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Diary

作者: 芦静一

八月十三日 金曜日


今日、玄関の前に段ボールが置いてあった。親が留守の間に部屋に持ち込んだ。

ガムテープの封を開けると、ミケがのっそりと顔を出した。きらきらと淡く輝く目が、綺麗だった。


私はこの日を一生忘れないと思う。

だって、私とミケの出会いの日だったのだから。



八月十四日 土曜日


お母さんと、ミケと家で暮らしてもいいか、話した。

お母さんは汚いからすぐに捨ててきなさいと言った。私は必死に説得したけれど、お母さんはいつまでも、ミケをゴミを見るような目で睨むだけだった。

悔しくて、涙が出た。子供みたいに、大声で泣いてしまった。すると、お父さんが、一緒に暮らしてみても良いんじゃないかと言った。お母さんは凄く嫌がったけど、最後には一緒に住むことを認めてくれた。


私が飛び上がって喜んでいると、お父さんが、面倒はちゃんと見るんだぞと言った。望むところだ。

あいにく私は生き物を飼ったことがなかった。けれど、ミケの不思議そうにこちらを見つめる瞳を見ると、なぜか上手く世話ができるような気がした。

明日からのミケとの生活が待ち遠しい。どんなことをして遊ぼうか。



八月十五日 日曜日


一日中ミケと遊んだ。ミケは可愛い。耳のあたりを優しく撫でてやると、甘えるような声で擦り寄ってくる。一緒にたくさん遊んだ。


ミケという名前は、私がつけたわけじゃない。あらかじめミケに嵌められていた首輪に、『MIKE』と印刷されていた。それを拝借して「ミケ」と呼ぶことにしたのだ。

お父さんは首輪を見て、それはもしかすると「マイク」かもしれないよ、と言った。

ミケはそれを聞いて、隣の部屋へと駆けて行ってしまったので、多分ミケで合っているのだと思った。


夜も、一緒の布団で寝た。ミケの体温が触れ合う肌から伝わって、気持ちいいような、暑苦しいような、そんな気分になった。とりあえず、明日からは遠慮しておきたいと思った。

ミケは寝息も立てず、寝返りもうたなかった。その静かさは、言葉のとおり、まるで死んでいるかのように見えた。突然現れたミケは、同じように突然消えてしまうのではないか。そんな不安から、思わずその寝顔に手を伸ばす。

ぴくり。

手の甲にミケの柔らかい頬の感触が伝わると同時に、ミケは目を覚ました。驚きで丸くなったキラキラ光る目に、私は何でもないよ、と言った。

そして、両腕でその体をギュッと抱きしめる。ミケは嫌がった。おそらく熱帯夜のせいで。

おやすみなさい。



八月十六日 月曜日


最悪の一日だった。


今日はプール締めがあった。プール締めとは、学校のプールを閉鎖することだ。なので、私たちは溜まった水泳の補習をその日までに消化しなくてはならなかった。私は泣く泣くミケに別れを告げ、そして学校へと向かった。


補修は、地獄だった。まあこの辺は覚悟していた、というか諦めの境地に達していたので、しょうがないと言いきれた。


その後だ。

私が女子更衣室で着替えていると、不意に上級生の男子がスライド扉をガラガラと開けた。

私はその時まだ水着を脱いでいなかった。ギリギリセーフだと、そんなことを考えた。その先輩がすぐに男子更衣室と女子更衣室を間違えたことを謝罪し、速やかにどこかに消えるものだと思っていたから。


しかし、先輩はニヤリと口元を歪ませ、タイル張りの更衣室に一歩踏み込んできた。


とんだ思い違いだった。彼が女子更衣室に間違えて入ってくるわけがないのだ。

そもそも、男子は別棟の剣道場で水着に着替えるようになっていて、この学校には男子更衣室なんて存在しなかったのだから。


そこから先のことは、思い出したくない。

ただ、私を蹂躙して醜く嗤う男の、右耳のピアスが五月蝿く光っていた。



私はやっとの思いで家に帰り着いた。

真っ白だった頭の中は、ミケの顔を見た途端に真っ黒に変色した。

絶望と怒りと、そして今まで感じたことのなかった殺意。爆発した感情を、嗚咽に変えて吐き出した。泣き喚いている間は、あの先輩がどこかで殺されてしまえばいいのにという考えで頭がいっぱいだった。


ミケが私の顔を何度も舐めた。涙を拭き取るように。心の傷を癒すように。

その慰めの舌に少しだけ落ち着きを取り戻し、私はミケの頭を撫でた。優しく撫でて、呟いた。


ミケなら、あのピアスの付いた耳を、噛みちぎってくれる?


ミケは首を傾け、そしてもう一度私の頬を舐めた。



八月十七日 火曜日


朝起きると、隣で眠っていたはずのミケの姿が消えていた。私は驚いてリビングに向かった。

そこには黙り込む両親の姿と、一枚の置き手紙があった。私はその手紙を、声にも出せずにただただ読んだ。

血の気が引き、冷えていく意識の中、お母さんの言葉が微かに聞こえた。


台所の包丁が、一本足りないの。


何も言葉を返さずに、私は街へと駆け出した。まだ何も起こっていないと信じて。

途中で血痕や悲鳴、救急車のサイレンなんかと出会っても、私は聞こえないふりをした。そして馬鹿みたいに信じた。ミケはまだ何もしていないと。


しばらくして、照りつける日差しの中に、その華奢な背中を捉えた。大声で名前を呼ぶ。大通りに響いた私の声に、ミケが振り向く。

その手には、血で赤く染まった包丁と、肉片のようなものが握られていた。

もう一度名前を呼ぶと、ミケは猫のようなあの笑顔で、優しく微笑んだ。


次の瞬間、そのか細い身体は陽炎の中でゆっくりと傾いた。蠢く数回の銃声と共に。

私は走った。ミケが目の前で、コンクリートに倒れこむ。私は脇腹から血を流すその体を力一杯抱きしめ、何度も何度も謝った。


駆けつけた数人の警察官の腕が、私をミケから引き剥がそうとする。振りほどくこともできないまま、ミケがどんどん離れていった。涙がこぼれ、そんなことにも気づけないまま、ただその名を呼んだ。


夏の陽射しの中、ミケは一度私の顔を見つめ、そして安堵したように目を閉じた。

猫のように輝く少女の瞳は、二度と開かなかった。



八月十八日 水曜日


段ボールの中から出てきた少女の葬儀は、行われなかった。警察の捜索をもってしても、ミケの戸籍が発見されることはなく、彼女は身元不明の死体として処分されることになったらしい。

私は被害者、ミケは加害者だと、警察は公表した。その「現実」と、「真実」の相違に、心が冷たく燃えるのを感じる。


本当は彼女が一番の被害者なのに。


段ボールに無理矢理詰め込まれた少女の体には、青痣がいくつも浮かんでいた。

彼女の舌は私を舐めるだけで、一言も言葉を発することはなかった。

置き手紙の文字は、変に細かったが、汚くはなかった。むしろ、繊細さを感じさせる、綺麗な字だった。

彼女は、自分の運命に嫌な顔をすることもなく、いつも穏やかに微笑んでいた。


世界が、私が少しでも良い方向に違っていたなら、ミケはきっと幸せだったのに。

私たちの世界は彼女を傷つけ、殺してしまった。


私は自殺しようと思った。実際に何度か首に紐を掛けるところまでいった。

だが、何度やっても、遂行できやしなかった。足で踏み台を蹴ろうとする度、彼女の甘えん坊の声が聞こえてしまうから。


弔おう。私はそう思い、この文章を書いている。

彼女の遺体はすでに回収され、私の手元にない。ならば代わりに、このミケと私の日々の記録を燃やし、弔いにしよう。こんなことで許してもらえるとは思っていない。安らかになんて願える立場ではないことも、重々わかっている。

ただ、煙に乗せて、天国まで届けたい言葉があるから。


貴方を深く傷つけたこの世界。


そんな世界の中でも、私は貴方を確かに愛していたと。

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― 新着の感想 ―
[一言] 怖い、というよりはあまりに悲しいお話ですね。 ミケが猫ではない何かというのは予想できていましたが、話を上手く展開して物語を上手く締めくくっています。 ミケの正体で、全く印象が変わりますよね。…
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