことまで知れ渡っているのか!?」
「王宮に出入りする者ならだいたいは知っているよ。というかディオンのいるところでも話題に上ったことがあるよ。君の事だからただの口さがない噂だと思って頭から締め出したんだろうけど」
「な…なんということだ…」
王宮にいれば根拠のない噂などいくらでも耳に入ってくる。そんなことに心を惑わされてはならないと聞く耳を持たずにいたことが、まさかここにきて仇になるとは。
「君の様子からすると、王女の噂は真実だったようだね」
「…だが、私はそんなことで妻となった女性を捨てたりはしない」
すでにオーリアの醜態が広まっていたのは誤算だったが、王室が心配せずともディオンはオーリアと添い遂げる覚悟を決めている。オーリアが心無い噂で傷つかないように守ることも自分の役目だ。
「さすがディオンだね。君のそういうところは本当に尊敬するよ。だけど問題は舞踏会だね」
「たしかに、次のシーズンまでに表面だけでも何とかしなければならないな」
年末から春にかけての舞踏会シーズンまであと二月ほどある。オーリア自身も貴族の妻にふさわしい礼儀作法を身に着けると意気込んでいたし、焦る必要はない。
「いや、それが半月後にあるんだよ。ソフィア王女のお披露目舞踏会が」
「は、半月後!?聞いてないぞそんなこと」
ソフィア王女とは、失踪した第二王女ユリーシアにかわって隣国ベルネシアへ嫁ぐことになった第三王女のことである。
彼女もオーリアと同じく庶子として王宮から離れて育ったため、隣国へ輿入れする前に国内の貴族にお披露目してある程度交流をもっておく必要がある。だが、こうも早くそれが行われるのは予想外の展開だった。
目の色を変えて食ってかかるディオンを、マリスが馬を相手にするようになだめる。
「まぁまぁ落ち着いて。僕も君の結婚情報と一緒にさっき聞いたばかりだよ」
「誰から聞いた!?」
「もちろん、我らがエドワール殿下から」
すかさずディオンは歩く速度を一気にあげ、王宮の一角にある職場へと向かった。
重厚ながらも繊細な細工が施された樫の扉を叩き、入室を告げる。上質な調度品が揃えられた部屋の中に入ると、ゆったりと椅子に腰かけた青年が二人を出迎えた。
「おはようディオン。そして結婚おめでとう。昨日は式に列席できなくて残念だったよ」
「恐縮です。エドワール殿下」
やけに晴れやかな顔をしているこの青年――エドワールこそ、ディオンの直接の主君であり、ローグスト王国のお世継ぎである。
癖のないハニーブロンドを肩まで伸ばし、王妃譲りの美貌に微笑みを浮かべている姿はまさしく王子の位にふさわしい。
「しかし、私が幼い頃から仕えてくれているディオンが義弟になるとは妙な気分だな。そうだ、私のことを義兄上と呼んでもかまわないぞ?」
エドワールはオーリアと同じ17歳だが、数か月早く生まれている。そのためディオンにとっては年下だが義理の兄という事になるのだ。
「光栄ですがお断りいたします。それよりも殿下」
「何だ義弟よ」
エドワールはわざとらしいほどの笑顔でこちらを見ている。どうやら義兄弟ごっこがお気に召したらしい。
そっけないディオンの反応などお構いなしなあたりがオーリアと似ている。
「そんな顔をするな。私は生まれてから17年間末っ子として生きてきた。つい最近妹が二人できたが、弟はいない。だから義理とはいえ弟ができて嬉しく思っているんだ」
「殿下…」
「いいですねぇ。僕も加わりたいな」
「それならマリスは末のルディーレイアと結婚させるか。そうすれば義弟二号の誕生だな」
一人満足そうにうなずくと、エドワールは早速紙とペンを取り出した。それを見てマリスが慌てて止めにかかる。
「冗談ですよ殿下!だいたい早すぎますって。ルディーレイア王女はまだ12歳でしょう」
「歳の差なんて些細なものだ。それより幼女趣味疑惑に慌てふためくお前の顔が見たい」
「言ってることが矛盾してますよ!」
すったもんだの挙句マリスが紙を取り上げることに成功し、エドワールは渋々ペンを置いた。
「まぁいい。義弟一号作戦が成功したからよしとしよう」
「義弟一号作戦?」
「その名の通りディオンを私の義弟一号にする作戦だ。オーリアの結婚相手にディオンを推したのは何を隠そうこの私だからな」
「殿下が私の結婚を仕組まれたのですか!?」
「あれに耐えられるのはお前ぐらいだと思ってな。国王直々の命令を真面目なお前が拒むわけがない。貰い手に困る妹と20歳になっても女っ気のない部下を引き合わせて一石二鳥だ。いや、私に義弟ができたから一石三鳥だな」
唖然とするディオンの肩をエドワールがぽんぽん叩く。その表情にオーリアの顔が再びかぶって見えたが、無邪気なオーリアと違ってこちらは悪意を感じた。
「うわぁ…策士ですねぇ殿下。僕に回ってこなくてよかった」
「だからお前にはルディーレイアをやろうと言ったんだ」
「もっと妹君を大切になさってください」
「しかし殿下…。王室の方々がそれほどまでにオーリア王女のことをご心配されていたのなら、なぜこの時期に舞踏会を開かれるのですか?無礼を承知で申すならば、今の王女を衆目にさらすことは王室にとっても良いこととは思えません。ソフィア王女も王宮に入られてまだ二月で、社交界には不慣れでいらっしゃるでしょう」
せめて舞踏会シーズンまで猶予があれば、表面を取り繕う程度の行儀はオーリアも身に着けられるかもしれない。だが半月ではあまりに時間がない。オーリアは貴族の名前一つ知らないのだ。
「たしかにそれは私も父上も危惧している。しかしユリーシア姉上が結婚直前に失踪したことでベルネシアに不信感を与えてしまった以上、一刻も早くソフィア姉上を嫁がせなくてはならない。ベルネシアとの関係が悪くなれば、我が国は干上がりかねないからな」
ソフィア王女の嫁ぎ先であるベルネシアは〈大陸の泉〉と呼ばれるほど水資源に恵まれた国である。内陸国であるローグスト王国に流れる河川の水源はほとんどベルネシアにあるため、かの国との国交は欠かせない。
「ただ、幸いなことにベルネシアは美女に目がない国だからな。ソフィア姉上の肖像画を送ったら大喜びで早く嫁にくれとせっついてきた」
「ソフィア王女はお美しいですからね。お相手の王子がうらやましいですよ」
羨望のため息をつく友人の隣で、ディオンは苦悶のため息をついた。
オーリアも王女である以上、舞踏会への出席は避けられない。だがもしそこで失態をおかせば王室とサーヴェルト家の名誉に傷がつく。
(なんとかして舞踏会を欠席させなければならない…。だがこれはオーリアの社交界デビューという側面もある。欠席すれば、それはそれで妙な噂がたつ)
もしかすると社交界デビュー前の第五王女ルディーレイアも国王の挨拶時くらいは出席するかもしれない。だとすればますますオーリアだけが欠席するわけにはいかなくなる。
(こうなったら私が守るしかない…。オーリアも、王室とサーヴェルト家の名誉も、全て私が守らなければ)
心の中で意思を燃え上がらせるディオンは、その様子観察していたエドワールとマリスがくすっと笑ったことに気づかなかった。
「意外と似合いの夫婦かもしれませんね」
「当然だ。この私の推薦だからな」